41人目のクラスメイト⑤
夜、夕飯の席で、母が「そういえば」と思い出したように言った。
「氷魚のクラスに、カナカナが転校してきたんだってね」
橘家全員の箸がぴたりと止まる。
――来たか。
予想はしてたけど、ずいぶん早かったなと氷魚は思う。
「カナカナって、まさか、あの弓張奏?」と水鳥が尋ねた。
「そう。アリスを演じていたあの奏ちゃん」
奏主演の『針の城に咲く青いバラ』は母のお気に入りの映画の1つだ。氷魚が奏のファンになったのは、母の影響もある。身近な人の好きなものは、好きになりやすいのかもしれない。
「またまた。うそでしょ。エイプリルフールでもあるまいし」
水鳥がおばちゃんのように手を振る。まったく信じていない様子だ。
「氷魚。今日のお昼、『豪雷軒』で一緒にラーメン食べてたんだって?」
母は気にしたふうもなく言った。
あの場にいた誰かから巡り巡って母に伝わったのだろう。田舎ネットワーク、おそるべしである。
「ああ、うん、まあ。おれだけじゃなくて、いさなさんも一緒だったよ」
氷魚はいさなと奏がラーメンを食べていた姿を思い出す。髪を後ろに縛って真剣にラーメンと向き合う2人に、店全体がざわついていた。
商店街から少し離れたところに位置する中華料理店の豪雷軒は味もいいが、何より量がすごい。巌のような店主が毎日仕込む自家製麺が好評で、お昼時は腹を空かせた野郎どもが押し寄せる人気店だ。
圧倒的に男性客が多い店なので、いさなと奏は明らかに浮いていた。もっとも、2人は気にすることもなくおいしそうにラーメンを食べていたが。
ちなみにいさなは大盛りで、更に餃子とチャーハンも付けていた。
「え、ちょっと、ほんとなの?」
ようやく、水鳥は母と氷魚が嘘や冗談を言っているわけではないと気づいたようだ。元々、母も氷魚もそういう嘘をつくタイプではない。
「ほんとだよ。豪雷軒の店長がさ、色紙を持ってきて弓張さんにサインを頼んだんだ。で、書いてもらったサインを紅翔空の手形の横に飾ってた」
紅翔空というのは鳴城出身の力士である。20年以上前の現役時代には街全体で応援していて、勝つと花火が上がっていたそうだ。優勝した時は文字通りお祭り騒ぎだったらしい。
「有名女優のサインと地元の力士の手形が並んでるって、すごい組み合わせね。――って、そうじゃなくて、カナカナが鳴高に転校してきたってことも驚きなんだけど、なんで氷魚やいさなちゃんと一緒に豪雷軒に行ってるのよ。もう仲良くなったの? あんた絶対自分から話しかけられないでしょ。遠くからもじもじ見てるだけで」
あんまりと言えばあんまりだが、水鳥の弟を見る目は確かである。奏と初めて教室で出会っていたとしたら、おそらく氷魚は姉が言った通りの反応をしていただろう。
「実は、いさなさん繋がりで、弓張さんとは夏休みの合宿で知り合ってたんだ。転校してきたのには驚いたけどね」
「え、あんた、そんなこと一言も言ってなかったじゃない」
「言っても信じてもらえないと思ったから」
理由の一部ではある。だが、本心は別だ。
奏と出会ったことも含めて、夏休みの冒険のことは、誰かに話したら嘘になってしまいそうで、なるべくなら言いたくなかったのだ。
「サインをもらうとか、写真を一緒に撮るとかすればよかったのに」
「さすがに頼めないって、そんなの」
奏なら、頼めば一緒に写ってくれたかもしれないが。
「なるほど。いさなちゃん繋がりだったのね」
母は納得したようにうなずいた。一見ミステリアスないさななら、奏と知り合いでも驚かない、といったところだろうか。
「うん。同じ部活にも入ってもらったよ」
「へえ、すごいじゃない。カナカナと同じ部活なんて」と水鳥は氷魚の肩をばしんと叩いた。ちょっと痛い。
「それで、家にはいつ連れてくるの?」
母がおっとりと微笑んで言った。意味がわからなかった。
「連れてくるって?」
「奏ちゃん。同じ部活なんでしょ」
「そうだけど」
だからって、なんで家に連れてくるという話になるのか。
氷魚の疑問を察したのか、母は、
「いさなちゃんだって連れてきたじゃない」と言った。
つまり母はこう言いたいらしい。
同じ部活のいさなちゃんを家に連れてきたのだから、同様に、奏ちゃんも連れてくるのよね、と。
氷魚は頭を抱えたくなった。一体どういう理屈なのか。
「まあまあ母さん。そう焦らずに。氷魚もだし、何より奏さんの都合があるだろう」
と、父が言った。
「あら。父さんだって、奏ちゃんに会いたいでしょう」
「無論だ」
父は即答した。特に奏ファンではなかったはずだが、やはり有名人には会いたいと思うらしい。
「だけど、無理強いはいけない」
断言する父に、家長の威厳を感じた。
「父さん……」
父が、今日はちょっとだけ格好よく見える。
「まあ、氷魚がカナカナを家に呼ぶなんて、ハードルが高すぎるよね」
水鳥は氷魚を挑発しているわけでも馬鹿にしているわけでもない。単純に、無理だと冷静に判断しているだけだ。
当たっている。しかし――
「そう……残念だけど仕方ないわね。奏ちゃんと映画のお話をしたかったんだけど」
母が頬に手を当てる。
母に他意がないのはわかっているが、妙な罪悪感が芽生えた。
母ならば、奏とさぞや話が合うはずだとは思う。
奏も、決して嫌がりはしないだろう。それどころか喜ぶかもしれない。奏の映画愛は本物だからだ。
氷魚は観念した。
「――わかった。言うだけ言ってみるよ。でも、弓張さんも忙しいし、あんまり期待しないでね」
「ほんと? 嬉しい」
母は少女のように顔を輝かせた。まだ確定してないのだから、あんまり喜ばないでほしい。ぬか喜びで終わったら申し訳ない。
「いつになるか決まったらすぐに教えてくれ。とびっきりの材料を揃えるから」
先ほどの威厳はどこへやら、父がノリノリで言う。
「父さん、まさかお菓子を……?」
「当たり前だ。カナカナに手作りお菓子を振る舞える機会なんて、そうそうないぞ」
「あ、じゃあ母さんはごちそうを作るわね」
なんだか大事になってきた。
「氷魚、大丈夫なの?」
期待でうきうきしている両親とは対照的に、水鳥は冷静だった。
「……大丈夫だといいね」
氷魚は呟いた。
希望的観測なのだった。




