遥かなる蜘蛛の呼び声④
ようやくたどり着いた日渡邸の玄関のドアを開けると、おいしそうな焼きたてパンの匂いが漂ってきた。
匂いを嗅いだ途端、氷魚は猛烈な空腹を自覚した。眠気もあるが今は食い気だ。
いさなと奏も同じだったようで、3人は我先にと靴を脱ぎ、食堂へと向かう。
食堂にいたのは、沢音だけではなかった。
「みんな、お帰りなさい」
ゆったりと微笑む、茉理だった。
「お師匠!」
椅子から立ち上がった茉理に、駆け寄った奏が抱きつく。
茉理はまだ完全には回復してないようで、少しよろめいたが、しっかり奏を抱きとめた。
「あらあら。有名女優に抱きつかれるなんて、一生ものの思い出ね」
茉理はやさしく奏の頭をなでる。
「お師匠、よかった……」
奏の安心しきった顔を見て、やっぱり同い年の女の子なんだなと氷魚は思う。こういう顔の奏も魅力的だ。
「心配かけたわね。――いさっちゃん、凍月ちゃん、氷魚くんも、色々ごめんね」
「ううん、気にしないで。全部終わったから」
「もう少し寝ていてもよかったんだぜ。その方が静かだからな」
「だったら、凍月ちゃんを抱っこして眠るわ」
「……それは勘弁してくれ」
「そうだ、お師匠。実は犯人は――」
「まあ待て。まずは朝食にしたらどうだ。パンが冷めてしまうぞ。おぬしたち、腹が減っているだろう」
勢いよく話しだそうとする奏を、沢音は苦笑しながら止める。
一拍置いて、
「減ってます!」と、見事に氷魚たち3人の声が重なった。
「――そっか。沖津ちゃん、そんなことを」
沢音の心づくしの朝食を満喫した後、話を聞き終えた茉理は物憂げに呟いた。さほど驚いていないように見える。
「お師匠は、気づいていたんですか?」
「確信はなかったけどね。昏睡から目が醒めて、いきさつを沢音から聞いた時に、もしかしたらとは思ったわ。私たちがここに泊まっているって、沖津ちゃんにしか言ってないから。……でも、沖津ちゃん、なんで」
「柾――真琴の父は厳格な堅物で、わしをどこぞの傾国のように見ていたフシがあってな。おそらく、真琴は絶対にわしの顔を見るなと父親に強く言い含められていたのだろう。監視役との過度な接触は確かに協会に禁じられているが、軽く話すくらいなら咎められはせぬ。だが、真琴は頑なにわしに会おうとしなかった。――おぬしたちの話を聞くまで、わしは真琴に嫌われているものと思っていたよ。わしの方から、声をかけに行っていればよかったかもしれんな」
沢音がぽつりと言った。
「そうだったんですね……」
だとしたら、悲しいすれ違いだ。
もしも沖津が沢音と挨拶を交わす程度でも話すことができていたら、今回の事件は起こらなかったかもしれない。
「それにしても、蜘蛛の呼び声か……。真琴を唆しおって」
「沢音さんは心当たりがあるんですか?」
「ああ、知っている。古き神々の一柱よ。南米の地下にある、深さの知れぬ大きな亀裂の端から端へ、そやつは糸を張り巡らせているらしい。一説によると、そやつが糸をかけ終わった時が世の終焉だと言われているな」
世の終焉と言われても、氷魚はうまく想像できない。蜘蛛の糸と世界の終わりが結びつかないのだ。
北欧神話のラグナロクみたいなことが起こるのだろうか。
「それって、邪神なのでは?」
奏の言葉で、氷魚は巨大でグロテスクな怪物たちが地上を闊歩する様子を想像してしまった。
あってはならないことだが、世の終焉の光景としては確かにふさわしいかもしれない。
「人間目線ではな。そやつはそやつが正しいと思うことをしているだけだ」
「まあ、世界が終わるっていうのは眉唾らしいけどな。蜘蛛の神が糸をかけているのは本当だとしても」と凍月が言う。
「そうなんですか! よかった……」
氷魚は安堵の息を吐いた。
「おまえ、素直すぎるだろ。小僧はノストラダムスを信じるクチだな」
「ノストラダムス?」
誰だろう。どこかで聞いた気もするが。
「今の子どもは知らんのか。占星術師だよ。世界は1999年に終わるって、一時話題になったのさ。ノストラダムスの大予言って言ってな」
「もう過ぎてるじゃないですか」
氷魚は生まれてもいない。
「ハズレだったんだろ。つっても、予言集の現物をこの目で見たわけじゃないから、実際のところは俺も知らんが」
「あの時信じていた人たち、一定数いたわよね。本屋さんに関連書がずらっと並んでたりもしたわ」
「だなあ。あやかしの中にもいたぜ。件の予言じゃねえってのに」
当時を生きていた茉理と凍月が懐かしそうに言う。このふたりは、一体どれくらい人の世を見つめ続けてきたのだろうか。
ふと氷魚は、いさながさっきから一言も発していないことに気づいた。
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