遥かなる蜘蛛の呼び声③
少しして、慎重に沖津に近寄った奏は、身をかがめ様子を確かめた。
「完全に気絶してますね。しばらく目を覚まさないと思いますが、念のために縛っておきますか?」
いさなはかぶりを振った。
「――いえ。少しの間、このまま2人でいさせてあげましょう。外に出たら協会に連絡するから」
やさしい声音だった。
いさなも、氷魚と似たような思いを抱いたのかもしれない。
「そうですね。あたしもそれがいいと思います」
「皆さん、大丈夫ですか?」
氷魚は、こちらに歩いてきたいさなたちに声をかける。
「わたしと凍月は平気――って、弓張さん、首の傷は?」
「実は結構痛いです」
顔をしかめて、奏は首を押さえた。出血はまだ止まっていない。人間だったらとっくに倒れているのではないだろうか。
「弓張さん。おれの魔力を使ってよ」
氷魚はためらわず手を差し出した。
氷魚もだいぶふらついているが、まだ動ける範囲だ。奏と比べたら、怪我らしい怪我もない。
「使う?」
いさなが不思議そうに呟く。
「あー……その、あたし、魔力を渡すだけじゃなくて、譲り受けることもできるんです」
なぜか気まずそうに、奏は頬をかく。
「――なるほど。そういうことだったのね」
氷魚の手と奏のお腹を見比べ、いさなは納得したようにうなずいた。
そして、氷魚をやんわりと押しのけ奏に手を差し出す。
「だったら、わたしの魔力を使って。さっきもらったから、お返しするわ」
「え、あの、いさなさん?」
「氷魚くんも疲れてるでしょ」
戸惑う氷魚に、いさなは微笑んで見せた。しかし、目が笑っていなかった。
これ以上無茶をするなという意味なのだろう――たぶん。
氷魚はそう思うことにした。
氷魚たちが廃屋の外に出ると、夜が明けていた。
いさなは氷魚たちから離れると、携帯端末を耳に当てる。協会に連絡するのだろう。
氷魚は大きく伸びをした。隣では奏があくびをかみ殺している。
早朝の空気が清々しい。涼しさの混じった空気だ。夏も終わりに近づいているのを実感する。
太陽の眩しさに目を細め、氷魚はふと思う。
「――そうだ、弓張さん」
「うん?」
「ダンピールって、太陽の光を浴びて大丈夫なの?」
「え、今更?」
「なんか、当たり前のように日光の下を歩いていたから、気にならなかった」
「見ての通り、あたしは平気。母さんは少し苦手みたいだけどね」
奏は両手を広げて見せた。
「それでも、少しなんだ」
完全に偏見だが、吸血鬼は日光を浴びると灰になるイメージがある。
「吸血鬼の個体差だね。強い個体は、日光をなんとも思わないらしいよ。中には日焼けサロンにも通う猛者もいるとか」
「吸血鬼が焼くの? 肌を?」
「そう。こんがり小麦色にね」
奏は笑う。
冗談なのか、それとも本当なのか。
真偽を奏に確かめようとして、氷魚は口を開きかけたが結局やめた。
あえて確かめる必要はないだろう。
いろんな人間がいるように、いろんなあやかしがいる。
小麦色の吸血鬼がいたって、何にもおかしくない――と思う。
「もうすぐ協会の人たちが来るから、そしたら帰ろうか」
通話を終えたいさなが戻ってきた。
「沖津さんって、どうなるんですか?」と奏が尋ねる。
氷魚も訊こうとしていたことだった。
「わたしも詳しくはわからないけど、たぶん、魔術系の財産は没収されると思う。あと、沢音さんに関われなくなるのは確実だね」
「……そうですか」
「なんだ小娘。おまえまさか、あいつに同情してるんじゃねえだろうな」
いさなの肩に乗っている凍月がからかうように言う。
「そんなんじゃないです。ただ、他にやりようはなかったのかなって」
「他も何も、想っているだけじゃ伝わるわけねえだろうが。玉砕覚悟で正面からガツンとぶつかりゃよかったんだよ」
「沖津さんは、それができないから悩んでいたんでしょ。監視役の立場もあるし」と、いさなが言う。
「まったく。人間ってのは、どうして物事を複雑にしたがるかね。――なあ小僧。おまえはどうなんだ」
「どう、とは?」
「好きな女ができたら、ずばっと告白できるのか」
いさなと奏が揃って興味深そうな目を向けてくる。さすが女子だ。コイバナの匂いに敏感である。
「いや、どうでしょうね」
氷魚は目を泳がせた。
「おまえは絶対うじうじ悩むタイプだな。で、悩んでいるうちに目の前でかっさらわれるんだ」
ひどい決めつけと言われようだった。だが、ありそうな気がしてくる。
いさなと奏が、あぁーというような顔をした。2人も凍月と同じ意見なのかもしれない。
「それならいっそ、告白してふられた方がマシですね」
「え!? 氷魚くん好きな女の子がいるの?」
いさなが驚いたように言う。そんなに意外なのだろうか。
「今はいませんけど……」
気になっている存在なら目の前にいるが、当然口にはできない。
「あ、そうなんだ……」
そんなことを話していると、車の音が聞こえてきた。協会の人が来たようだ。
バンから降りた、一見するとどこにでもいそうな2人組が、いさなと二言三言言葉を交わし、廃屋の中へ入っていく。無駄のない、きびきびした動き方だった。
「思ったんですけど」
奏が口を開く。
「どうしたの?」
「あたしたちの帰りって、どうするんですか? もう皆魔力がすっからかんですよね。今の人たちが乗せて行ってくれたりは」
「しないでしょうね。沖津さんたちを運ばなきゃいけないし」
「となると」
「歩きね」
「ですよねー」
凍月に乗せてもらった時はあっという間だったが、ここから沢音の家までは結構な距離があるはずだ。
徹夜明けで身体はぼろぼろ、体調はお世辞にもいいとは言えない。
でも――
歩き出したいさなと奏の後に続き、氷魚は思う。
いさなたちと歩くのならば、苦にはならない。




