今、ここにある危機⑳
「もしかして、沖津さんの後ろの水槽と関係があるんですか?」
氷魚の言葉を聞いた沖津がすっと目を細める。
「どうしてそう思う」
「さっきから、水槽を守るような立ち位置にいるから。――いるんですね。その水槽に、沖津さんが言う神様が。そして、その神様は蜘蛛に関係している」
さきほど見たばかりの大量の蜘蛛を思い浮かべながら、氷魚は言う。
「――」
沖津は何も言わなかった。ただ、じっと氷魚を見つめている。ガラス玉のような目だった。氷魚は続きを口にする。
「さっき知ったばかりなんですが、蠱毒という呪術があるんですよね。沖津さん、あなたは、蜘蛛を集めて蠱毒を行ったのでは?」
沖津は肩をすくめた。
「――当たりだよ」
「でも、だったら、お師匠と人の血は何のために?」と奏が呟く。
蠱毒は呪術だ。神様を作る方法ではない。だとしたら――
「血は、沖津さんが言う『神様』を造るために必要だったんじゃないかな。水槽が赤いのは、茉理さんたちの血が入っているから、とか」
氷魚が言うと、沖津は唇の端をくっと歪めた。
「勘だとしても、大したものだ。魔術の知識がないきみが看破するとは」
だからこそかもしれない。先入観がないから、自由な推理ができた。
「蠱毒に人とあやかしの血液を使って更に術を施したのかよ。とんでもねえ邪法じゃねえか。何ができあがるかわかったもんじゃねえぞ」と、凍月が呆れたように言った。
「ひょっとして、『怪物とその眷属』を盗んだのは」
奏がはっとしたように言う。
「ああ、オークションで競り落とせればよかったんだけどね。カトレアの会長には悪いと思ったけど、彼が持っていても猫に小判だ。――僕には、あの魔道書に記されている召喚と従属の呪文がどうしても必要だった。新鮮な血の調達なんて、自分じゃ難しいからね。その点、あの汚れたものは実に都合がよかった。犠牲者を殺さないように調整するのは大変だったけど、その甲斐はあったよ」
「――そうか。沖津さん、あなたは犠牲者を殺さなかったんじゃない。殺せなかったんですね」
腑に落ちたように、いさなは言った。
「そうとも。魔術絡みで人や『隣人』を殺めたら、さすがに協会の保安部が黙っていない。保安部の狩人に追われるなんて、考えるだけでぞっとするよ」
「神を造るなんて大それたことを企む割には、肝が小さいですね」
「遠見塚春夜の二の舞は御免だからね。今でも逃げ続けてるんだろ? 彼の場合、きみのところのお家騒動がきっかけだったそうじゃないか。名家も色々大変だね」
いきさつを知っているのか、沖津はいさなに挑発的なまなざしを向けた。
「いさな。熱くなるなよ」
「わかってる」
諫めるように言う凍月に、いさなは冷静に返す。
そして、沖津をにらみつけた。
「沖津さん、あなたの魔術犯罪を見過ごすわけにはいきません。おとなしく投降してください、と言いたいところですが、聞いてはくれませんよね」
沖津はうんざりしたように嘆息した。
「――まったく、結局こうなるのか。殺人はできれば避けたかったけど仕方がない。せっかくだから、きみたちには完成したばかりの僕の神への人身御供になってもらおうか」
「じゃあ、あの水槽の中には、本当に……」
「お披露目だ」
素早く身を翻した沖津は、水槽脇のパネルを操作した。
ごうん、と大きな音がして、水槽内の液体が排水されていく。
やがて、『それ』の姿が明らかになった。
水槽の中央、たくさんの管に繋がれた『それ』の大きさは、3メートルほどだろうか。
上半身は人間の女性、下半身は蜘蛛というその姿は、氷魚が想像する神とはあまりにもかけ離れていた。ゲームか何かで見たアラクネという怪物みたいだと思う。
うつむいていて、顔は見えない。
距離があるにも関わらず、はっきりと伝わってくる濃厚で禍々しい気配。
氷魚は我知らず胸に手を当てる。
痛くない。
つまり、汚れたものではない。
『それ』がゆっくりと顔を上げる。
長い黒髪の間から見えたその顔は――
「日渡さん――?」
驚くほど、沢音によく似ていた。




