今、ここにある危機⑰
油断なく身構えたいさなが抜刀した瞬間だった。
どこからか、くすくすと気味の悪い笑い声が聞こえてきた。
キャンプ場の利用客が聞いたのはこの声かと思う。
「どうやら、不可視の吸血鬼のお出ましみたいだな」
「でも、やっぱり気配がありませんよ。声もどこから聞こえるかわからない」
しかし氷魚には、不可視の吸血鬼がどこにいるかなんとなくわかる。
おそらく、氷魚たちの現在の立ち位置から見て10時の方向だ。
汚れたものとの遭遇の回数が増えるごとに、気配察知の精度が上がっていっている気がする。諸手を挙げて歓迎できることではないが、今はありがたかった。
「では、打ち合わせ通りに」
つばを飲み込み、氷魚は気配のする方に向かって歩き出した。
無茶はしないと言ったし、実際そこまで無謀な作戦でもないと思う。
それでもやはり、恐怖は抑えられなかった。
なんだって自分はこんなことを思いついたのだろう。
いい格好をしたいからか。
それも少しはあると思う。
ただ、一番の理由はやはり――
胸の痛みが更に強くなる。
足を止めた氷魚はTシャツに手を入れて、凍月の爪でできた肩の傷跡に触れた。かさぶたになっている。
猿夢の中、胸に刺さった槍を抜いたときを思い出す。
あの時は、一応は夢の中だった。
だが、これは現実だ。
自分でやると言い出しておいて、土壇場で怖くなった。
痛いのはやはり嫌だ。
だが――
血を流す覚悟は、できている。
自分がこんなことを思いついた一番の理由は、いさなと奏をできるだけ危険な目に合わせたくないからだ。
爪を立てる。
槍を抜くよりは絶対にマシだ。
やれ。
氷魚は目を逸らし、思い切り傷跡をかきむしった。
肩から頭にかけて痺れるような激痛が突き抜けた。
手にぬるりとした感触がある。Tシャツから抜いた手を、裾で乱雑に拭う。
大した量ではないかもしれないが、これで血の匂いが辺りに漂う。吸血鬼にとっては魅力的な匂いのはずだ。
反対の手をポケットに突っ込む。
その時だった。
首筋に、あるかなしかの痛みが走った。
作戦通り――今!
氷魚はポケットから容器を取り出し、蓋を開けて中身を気配のする方にぶちまける。
粉が空中に舞い、そして――
いさなが駆けた。
いさなは抜き打ちで氷魚の肩ぎりぎりの辺りを斬りつける。血しぶきが舞った。
「橘くん、平気?」
駆け寄ってきた奏が氷魚の首に手を伸ばし、何かを引きはがす。
奏の手元に目を向けた氷魚は、思わず悲鳴を上げそうになった。
奏が氷魚の首から引きはがしたのは、口に牙が生えた目のない深海魚みたいな物体だった。
テレビの佐賀特集で見たワラスボに似ている。ほとんどエイリアンだ。
こんなのが自分の首に吸いついていたのかと思うと、ぞっとする。
胴体の半分をいさなに断たれたはずなのに、びちびちと奏の手の中で暴れまわっている。奏はそいつを床に叩き付けると、躊躇なく踏みつぶした。
「弓張さん、氷魚くんを安全な場所へ」
「わかりました。さ、橘くん、こっち」
奏に手を引かれ、距離を取った氷魚はようやく可視化した怪物の本体を見た。
全体は2メートル以上あるだろうか。
赤いゼリー状の身体はぶよぶよと波打っており、どことなくイソギンチャクを思わせる。
2本の大きなカギ爪も目を引くが、何よりおぞましいのは胴体から無数に生えている触手だった。
触手にはそれぞれ口がついており、鋭い牙が見て取れる。
さきほど氷魚の首に吸いついたのは、あの触手のうちの一本だったようだ。
吸血鬼というと人型のイメージがあったが、そんな氷魚の思い込みを一笑に付すような姿形をした怪物だった。
「イソギンチャクもどきだね」
奏が呟く。
「確かに、それっぽい」
イソギンチャクと呼ぶにはあまりにも可愛げがなさすぎる気もするが、しっくりくる呼び名ではあった。
「橘くんの作戦、ばっちり決まったね」
「うまくいってよかったよ」
氷魚が立てた作戦はこうだ。
不可視の吸血鬼の気配がわかる氷魚が囮になり、血の匂いで誘い出す。吸血鬼が食いついたら、すかさず粉を使って可視化する。
いたってシンプルである。
血を吸う怪異なら、目の前の血の匂いに反応するはずだという見込みに基づいた作戦だったが、スルーされなくてよかった。
もっとも、スルーされたらされたで、奏やいさなに食いついた瞬間に粉をかけるという次善の策もあったのだが。
とにかく、2人に余計な危険が及ばずに済んだ。
氷魚自身はまったくの無傷というわけにはいかなかったが、首尾は上々だろう。




