今、ここにある危機⑪
「――っ! 弓張さん!」
氷魚の切迫した声で状況を察したらしい奏が、瞬時に戦う人の顔になる。
「犯人はどこからかあたしたちを見ているっていう氷魚くんの推察、当たってるかもね」
氷魚たちからさほど離れていない床の一部が、怪しく光る。
氷魚は懐中電灯の光を向けた。床に奇妙な文様が出現していた。
遠見塚家の道場で時の腐肉食らいを閉じ込めた魔法陣に似ているが、こちらはどこか禍々しい。
空間が揺らぐ。
文様の中央に、一体の奇妙な怪物が出現した。
大きさは2メートル近い。形だけなら大型の類人猿のように見える。あくまで、形だけだ。
身体を覆う毛はなく、ぶよぶよの皮膚がむき出しでだらりと垂れ下がっている。
シワだらけの頭部は一定のリズムで左右に揺れており、目があるべきはずの場所には真っ黒な空洞が広がっていた。
床に着きそうなくらい長い腕の先には、見るからに凶悪なカギ爪がついている。
怪物の顔には一切の表情がない。にもかかわらず、こちらに対する悪意がひしひしと伝わってくる。
「弓張さん、あの怪物は……?」
「橘くんの胸が痛んだってことは汚れたものなんだろうけど、あたしも知らない。とりあえず、ゴリラもどきって呼ぼうか」
油断なく怪物をにらみながら、奏は言った。
「ゴリラが聞いたら気を悪くしそうだけど、しっくりくるね」
恐怖も幾分か和らぐ気がする。名称は大事だ。
ゴリラもどきは足を引きずりながら、ゆっくりと近づいてくる。おぞましい姿に鳥肌が立った。
「あたしたちと仲良くしたい、ってわけじゃなさそうだね」
前に進み出た奏は軽く腰を落とし、半身に構える。
どうやら、戦闘は避けられないらしい。
「どうか、気をつけて」
「任せて」
言うなり、奏は床を蹴り一気に距離を詰める。
髪の色も相まって、雷光のように見えた。
一瞬でゴリラもどきの懐に飛び込む。
反応したゴリラもどきがカギ爪を振るが、すでに奏は身をかがめている。
片手を床に着けて、奏はゴリラもどきの腹部に強烈な蹴りを叩き込んだ。
間髪入れず身体を縦に回転させ、顎をつま先で蹴り上げる。足が描く美しい孤が見えるようだった。
そのまま空中で一回転し、奏はきれいな着地を決める。
惚れ惚れするような連撃だったが、ゴリラもどきはわずかによろめいただけで、さほど奏の打撃が効いている様子はない。
相も変わらず無表情のまま、ゴリラもどきは無造作にカギ爪を振り続ける。
奏はいずれも躱し、器用なボクサーのように的確にカウンターを当てていくが、怪物はびくともしない。
頑丈、というには何か違和感があった。
「どんだけタフなのよ。まったく」
一旦距離を取った奏のぼやきが聞こえてきた。
「弓張さん。さっきみたいに、打撃に魔力を乗せてるの?」
「うん。乗せてる」
尚更妙だ。
魔力を込めた奏の拳は固い扉を容易くぶち抜く。
いくら怪物が桁外れにタフだとしても、あれだけ殴られてぴんぴんしていられるはずがないし、たるんだ皮膚がそこまで強固だとも思えない。
何かからくりがあるのではないか。
考えろ。
自分に戦う力はない。
だが、だからといってただ見ていればいいというものではあるまい。
氷魚がこれまで遭遇した汚れたものたちは、決して無敵ではなかった。通常の武器が効きにくいにしても、魔力のこもった武器ならば通用していた。
だったら、魔力が乗った打撃も通用するのが道理のはずだ。
それが効かないということは――
奏は床を蹴り、十分な速度を乗せた肘を怪物の胸に叩き込む。相手が人間だったら、骨の一本や二本は折れていたに違いない。
だが、怪物は揺るがなかった。
いい加減焦れたのか、奏は強引に拳を突き上げた。
それが仇になった。
意識したのか偶然か、ゴリラもどきが顔を揺らし、奏の拳は空を切る。
ゴリラもどきが、薙ぎ払うようにカギ爪を横に振るう。
「っぐ……」
鮮血が飛び散った。




