今、ここにある危機⑩
「ありがとう橘くん、元気が出た」
奏は拳を握ってみせる。震えはもう止まっていた。
「うん、よかった。それじゃ改めて、あちこち調べてみようか。通用口が隠されているかもしれないし」
「ヒビがあったら、爆弾を使えば活路が開けるかもね」
2人並んで歩きながら、奏は物騒なことを言った。
「持ってるの!?」
銃器を所持していた真白のことを思えば、奏が爆弾を持っていてもおかしくはない。
「残念ながら」
奏は悪戯っぽく笑う。
「ほっとしたような、残念なような」
ほどなくして2人は壁に突き当たった。何の変哲もないコンクリートだ。
「しるしをつけておこうか」
奏はバッグから油性ペンを取り出すと、壁にでっかい弓の絵を描いた。弓張という名字にちなんだのかもしれない。
「じゃあ、ここを起点にぐるっと一周ね」
「わかった」
氷魚が先頭に立ち、壁に手を当てて、2人は再び歩き出す。
5分くらい歩いただろうか。
壁伝いに一周して、氷魚たちは奏が絵を描いた場所まで戻ってきた。
期待していたような発見はなかった。
失望を顔に出さないようにしつつ、氷魚は「少し休もうか」と奏に声をかけた。
「その前に調べたいところがあるんだけど、いい?」と奏が言う。
「もちろん」
今度は奏が先頭に立った。
少し歩いたところで足を止める。
「やっぱり。ここ、なんだか他のところと感触が違うみたい」
奏は拳で壁を軽く叩き、耳を当てる。
「そう?」
ぺたぺた触ってみるが、氷魚には違いがわからなかった。
「魔術による偽装……いや、単純に薄いだけかな」
奏が呟く。
「せーので体当たりでもしてみる?」
もちろん、冗談のつもりだった。
「いいアイデアだけど、拳1つで十分だよ」
「――はい?」
奏も冗談を言っているのかと思った。しかし、奏の目は真剣そのものだ。
「橘くんは離れてて」
言われるままに、氷魚は距離を取る。
壁の前に立った奏は足を肩幅ほどに開き、大きく深呼吸をした。
左手を前に、右手は腰にひきつける。
びりびりと、奏を中心に空気が振動しているような錯覚を覚える。
「はっ!」
氷魚が固唾を呑んで見守る中、奏は裂帛の気合と共に縦拳を壁に叩き込んだ。
爆発音が響き渡り、扉の形に壁が砕け散った。
「嘘でしょ……」
嘘ではない証拠に、砕け散った壁の向こうに通路が見える。奏が破壊したのは隠されていた扉だったようだ。
コンクリートの壁と比べたらまだ薄かったのかもしれないが、だからといってパンチ一発で壊れるようなものでもあるまい。
ただのパンチなら、だが。
「もしかして、中国武術の発勁、とか?」
うろ覚えだが、そういう技術があると姉が言っていた気がする。
一時、姉は市が開催する太極拳のカルチャーセンターに通っていたのだ。健康法のイメージが強い太極拳だが、それは側面の1つで、実際はゴリゴリの戦闘術らしい。
「ううん。単純に拳に魔力を集中して殴っただけ」
思ったよりシンプルな方法だった。
「怪我とかしてない?」
「この通り」
奏の拳をかざしてみせる。傷一つついていない。
「――」
これまで色々と己の常識を書き換えるような場面に遭遇してきた氷魚だったが、今回の奏パンチもインパクト抜群だった。
あの可憐なカナカナが拳1つで扉をぶち抜くなど、一体誰が思うだろうか。
「もしかして引いちゃった? 我ながらゴリラめいてるよね」
ゴリラでも無理だと思うが、口には出さない。
「――いや、己の拳で活路を開くって、格好いいと思うよ」
ギャップがすごすぎてショックを受けたが、格好いいと思ったのは本心ではある。
男子なら、一度くらいは己の拳で壁をぶち壊したいと思うのではないだろうか。カンフー映画を観た後なんかは、特に。
「そう? ありがと」
奏はまんざらでもなさそうに笑う。
「それじゃあ、先に進もうか」
奏がそう言った瞬間だった。
氷魚の胸が、じくりと痛んだ。




