今、ここにある危機⑨
「ありがとう。助かるよ」
携帯端末のライトを使う手もあるが、バッテリーはできれば節約したい。
懐中電灯を受け取った氷魚はスイッチを入れ、真上を照らす。上もやはりコンクリートだ。氷魚たちが落ちた穴は見えない。どうやら閉じてしまったようだ。
今頃、上ではいさなが心配しているに違いない。申し訳なく思う。
連絡できないかと携帯端末を確認したが、地下だからか圏外だった。
気を取り直し、続けて辺りを照らしてみる。四方は壁に囲まれており、出口らしきものはない。
牢獄、という単語が頭をよぎる。
「閉じ込められちゃったみたいだね」
氷魚が言おうかどうか迷っていた現状を、奏は軽い口調で口にした。
「この空間、何なのかな。侵入者を閉じ込めるっていうにしても、広すぎるし」
「橘くん、冷静だね」
「弓張さんがいるからね。ひとりだったら泣き叫んでるか、隅っこで膝を抱えていたかも」
言ってから思った。そもそも穴に落ちていたのが自分1人だったら、きっとあっけなく死んでいたはずだ。
身近に迫っていた死の可能性を、氷魚は今更ながらに実感する。
気を抜いていたわけではない。無茶をしようと思っていたわけでもない。もちろん死にたいなんて微塵も思ってない。
それでも、結果として死にかけた。
どうして自分はこうなのだろう。
自分はひょっとして、どうしようもなく己の命に無頓着なのではないか。
そしてそれに自覚がないというのが何よりも怖いことのように思える。
一体いつからこうなったのだろう。
幼少期に生死の境をさまよう経験をしたからか、それとも元からか――
「――じっとしてても仕方ないし、出口がないか調べてみようか」
付きまとう恐怖を振り払うように、氷魚は努めて明るく言った。
「そうだね。そうしよう」
何気ない奏の口調だったが、引っかかるものがあった。
「弓張さん、どうかした?」
氷魚が目を向けると、奏は慌てたように手を後ろに引っ込める。
「! もしかして、怪我をしたとか?」
「あ、いや、そうじゃないよ。ただ、ちょっと……」
奏が気まずそうに口ごもる。
「見せて。怪我をしたのなら、手当てしないと」
氷魚が強引に迫ると、奏は観念したように両手を前に差し出した。
奏の手は、細かく震えていた。
「弓張さん……」
「――情けないんだけど、怖いの。あたしのミスでこんな状況になっちゃって、下手したら橘くんが死んでいたかもしれなくて、お師匠も先輩もいなくて、出口があるかどうかもわからなくて」
演技などでは決してない。奏は、紛れもなく不安な表情をしていた。
確かに、奏の身体能力は並の人間を凌ぐ。
けれども、心はどうなのか。
茉理が昏睡状態になった時にも思ったが、奏はまだ15歳の少女なのだ。
表舞台で堂々と振る舞える強さがあっても、特殊な状況下で必要とされる精神の強さはまた別種のものだろう。
人里離れた廃屋の地下に閉じ込められている。
こんな、尋常ならざる状況で冷静さを保つのは難しいに違いない。
「橘くんは、なんでそんなに落ち着いていられるの?」
なぜと訊かれても、氷魚は自分でも理由がわからなかった。現状より絶望的な状況を経験しているからかもしれない。
ただ、1つだけはっきりしていることがある。
「いや、おれも怖いよ」
「え?」
「無茶をするなっていさなさんに釘を刺されてたのに、またやらかしたからさ。後できっと大目玉だ」
氷魚の言う怖いと奏の言う怖いはもちろん違う。
だが、多少なりとも奏の緊張を和らげる効果はあったようだ。
「――そっか。あたしも一緒に謝る。元はと言えば、あたしの責任だからね」
「違うよ。おれがやりたくてやったことだから、おれの責任」
「――あたしの手をつかんだこと、後悔してない?」
「してない。同じ状況になったら、きっと何度でも同じことをする」
「よく躊躇しなかったね」
「身体が勝手に動いてた。……うまくいかなかったけど」
どうにも締まらないのが自分らしいとは思う。アクション映画のヒーローのようにはいかない。氷魚を抱きかかえた奏の方がよほど格好いいだろう。
奏だけではない。
いさなも、真白も、氷魚が最近出会った女の子は、みんな眩しいくらいに格好いい。
外見だけの話ではない。彼女たちは身の内に強い輝きを持っているのだと思う。
「あたしはすごく助かってる。ひとりじゃないから」
「だったら、おれが落ちた甲斐はあったね」
言って、氷魚は微笑んだ。釣られたように、奏も笑った。




