今、ここにある危機➆
「この中だな」
凍月が停止する。
森の中にひっそりとたたずむ、朽ちかけた日本家屋の前だった。
どこをどれだけ走ったのか。結構な距離を移動した気がする。
氷魚たちは凍月の背中から降りた。凍月は見る間に縮んでいく。
「弓張さん、消耗はどう?」
「思ったより大きいです。けど、まだ行けますよ」
「ごめんね。凍月、大食いだから」
「おまえにだけは言われたくねえぞ」
「――それにしても、この廃屋、なんだろうね」
いさなが露骨に話を逸らしたが、それは氷魚も気になるところだった。
「凍月さん、ここって、場所的にはどの辺かわかりますか?」
「沢音の家からキャンプ場を挟んで、ちょうど反対側の辺りだな」
氷魚が訊くと、凍月はすぐに答えてくれた。おかげで現在地が判明する。
「だったら、甲本山別荘地ですね。元ですけど」
「なるほど。元、か」
「はい。バブルの頃に別荘地として整備されたんですが、バブルが弾けると同時に地価も下落して……といったコースです。アクセスも悪いので、ずっとほったらかしみたいですね」
「氷魚くん、よく知ってるね」
「この辺りの怪異や怪談を調べている時に見たサイトに書いてありました」
得意げに答えはしたが、知っていたのはたまたまだ。
「いかにも肝試しに使われそうな廃屋――っと、鍵はかかってませんね」
玄関の戸を少し引き開け、奏はそっと中を覗き込む。
いさなはバッグから懐中電灯を取り出した。
「踏み込みましょう。わたしと凍月が先頭、氷魚くんが真ん中、殿は弓張さんで」
「はい」
「わかりました」
「今のところ妙な気配はしないが、油断するなよ」
凍月がいさなの肩に跳び乗る。
「あなたこそ」
凍月にそう返して、いさなは玄関の戸を静かに開けた。
黒々とした廊下が伸びている。
いさなが懐中電灯で照らすと、靴の跡が見て取れた。犯人のものだろうか。少なくとも、人の出入りはあったらしい。
靴を履いたまま踏み込むのはなんだか気が引けるが、素足で歩くわけにもいかない。いさなに続き、氷魚はへっぴり腰で廊下を歩きだす。
元は贅を尽くした家屋だったようで、かなりの広さだ。
しかし今、かつての豪奢さは見る影もない。
襖は破れ、部屋はどこも荒れ放題。畳はささくれ立っている。
朽ちかけた日本家屋、雰囲気抜群である。
夜中にこんなところを探索するだなんて、1人じゃ絶対に無理だ。たとえ朝だって御免こうむる。
廃墟を散策したり写真を撮ったりする愛好家は少なくないと聞くが、その人たちは怖くないのだろうか。
自分は怖い。臆病だと笑われようとも、どうしようもないと氷魚は思う。
ただ、少しだけ、ほんの少しだけだが、いさな、凍月、奏と一緒にお化け屋敷じみた廃屋を探索しているという状況に、わくわくしている自分がいるのが不思議だった。
「やけに蜘蛛の巣が多いですね」
曲がり角を曲がったところで、氷魚の後ろを歩く奏が言った。
「上は照らしてないけど、見えるの?」
「はい、夜目が効くので」
さすがはダンピールである。氷魚が目を凝らしてみても、懐中電灯の光が届かない場所は暗闇しか見えない。
「こんな場所だ。蜘蛛の巣くらい、別に珍しくねえだろ」
正面に視線を向けたまま、凍月が言う。
「そうなんですけどね。巣ばっかりで、蜘蛛の姿がないんですよ」
「獲物が見つからなくて、どっか行っちまったんじゃねえか」
「小さな虫とか、いっぱい入り込んでそうなものですが」
「待て。いったん止まれ」
唐突に、凍月が鋭い声で言った。
「どうしたの?」
「妙だ。茉理の妖力の気配がこのあたりで途絶えている」
長い廊下の真ん中である。
廊下が伸びている先の左右にはいくつか襖や戸が見えるが、他には何もない。
「忍者屋敷よろしく、隠し通路でもあるんじゃないですか」
氷魚の隣に進み出た奏が、側の柱を拳で軽く叩く。
「スイッチとか……ないか」
「そんな、インディ・ジョーンズじゃあるまいし」
「隠しスイッチを押したら、大きな岩が転がってきたりして」
「それっぽい床を踏んだら、鋭い針びっしりの吊り天井とか落ちてきたり」
「おいおまえら、縁起でもないこと言うなよ」
凍月に咎められ、氷魚と奏は揃って首を竦める。ちょっと緊張感が足りなかったかもしれない。
「周辺を調べてみましょうか」
懐中電灯であちこちを照らしていたいさなが冷静に言った。




