今、ここにある危機②
氷魚はすぐさま照明をつける。
ベッドで寝ている茉理の姿が真っ先に目に入った。
「お師匠?」
やはり、返事はない。
奏と氷魚は、恐る恐る茉理に近寄った。
確認しなくてはいけない。だが、確認した途端、胸に抱えるこの不安が現実のものになりそうで、怖かった。
「お師匠!」
茉理の顔を覗き込んだ奏が悲鳴じみた声を上げる。
氷魚は息を呑む。
茉理の顔色は蒼白だった。
息はしているようだが、明らかに尋常な様子ではない。奏の呼びかけにも応えないし、意識がないようだ。
病気? けど、あやかしが病気になるのか。
どうすればいい?
氷魚の頭の中が混乱で白くなりかける。
「ど、どうしよう。橘くん」
隠しきれない不安がにじみ出ている奏の声で、氷魚は我に返った。
大人たちに混じって堂々と演技する度胸を持つ奏だが、頼れる師匠が意識不明になるというのはさすがに想定外だったようで、明らかにパニックになっている。
慌てふためいているのは氷魚も同じだったが、ここで自分が取り乱すわけにはいかない。
携帯端末を握りしめる。
落ち着け、考えろと自分に言い聞かせる。
救急車――論外だ。
茉理はあやかしなのだ。身体の仕組みがどうなっているのかはわからないが、人間の病院に運ぶのはいかにもまずい。
いさなに連絡――だめだ。
いさなはキャンプ場だ。助言は聞けるかもしれないが、すぐに駆けつけられるわけではない。
だったら――
そこで氷魚は自分がとんでもない見落としをしていたことに気づいた。
いるじゃないか。頼れる存在が。
「こうしよう。弓張さんは茉理さんを見ていて。おれは日渡さんを呼んでくる。いい?」
奏の肩をやさしくつかみ、氷魚はあえてゆっくりとした口調で言う。
「え……あ、う、うん。お願い。――気をつけて」
穏やかに言った効果があったのか、奏はわずかに落ち着きを取り戻したようだ。
氷魚は微笑んでうなずくと、奏の肩から手を離し、茉理の部屋を出た。
静まり返った暗い屋敷の中を慎重に進む。
胸の痛みは今のところ治まっているが、どこに何が潜んでいるかわからない。
そろそろと階段を下り、一階に着いた。
顎を伝う汗を手の甲でぬぐう。
夜の空気はひんやりとしているが、汗が止まらない。
大した距離を移動したわけではないのに、ひどく消耗していた。
呼吸を整える。
もう少しだ。
用事があれば声をかけてくれと言われていたので、沢音の部屋の場所はわかる。
走り出したいのをぐっとこらえ、辺りに気を配りながら、氷魚はじれったくなる速度で歩を進める。
一体どれくらいかかったのかわからないが、どうにか沢音の部屋の前に到着した。
そこで氷魚はふと、沢音も茉理と同じように意識不明になっていたらどうしようという不安に駆られた。
妄想でしかないのに、恐怖のあまり叫び出しそうになる。
つばを飲み込む。
ドアをノックして呼びかける。
「日渡さん、夜遅くにすみません」
蚊の鳴くような声だった。これでは聞こえないに決まっている。
「日渡さん、起きてください!」
遠慮している場合ではない。再びノックして、今度は声を張り上げた。
ややあって、ドアが開いた。浴衣のような寝間着を着た沢音が姿を見せる。
「どうした。何かあったのか」
沢音が無事だったのでひとまず安堵した。だが、気を抜くのはまだ早い。
「茉理さんがぐったりしていて、原因がわからないんです。それで、日渡さんに診てもらいたくて」
経緯は省き、必要な情報だけを伝える。発見のきっかけになった胸の痛み云々は後回しだ。
「ふむ。わしは専門家ではないが、診るだけ診てみよう」
沢音の落ち着きが、今は何よりも頼もしい。
「お願いします」
沢音を伴い、氷魚は二階へと戻る。
「……橘くん。沢音さんも」
茉理の部屋に入ると、祈るように茉理の手を握りしめていた奏が顔を上げた。
「どれ。うむ、これは確かにひどい顔色だな。飲みすぎてもこうはなるまい」
茉理の顔を覗き込んだ沢音は、どこか呑気な感想を漏らし、茉理の額に手を当てた。
そのまま目を閉じた沢音は、しばし無言だった。
「ど、どうですか?」
しびれを切らしたように奏が尋ねる。
「ごっそりと妖力が抜かれているな。おそらくは、血液も」
目を開けて、沢音は言った。
「血液と、妖力?」
「ああ。――うむ、これだな」
茉理の首周りを検分していた沢音は、首筋にある小さな傷を指さした。鋭い牙を持った生物に噛まれた傷のように見える。
「っ! あたしじゃないです!」
奏が弱々しく首を振る。
「当たり前だ。誰もおぬしを疑ってなどおらぬ。見ろ」
沢音が指をさした先を見れば、窓が開け放たれていた。おそらくはずっと開いていたのだろう。茉理しか見ていなかったせいか、全然気がつかなかった。




