緋色の涙
「ねえ、氷魚くん」
茉理がやさしい声音で呼びかける。
「はい」
「あなたは、沢音の代わりに怒ってくれたのね」
「え――?」
「人とあやかしの間にある、どうにもならない理不尽に、あなたは怒ったんでしょ」
「そう、なんでしょうか?」
確かに怒ってはいたが、氷魚は自分でも怒りの正体がわからなかったのだ。
「そうよ。きっとね」
茉理はふんわりと笑い、立ち上がって大きく伸びをする。
「少し飲みすぎたみたい。私はもう寝るわね。おやすみなさい」
「うむ。おやすみ」
「おやすみなさい」
茉理がいなくなると、急に食堂が静かになった気がした。
「わしはもう少し飲んでから寝る。おぬしはもう寝た方がいいぞ。マグカップはそのままでいいからな」
「わかりました」
まだほのかに温かいホットミルクを飲み干し、氷魚は立ち上がる。さすがに眠くなってきた。
「――そうだ、氷魚。訊きたいことがあるのだが」
「なんですか?」
「わしが幼いおぬしを家族の元へ送り届けた後、身体はなんともなかったか。わしの妖気は幼子には毒だからな。体調を崩さなかったか、気になっていた」
「――全然。なんともありませんでしたよ。昔から、身体は丈夫なんです」
いさなの件で嘘をつくことは懲りた。だが、この嘘ならば許されると思う。
熱が出て生死の境をさまよいはしたが、結果的に自分は死ななかった。
沢音に知ってもらうのは、今自分が生きているという事実だけでいい。
ふと、源之助の伝説を作った人たちも、こんな気持ちだったのだろうかと思った。
「ならば、よかった」
「ありがとうございます。日渡さんが見つけてくれなかったら、おれはきっとここにはいません」
「大袈裟な。わしが見つけずとも、他の誰かが見つけていただろうさ」
「だとしても、最初に見つけてくれたのは、日渡さんですよ」
「む……そうか」
「はい。じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
そうして、氷魚は食堂を後にする。
ホットミルクを飲んだだけではない温かみが、胸の内にあった。
誰かに揺さぶられている。
「橘くん、そろそろ起きる時間だよ」
聞き覚えがある声だった。誰の声だろう。テレビでよく聞いた声のような気がするのだが。
氷魚はうっすらと目を開ける。
「あ、起きた? おはよう」
金髪に紅い瞳の女の子がこちらを覗きこんでいた。
氷魚は一瞬で覚醒した。
聞き覚えがあるはずだ。子役からスターになった女優、カナカナ――奏の声なのだから。
どうしたって氷魚と接点があるはずがないのだが、どんな縁か、昨日、知り合ったのだ。
未だに信じがたいが、事実だ。
「――おはよう。弓張さん」
「冷静だね。そこは『なんで弓張さんがおれの部屋に!?』とか言うところじゃない?」
言い方が氷魚そっくりだし、いかにもこの状況で氷魚が言いそうなセリフだった。会ったばかりなのに、よく人を見ていると思う。
「言いそうになったけど、言葉が出てこなかった」
「なんでさ」
「驚きすぎて、かえって冷静になったから」
「そっか。やりすぎたか。橘くんのびっくりする顔を見たかったんだけど」
「残念だったね」
「そうでもないよ。かわいい寝顔は見られたから」
「――っ!」
顔が熱くなる。氷魚は思わず掌で顔を隠した。
そんな氷魚の顔を見て、奏はにやりと小悪魔めいた笑みを浮かべた。
「そういう顔も悪くないね」
不覚だった。
猿夢から目覚めた朝を思い出す。
あの時はそれどころではなかったが、いさなにもばっちり寝顔を見られていたのだ。よだれとかたらしていなかっただろうか。
「――氷魚くん、今、違う女の子のことを考えていたでしょ」
唐突に、奏は言った。底冷えがしそうな声だった。
「あ……え?」
掌をのけてみれば、恨みがましい目でこちらを見つめる奏がいた。どういうことなのかと困惑する。
「私だけを見ていてくれるって、氷魚くん言ったよね」
ぞっとする。当然そんなことを言った覚えはない。
「……あの、弓張さん?」
一転、奏は狂気的な笑みを浮かべた。
「そうだ。いいこと考えた。目があるからいけないんだ。取っちゃおう。――最後に私の顔をよく見て、心に焼き付けておいてね」
すっと表情を消した奏が、氷魚の目に手を伸ばす。
この場面、どこかで見た覚えがある。
ああ、そうだ。
「――『緋色の涙』」
ぴたりと、奏の手が止まった。
「よくわかったね。マイナーな方なのに」
奏が出演している、倒錯的な愛を描いた映画だ。
奏が演じるヒロインは、恋人が他の女の子を見ることにすら嫉妬し、ついには恋人の目をえぐり出すのだ。
純愛映画だと言う人もいるが、氷魚の目にはサイコホラーにしか映らなかった。あんなの怖すぎる。下手な怪異顔負けだ。
「にしても、弓張さん、人が悪いよ。本気で焦った」
完全に奏の作った雰囲気に呑まれていた。
「ごめんごめん。――ああでも、橘くん。思ってることとか結構顔に出やすいから、彼女といる時とか、気をつけた方がいいよ」
どうやら奏はそれを言いたいがために一芝居打ったらしい。
「彼女なんていないよ」
「そうなの?」
「うん。弓張さんこそ、こんなことしたら、彼氏が怒るよ」
「彼氏なんていないよ」
「え……」
意外な気がした。
格好いい俳優の彼氏がいそうなのに――と思ったが、すぐさまこれは偏見だなと反省する。




