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この怪異は誰のもの?  作者: イゼオ
第七章 遥かなる蜘蛛の呼び声
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緋色の涙

「ねえ、氷魚ひおくん」

 茉理まつりがやさしい声音で呼びかける。

「はい」

「あなたは、沢音さわねの代わりに怒ってくれたのね」

「え――?」

「人とあやかしの間にある、どうにもならない理不尽に、あなたは怒ったんでしょ」

「そう、なんでしょうか?」

 確かに怒ってはいたが、氷魚は自分でも怒りの正体がわからなかったのだ。

「そうよ。きっとね」

 茉理はふんわりと笑い、立ち上がって大きく伸びをする。

「少し飲みすぎたみたい。私はもう寝るわね。おやすみなさい」

「うむ。おやすみ」

「おやすみなさい」

 茉理がいなくなると、急に食堂が静かになった気がした。

「わしはもう少し飲んでから寝る。おぬしはもう寝た方がいいぞ。マグカップはそのままでいいからな」

「わかりました」

 まだほのかに温かいホットミルクを飲み干し、氷魚は立ち上がる。さすがに眠くなってきた。

「――そうだ、氷魚。訊きたいことがあるのだが」

「なんですか?」

「わしが幼いおぬしを家族の元へ送り届けた後、身体はなんともなかったか。わしの妖気は幼子には毒だからな。体調を崩さなかったか、気になっていた」

「――全然。なんともありませんでしたよ。昔から、身体は丈夫なんです」

 いさなの件で嘘をつくことは懲りた。だが、この嘘ならば許されると思う。

 熱が出て生死の境をさまよいはしたが、結果的に自分は死ななかった。

 沢音に知ってもらうのは、今自分が生きているという事実だけでいい。

 ふと、源之助げんのすけの伝説を作った人たちも、こんな気持ちだったのだろうかと思った。

「ならば、よかった」

「ありがとうございます。日渡さんが見つけてくれなかったら、おれはきっとここにはいません」

「大袈裟な。わしが見つけずとも、他の誰かが見つけていただろうさ」

「だとしても、最初に見つけてくれたのは、日渡さんですよ」

「む……そうか」

「はい。じゃあ、おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 そうして、氷魚は食堂を後にする。

 ホットミルクを飲んだだけではない温かみが、胸の内にあった。


 誰かに揺さぶられている。

たちばなくん、そろそろ起きる時間だよ」

 聞き覚えがある声だった。誰の声だろう。テレビでよく聞いた声のような気がするのだが。

 氷魚はうっすらと目を開ける。

「あ、起きた? おはよう」

 金髪に紅い瞳の女の子がこちらを覗きこんでいた。

 氷魚は一瞬で覚醒した。

 聞き覚えがあるはずだ。子役からスターになった女優、カナカナ――かなでの声なのだから。

 どうしたって氷魚と接点があるはずがないのだが、どんな縁か、昨日、知り合ったのだ。

 未だに信じがたいが、事実だ。

「――おはよう。弓張ゆみはりさん」

「冷静だね。そこは『なんで弓張さんがおれの部屋に!?』とか言うところじゃない?」

 言い方が氷魚そっくりだし、いかにもこの状況で氷魚が言いそうなセリフだった。会ったばかりなのに、よく人を見ていると思う。

「言いそうになったけど、言葉が出てこなかった」

「なんでさ」

「驚きすぎて、かえって冷静になったから」

「そっか。やりすぎたか。橘くんのびっくりする顔を見たかったんだけど」

「残念だったね」

「そうでもないよ。かわいい寝顔は見られたから」

「――っ!」

 顔が熱くなる。氷魚は思わず掌で顔を隠した。

 そんな氷魚の顔を見て、奏はにやりと小悪魔めいた笑みを浮かべた。

「そういう顔も悪くないね」

 不覚だった。

 猿夢から目覚めた朝を思い出す。

 あの時はそれどころではなかったが、いさなにもばっちり寝顔を見られていたのだ。よだれとかたらしていなかっただろうか。

「――氷魚くん、今、違う女の子のことを考えていたでしょ」

 唐突に、奏は言った。底冷えがしそうな声だった。

「あ……え?」

 掌をのけてみれば、恨みがましい目でこちらを見つめる奏がいた。どういうことなのかと困惑する。

「私だけを見ていてくれるって、氷魚くん言ったよね」

 ぞっとする。当然そんなことを言った覚えはない。

「……あの、弓張さん?」

 一転、奏は狂気的な笑みを浮かべた。

「そうだ。いいこと考えた。目があるからいけないんだ。取っちゃおう。――最後に私の顔をよく見て、心に焼き付けておいてね」

 すっと表情を消した奏が、氷魚の目に手を伸ばす。

 この場面、どこかで見た覚えがある。

 ああ、そうだ。

「――『緋色の涙』」

 ぴたりと、奏の手が止まった。

「よくわかったね。マイナーな方なのに」

 奏が出演している、倒錯的な愛を描いた映画だ。

 奏が演じるヒロインは、恋人が他の女の子を見ることにすら嫉妬し、ついには恋人の目をえぐり出すのだ。

 純愛映画だと言う人もいるが、氷魚の目にはサイコホラーにしか映らなかった。あんなの怖すぎる。下手な怪異顔負けだ。

「にしても、弓張さん、人が悪いよ。本気で焦った」

 完全に奏の作った雰囲気に呑まれていた。

「ごめんごめん。――ああでも、橘くん。思ってることとか結構顔に出やすいから、彼女といる時とか、気をつけた方がいいよ」

 どうやら奏はそれを言いたいがために一芝居打ったらしい。

「彼女なんていないよ」

「そうなの?」

「うん。弓張さんこそ、こんなことしたら、彼氏が怒るよ」

「彼氏なんていないよ」

「え……」

 意外な気がした。

 格好いい俳優の彼氏がいそうなのに――と思ったが、すぐさまこれは偏見だなと反省する。

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