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この怪異は誰のもの?  作者: イゼオ
第七章 遥かなる蜘蛛の呼び声
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やさしい蜘蛛は母の夢を見るか

「どうした氷魚ひお。不満そうだな。わしの話がつまらなかったか」

 話し終えた沢音さわねは、氷魚の顔を見て唇の端を持ち上げた。

「おれは、どっちかっていうとハッピーエンドが好きなんです」

「だったら、文句のつけようがないハッピーエンドではないか」

「どこがですか。そりゃ、源之助げんのすけさんは幸せになったかもしれないけど、日渡さんは……」

 氷魚が読んだ伝説では、源之助は蜘蛛くもの正体を知っても逃げ出したりなんかしなかった。その胆力を褒め讃えた蜘蛛は、淵に沈んでいた財宝を源之助に差し出すのだ。

 源之助は財宝の一部を使って恵淵に碑を作り、蜘蛛を水難除けの神として祀る。そうして蜘蛛は新たな恵淵の主となり、その土地の人々をずっと見守り続ける。

 沢音の話と人が残した伝説、どちらが本当なのかなんて、考える必要はなかった。

 蜘蛛の正体を知って逃げ出した英雄の話など都合が悪い。大ウナギを退治したという事実だけがあればよかったのだ。

「わしは、今の話に出てきた蜘蛛がわしだとは一言も言ってはおらぬぞ」

 確かにその通りだ。だけど――

「何か言いたそうだな」

 猪口をつかみ中身を飲み干して、沢音は氷魚をねめつけた。

 腹の中に熱があった。

 この問いは、ひょっとしたら沢音の逆鱗に触れるかもしれない。

 しかし氷魚は、どうしても聞かずにはいられなかった。

 熱が、氷魚の口を動かした。

「おれたちによくしてくれるけど、日渡ひわたりさんは、いえ、蜘蛛は、人を恨んではいないんですか」

 熱の正体は、怒りだった。

 氷魚は、怒っていた。

 義憤などという大層なものではないと思う。これはもっと単純な怒りだ。

 源之助に対してではない。そもそも、彼を非難する権利など氷魚にはない。

 同じ状況に置かれたとして、自分は決して逃げ出さないぞという自信なんて氷魚のどこにもないからだ。

 むしろ、ウナギのバケモノを退治した源之助を純粋にすごいと思う。

 ならば蜘蛛に受けた恩を忘れ、蜘蛛が住まう恵淵を壊そうとした人々に対する怒りかというとまた違う。

 だとすればこれは、何に対する怒りなのか。

「恨む――恨むか」

 沢音はおもむろに猪口を置き、たおやかな手できれいな顔をつるりと撫でた。

 氷魚は息を呑んだ。

 沢音の美しい顔は、見るも恐ろしい蜘蛛の顔へと変わっていた。

「蜘蛛が恨んでいると言ったら、おぬしはどうするのだ。それこそ人身御供として、生きたまま蜘蛛に喰われてみるか」

 蜘蛛特有の複眼が氷魚をぎょろりとにらんだ。

 蜘蛛の顔を、拡大鏡で見たらこういう感じなのだろうか。

 人と同じ大きさの蜘蛛の顔に、氷魚は本能的な恐怖を感じる。蜘蛛が自然界の優秀な捕食者だという事実を否応なく思い知らされる。

 身がすくむが、氷魚は目を逸らさなかった。

 ここで自分までもが目を逸らし逃げ出したら一体沢音はどう思うか。

 目の前の、蜘蛛の顔をした沢音は確かに恐ろしい。だが、氷魚が逃げた場合の沢音の気持ちを想像する方が、遥かに恐ろしかった。

「おれを食べることで蜘蛛の気が済むのなら、と言えたら格好いいんでしょうが、すみません、無理です。家族やいさなさんが悲しみますし、第一まだ死にたくないです」

 嘘偽りのない氷魚の本音だった。

 沢音に氷魚を害する気がないことはわかっている。どうぞ食べてくださいと言ったとしても、本当に食べたりはしないだろう。

 だが、だからといって、上っ面だけの不誠実な返答をするわけにはいかなかった。

「正直なやつだな」

 しばし氷魚をにらんでいた沢音だったが、やがて再び手で顔を撫でた。美しいかんばせに戻ってほっとする。

「氷魚。蜘蛛は――ああもういい。わしは、源之助を、人を恨んでなどおらぬよ。さすがにねぐらを奪われるのは看過できなかったので、暴れはしたがな」

「――」

「人の弱さ、身勝手さ、傲慢さ――そういう面も含めて、わしは人をいとおしいと思うのだ。いや、思うようになった、だな。源之助をはじめ、人との関わりを経て、わしの考えは変化したのだろう」

 沢音の慈愛に満ちた表情を見た瞬間、氷魚の怒りは急速にしぼんでいった。

 同時に、すっと腑に落ちた。

「――ああ、そうか」

「うん?」

「蜘蛛って、子沢山ですよね」

「どうした、急に」

「いえ、日渡さんって、みんなのお母さんなんだなって。そういうのって、地母神って呼ぶんでしたっけ。違うかな」

「母だと? わしが?」

 沢音が、驚いたように目を見開く。

「あ、見た目は、全然、子どもがいるような歳には見えませんけど」

「気にするところはそこなの?」

 口を挟んだのは、寝ていたはずの茉理まつりだった。

「なんだ。起きていたのか」

「あなたたちの話の途中からね」

 身を起こし、茉理は氷魚を見て笑う。

「氷魚くん、あなた、いい度胸してるわね。沢音をお母さんだなんて」

「……失礼、でしたか?」

「いいえ。そんなことない。ね、沢音」

「そうだな。――悪い気はせぬ」

 そう言って笑う沢音は、確かにまんざらでもなさそうだった。


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