眠れぬ夜は①
どうしても集中できない。
沢音の家に戻り、夕食などを済ませた氷魚は部屋で机に向かい課題と格闘していたが、ちっともはかどっていなかった。
いさなは今頃テントで奏に押し付け――勧められたDVDを観ているのだろうか。
他にいい方法がないとはいえ、いさなが囮になるというのはやはり心配だ。あのふたりなら、滅多なことはないと思うが。
携帯端末を取り出す。時刻はもうすぐ0時だった。
氷魚はふと思い立ち、周辺の地名で検索をかけてみた。怪異や伝説といった言葉を加えて絞り込む。
いさなが調べて何も見つからなかったのだから、氷魚が見つけられるはずもないのだが、ものは試しだ。
いくつか、地域の伝承やオカルトを取り扱ったサイトがヒットした。タップして目を通す。
それらしい怪異は見当たらない。が、少し気になる話があった。
恵淵の伝説だ。
今回の怪異とは全く関係ない。けれども、読みだしたら止まらなくなった。
――これは、もしかして。
誰かに確認したい。
茉理なら詳しく知っているかもしれないが、この時間に部屋を訪ねるのはさすがに非常識だ。徹夜必須のいさなは起きているだろうが、メッセージを送るのは邪魔になりそうで悪い。
気にはなるが、明日、茉理かいさなに訊くことにする。
課題にも集中できないし、今日はもう寝ようと決めた。
部屋の電気を消し、氷魚はベッドに入る。さらさらのシーツが心地いい。沢音に感謝だ。疲労もあるし、すぐに眠れるだろう。
そう思ったのだが――
「……眠れない」
時刻を確認すると、深夜1時を過ぎていた。
1時間近くベッドの上で輾転反側していたことになる。あれやこれや頭に浮かんできて、眠気が一向に訪れない。
無理もないと思う。
いさな、奏、怪異、眠る前に読んだ恵淵の伝説――気になることが多すぎる。
細い息を吐き出すと、氷魚は身を起こした。
とりあえずトイレに行って、その後に水を飲もう。
食堂に足を踏み入れた氷魚はぎょっとした。
日本酒、ビール、ウイスキー、ブランデー、いろんなお酒の瓶や缶がテーブルを占領していたのだ。
そして、酒瓶のわずかな隙間を埋めるように茉理が轟沈している。
肩がわずかに上下しているところを見るに、寝ているようだ。
「眠れぬのか」
椅子に座り、猪口を手にしていた沢音が言う。
「――は、はい。あの、この状況は」
「久しぶりに旧友と飲みたくなってな。それがいつの間にか飲み比べになって、わしが勝った」
「なるほど」
瓶や缶の量からして相当な量を飲んでいるはずだが、沢音は顔色一つ変えていない。
「眠れないのなら、おぬしも飲むか――と言いたいが、未成年だったな」
沢音は笑い、立ち上がる。
「座って待っていろ。ホットミルクを作る」
「あ――お構いなく。水をいただければ」
「さして手間でもない。夏だからといって、冷たいものばかりでは身体に毒だぞ」
有無を言わさぬ口調で言って、沢音は食堂を出ていった。
残された氷魚は茉理のはす向かい、空いている椅子に腰かける。
少しして、沢音は湯気の立つマグカップを持って戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
礼を言って、氷魚は受け取ったホットミルクを一口啜った。熱すぎずぬるすぎず、ちょうどいい温かさだ。
沢音は氷魚の真向かいに腰を落ち着けた。少しは見慣れたとはいえ、相変わらず美人過ぎて直視できない。
氷魚は気持ちよさそうに寝息を立てている茉理に目を向けた。美青年は寝ていても様になる。
「あやかしでも、お酒に酔うんですね」
沢音の口ぶりから、茉理があやかしであることは確信していた。
「酔うとも。古来より、酔わされて討たれたあやかしは珍しくない。たとえば八塩折之酒を飲まされた八岐大蛇は素戔嗚に斬られ、神便鬼毒酒を飲まされた酒呑童子は源頼光らに首を刎ねられた」
八岐大蛇、酒呑童子――どちらも、あやかしにさほど詳しくない氷魚でも名前を知っているくらいのビッグネームだ。
「まあ、こやつの逸話に酒は絡んではおらぬがな。単純にわしより弱いだけだ」
沢音は茉理を見て笑う。
「そうだったんですね。――あ」
「どうした」
「すみません。あやかし『でも』、とか、おれ、差別するようなことを言って」
昼間、似たようなことで反省したばかりだったのに。
「おかしなことを言う。差別も何も、あやかしは人とは根本的に違うだろう」
「だとしても、感情は同じですよね」
「感情?」
「はい。喜んだり、楽しんだり、怒ったり、悲しんだり――そういう、感情です」
「ふむ」
沢音は手酌で猪口に日本酒を注ぎ、白い喉を逸らしてゆっくりと味わうように一口飲んだ。
「人のそれとは尺度が違うが、ある、とは言えるな」
「だったらやっぱり、おれは言うべきではないことを言いました。自分がされて嫌なことは人にしちゃいけないって、小さいころから父に言われてきたんです。人種や性別で差別されたら、おれは嫌だから」
「己の欲せざるところ人に施すことなかれ、だったか。孔子の教えだな。――人種はともかく、性別に関しては、男女ではできることとできぬことはどうしてもあるだろう。単純に、力だって違う」
「そういうのは『区別』ですよね。適材適所で、差別とは違うと思います。差別っていうのは、たとえば男のくせにぬいぐるみが好きなのか、とか、女のくせにサッカーが好きなのか、とか――」
姉の水鳥は大抵のスポーツを男子よりうまくこなせた。それでよくやっかまれていたのを覚えている。女のくせに、と。
姉はよく憤慨していたものだ。あの時姉は何と言って怒っていたか。
「うまく言えないけど、そういう……」
「主観に基づいた決めつけ、か?」
「そう、それです! 決めつけ。男だからこうあるべき、女だからこうあるべき――あやかしだったらこうだろうって、誰が決めるものでもないですよね。いろんな人間がいるように、いろんなあやかしがいる。人を襲うあやかしもいれば、日渡さんみたいに人を助けるあやかしもいる」
「わしが人を助ける? ああ、幼かったおぬしのことか」
「それもですけど……」
言うべきかどうか、一瞬悩んだが、氷魚は「もっとずっと昔の話です」と続ける。
「恵淵の伝説を読みました。恵淵に棲む大きなウナギみたいなバケモノを、近くの村の若者とあやかしが協力して退治するお話です」
「――ふむ」
「あの伝説に出てくる、人に協力するあやかしは日渡さんですよね。蜘蛛のあやかし」
氷魚は一旦息をつく。
美しい女性に化けるという、そのあやかしの名は――
「絡新婦」
沢音は肯定も否定もせず、うっすらと笑った。
「まだ、眠くはないか」
氷魚はうなずいた。
「ならば、少し昔話に付き合ってくれるか」
「はい。ぜひ、聞かせてください」
「いい返事だな。――これはわしが100を超えたばかり、まだ小娘だったころの話だ」
そして、沢音は語り出す。




