58.呪い返し
――♤――
「お父さ、ん……お父、さ……ぅ……」
娘が気を失って、ドサリと倒れた。
馬乗りになっていたから、そのまま僕に枝垂れかかるように。
一体、何が起きたのかが分からなかった。
僕の手が青く光ったと思ったら、娘は気を失ってしまった。
感覚的に、何かを抜き取った覚えがある。
でも、それが何かはまだ分からなかった。
僕の知らないものが、青い霧となって内側に入ってきた。
僕の全身に、まだ乾ききっていない彼の血が付いた。
血塗れになった娘が、倒れた拍子に僕に擦り付けたんだ。
「ぐ、うぶっ……」
鉄分を多く含んだ臭いが、吐き気を催すほどに鼻に刺さってくる。
隕石によってみんなが潰された時に、燃えカスと共に、これと同じ臭いがしていたのを思い出した。
気持ち悪くなった。
忘れていたんだ。
今までに僕の中から消えていた、その臭い。
父様に言われるがまま、敵を殺す時には感覚を閉ざして意識していなかった、誰かが生きていたという象徴。
人が死んでしまった証。
怒り狂った娘の拳も、血の臭いも、僕が人を殺したという罪も、何もかもが突き刺さった。
痛い、痛い。
全部が呪いになって、全部が僕を縛って、全部……
「あっ……! うぁ、あ、あぁぁぁああぁああぁああっ!!」
訳も分からずそこから飛び出して、僕はみっともなく逃げた。
痛くて、苦しくて、辛かった。
父様に足蹴にされていた時よりも、ずっと鮮明で鋭い痛みが僕を襲っていた。
僕の中で、何かが、どこかが張り裂けそうだった。
痛くて痛くて堪らなかった。
ズキズキと、そんな音が鳴り止まなかった。
獣の僕に、人としての心が目覚めた。
怖かった。
いつか、また僕はその心を失ってしまうんじゃないかって。
一度そう思ってしまったら、居ても立っても居られなくなった。
だから、思わずそこから逃げ出したんだ。
あの子の言葉が耳から離れない。
気絶してからも、か細い声で何度も「お父さん」と呼び続けて泣いていた。
虚構に手を伸ばして求めていた。
その虚ろの正体はもう、僕には分かっていた。
あの子が求めたのは、父の愛だ。
僕のせいで失った、大切な想いだ。
二人の間で固く繋がっていたのに、僕が断ち切ってしまった。
それが僕も欲しかったから、無意識に彼へと手を伸ばしたんだ。
優しさと慈しみを内包している親からの愛が、ずっと欲しかった。
僕には、血と闇で構築された歪んだ愛しかなかった。
愛とも呼べない、哀切な繋がりだった。
あの子の記憶を消したとは、その時には思わなかった。
羽鳥様に教わるまでは、刃を創造する以外の、ペンダントの力をまったく知らなかった。
【悲劇】すらも知らなかった僕は、ずっとこれからもあの子に恨まれ続けるんだと恐怖した。
僕の悲劇は終わらない。
「と、父様っ……!」
だから、助けて欲しかった。
父からの愛を、あの人に求めてしまった。
守ってくれると信じていた。
僕はまだ父様を愛していた。
愛されたかった。
――♤――
「何をやっている!?」
「父、様っ……」
「役立たずめが!!」
「げゔッ!?」
でも、本当は分かっていた。
やっぱり父様は僕を蹴った。
分かっていたのに、分かりたくなかった。
僕が愛していた父様は、父親としての責務を果たしていなかった。
初めから父親なんかじゃなかった。
「チッ」
僕にはもう、あなたが獣にしか見えなくなった。
本当の、人としての親を見てしまったから。
悲しくて、哀れな僕は知ってしまった。
本当の賊は、敵は、獣は……誰だったのか。
こんなことになるのなら、最初から生まれて来なければ良かった。
全て間違っていたんだ。
僕は、獣から生まれた、もう一人の獣だ。
「目撃者を見逃し、あまつさえおめおめと帰ってくるとはな! お前には失望したぞ、彼方!!」
どうでもいい。
もうどうでもよくなっていた。
お前なんかにどう思われようが、僕は獣のまま、二度と人間にはなれないんだ。
何をしたところで僕は人殺しなんだ。
人の心を持った、哀れな獣だ。
何故か、視界が晴れたような気分だった。
悩んでいたことが馬鹿らしくなった。
愛していた自分が馬鹿だった。
こんなやつ、すぐに殺してしまえばよかったんだ。
いくら人としての心を取り戻して、やり直したいと思っていても、愚かな過去は変えられない。
どれだけ呪いで塗り潰しても、真実は揺らがない。
何も変えられない。
過去が変わらなければ、今も変わるはずがない。
獣になった人間はもう二度と戻ることはない。
これ以上、どう足掻いても僕は獣なんだ。
それならせめて、人の心を持っているうちに……
「し……」
「あ?」
「しん……しまえ……!」
「何か言ったか?」
獣を殺す。
「死んでしまえ!!」
「ぐ!? ぐぇえああぁあッ!?」
僕は、獣の両足をいとも容易く断ち切った。
躊躇なく放った刃の一撃は、今までの中で一番簡単に肉を切り裂いた。
その殺しだけは、迷うことはなかった。
膝の関節を狙って、軟骨部分を削ぎ落とした。
足で一番弱い箇所だ。
出血が間に合っていなかったのか、僕の右足に付けた刃には、白くて柔らかい肉のような物体が引っ付いていた。
「ぶぎぁああああああああああああッ!?」
唐突に体の支えを失った獣は、呆気なく前方へと倒れる。
無様な声を上げて、獣は顔面を打つと、足の断面と鼻から血を出していた。
痛みで悶えて、不愉快な呻き声を上げた。
麻酔されずに屠殺される豚を見ている気分だった。
どうして、こんな獣を愛してしまったんだろう。
獣は信じられないというような顔で僕を見た。
血走った目で恨めしそうに。
足を失ったからか、両足で立っている僕を羨ましそうに。
それは以前と同じく恨めしくも妬ましそうな瞳だったのに、違った見え方になっていた。
その視線にゾクリとした。
「彼方……ぁがああああああッ!!」
これが僕の父親なのか?
醜い、汚い、どう見ても人以下だ。
人としての姿すら、満足に保つことも出来ない獣だ。
『足斬』という牙を失った、ただの肉塊だ。
死ねばいいのに。
でも、すぐには殺さない。
僕をこんな目に遭わせておいて、楽に殺してなんかやるわけがない。
今までの苦しみを味わわせてやる。
「肺を潰される感覚って、知ってますか?」
「ぅあ……!?」
「教えてあげますよ、父様」
わざと刃を消して、僕はうつ伏せになった獣の背中に、足裏を使ったストンピングを突き立てた。
『足斬』の技術を活かさないように、独特な踏み込みは使わなかった。
お前が僕にしてきたことだ。
「げゔぉああああッ!!」
「……」
全体重をかけた踏み潰しは、獣の肺の空気を多く抜いた。
これをされると、構造上は数秒間息が出来なくなる。
でも、一発ではすぐに回復するだろう。
「ごゔッ! がッ! け、ぁああああ!!」
空気が入り込む隙さえ生まないように、僕は何度も、何度も踏み潰した。
暗殺術を使うために学んだ人体の構造の知識によれば、肺を潰すだけなら、6歳児の体重でも十分有効だった。
どこを潰せば、一番に空気が抜けるのか。
どこを蹴れば、一番の苦しみを与えられるのか。
肺を一度潰した後には、気管を踏み潰せばいい。
「か……はッ……!」
空気が抜けきった音がした。
呼吸もままならずに、喉が必死に息を吸って、肺を膨らまそうとしている。
カヒ、カヒという音。
でも、一度潰された肺は簡単には戻らない。
風船を膨らませるためには、多くの空気が必要だ。
大きな息をすればまた蹴ってやる。
「ぅ……げ」
罵倒さえまともに吐けなくなった獣は、涎を垂らしてそこから逃げようとした。
腕が残っているから逃げようとするんだ。
無駄な四肢は必要ない。
「!?」
足と同じように、肘の関節を叩き切った。
痛みで声を上げたいのに、獣はそれすらも上げられないようだった。
ぶるぶると震えながらも痛みを我慢出来ずに、強く噛み締めた歯が欠けていた。
「どうですか? 痛いですか? 苦しいですか? 辛いですか?」
「ゃ……めぇ……!」
「僕も同じことを何回も言いましたよ?」
「ぁ、ぁあ……!」
「でも、父様はやめてくれませんでしたね」
腕の断面を細かく切り刻むように、幾度も蹴りをお見舞いした。
獣は腕を上げて、それを防ごうとしていたけど、防ぐための腕そのものを斬られて意味がなかった。
そこで、一つ気が付いた。
僕が殺してしまった彼も、こうやって腕で防御したから、頭と右腕の両方を失っていたんだと。
肩から先が無くなっていた理由を納得した。
今度は彼のために、僕は獣を殺す。
せめてもの罪滅ぼしとして、こいつを。
この獣を殺した後は……
「父様、僕の愛を受け取ってください」
もう一人の獣も始末しないといけない。
――♤――
獣は、何も反応を返さなくなった。
腕と足を根元まで細かく切り刻み、小さくて平らな肉片が辺りに散らばっていて、背中には血が付いた足跡がいくつも付いていた。
赤だるまと化している獣は、口からどぽどぽと血を吐き続けていて、喋ることも出来なくなった。
死んでいるのか、生きているのかも分からない。
だけど、確かに致命傷を与えた。
生きていたところで、すぐに死ぬだろう。
ピクリとも動いていなかった。
「……父様」
僕はこれで良かったのだろうか。
獣が人のためになることをするには、やはり誰かを殺すしか出来なかった。
人を脅かす獣には、獣しか対抗出来なかった。
父様の真似をして、ニッコリと楽しんでいるフリをしてみても、何も楽しくなんてなかった。
心の中でいくら恨み言を吐いてみても、父様のようには笑えなかった。
憎しみを糧に父様を蹴ってみても、泣きそうになるだけだった。
父様を獣と呼んだところで、あなたに向けている愛はちっとも変わらなかった。
「ああ……」
ただ、悲しいだけだった。
獣に人の心がある僕には、そうとしか思えないんだろう。
人殺しのくせに、人を殺すことに恐怖している僕は、矛盾の塊なんだ。
復讐なんて、面白いはずがない。
父様からの視線にゾクリとしたのは、それが甘美に感じたからじゃない。
僕は、僕が恐ろしくなったんだ。
「愛していました」
父様を殺したことは、仕方がなかった。
これ以上、蒼井の横暴による犠牲を生むわけにはいかなかった。
殺すしかなかった。
偽りの復讐に身を任せて、苦しめて殺した。
それを、父様も償いとしてくれたのだろうか。
人殺しの獣を罰するには、罪を感じさせながら殺してあげるべきだったから。
せめて側にいた僕だけは忘れないように。
死の間際でも、父様を愛していた僕を忘れずに、逝ってくれたらと思ってわざと痛ぶった。
僕に味わわせた苦しみを感じながら、それでも僕は愛していたんだと分かって欲しかった。
父様と一緒で、僕も歪んだ愛しか向けられなかったみたいだ。
僕も、父様と一緒で……獣なんだ。
「ぐすっ……」
屋敷にあったナイフを首に突き立てて、僕は死のうとした。
僕が殺してしまった人達は天国に行っただろうから、もう会えないだろうけど、地獄に行った父様だけは孤独にさせたくなかった。
後を追って、父様と一緒になりたかった。
「僕も、今……」
「やめろ」
出来ない。
出来なかった。
止められたんだ。
いきなり出てきた第三者によって、僕は死ねなくなった。
「そんなことをしても、父のためにはならない」
「誰……ですか?」
聞き覚えのある台詞に、僕は止まった。
だけど、その人の姿を見た覚えはなかった。
肩から先の右腕が無く、白鳥の刻印の仮面を付けているけど、装いはそれとは真逆で漆黒そのもの。
謎と矛盾を体現したその人は、僕に気取られることもなく屋敷の中に入ってきた。
天使か悪魔か、それとも、人か獣か。
「私は羽鳥という者だ。君のその力、人のために使う気はないか?」
「はあ……?」
何が目的なのか、それすらどうでもよかった。
死にたかった。
「放っておいてください」
「何?」
「僕は、人殺しの獣なんです」
その事実を口にするだけで、悲しかった。
人として生まれたかった。
一人の人間として、真っ当に生きたかった。
どこかで、ピキピキと音がした。
「僕の呪いのせいで母様とみんなを巻き込んで、誰かの大事な人を殺して、優しくて親切だった彼に手をかけて、そして父様まで……」
みんなの顔を思い浮かべると、気持ち悪さと嗚咽と共に、目から雫が溢れた。
会いたかった。
会いたいのに、僕が全て壊したんだ。
ビキビキと音がした。
「僕はもう、生きてたって……!」
「死ぬつもりか?」
「そうですよ! だから、放っておいて!!」
そして、バキンと……
「僕をぉ……僕、ぉォオ! ギィっ、ガァアアアァァアアッ!!」
割れた。
――♤――
「……え?」
目覚めると、そこは僕が知らない場所だった。
白い天井が、幼い僕の視界一面を覆っていた。
人一人が寝られるパイプベッドに、まるで病人のように寝かせられていた。
医務室らしき部屋だった。
「お目覚めかなぁ?」
「?」
「大変だったねぇ」
「君は……? 誰?」
金髪で、男女の区別があまり付かない子が、僕の顔を側から覗き込んできた。
僕よりも年上のようで、6歳は離れてそうな子だった。




