55.いらない涙
――♧――
翌朝。
深い眠りから覚めて、ゆっくりと目を開いた俺は、ベッドの上で丸まりながら横になっていた。
泥のように眠って、感覚的に長く寝ていた気分だったが、疲れが一向に取れていなかった。
休息を取るための休みだったはずなのに、狩り続きの日々の中で眠るよりも、何故かどっと疲れがのしかかっていた。
通常通りなら午前7時に起きるはずなんだが、実際に起きたのは二時間遅れの9時だった。
疲れきってしまっていたのか、目を覚ました時間がかなり遅くなったようだ。
二つ目の掟である、「決められた時刻を遵守せよ」に違反しちまった。
あとで羽鳥に小言を言われそうだ。
親っつうのは口うるさいってのが鉄則だ。
そういや、俺は寝坊助だったんだっけか。
あいつのせいですっかりと忘れていた。
いつもなら「早く起きて朝ご飯食べちゃってよ!」と無理矢理布団を剥がされて、片手にお玉を持ったあいつに叩き起こされるんだが、生憎とそれは無かった。
寝起きに聞かされるあの怒鳴り声を、あんなにも煩わしく感じていたのに、今日はあまりにも静か過ぎて、なんだか寂しかった。
「……顔洗いに行くか」
すぐさま俺はベッドから体を起こし、寝惚け眼なまま手探りでドアノブを傾けて部屋を出て、アジトにある共同の洗面台へと向かって行った。
起きてからそこに行くのは最早習慣になっていて、二ヶ月以上アジトで過ごした経験によって体が覚えているので、目が霞んでいても慣れた動きで到着した。
顔を洗ってボヤけた視界を良くしようと、蛇口を捻って水を出して手を濡らしたら、ズキズキと痛みが走った。
スペードの目を覚まさせるために、殴って出来た拳の傷に染みたらしい。
殴って正気に戻すよりも、今の俺みてえに顔面に水をかけてやった方が良かったのかも知れねえな。
ふと、赤い髪を揺らした男が目に入った。
だらしねえ野郎だ。
一瞬、誰なのかが分からなかった。
すぐに俺だと分かった。
洗面台に設置された鏡に、疲れた顔をしている俺がいた。
眉毛が垂れ下がっていて、どこか遠い目をしていた。
心なしか頬が痩けているようにも見える。
なんて情けねえ顔してやがるんだ、こいつ。
頼りねえったらありゃしねえ。
そのせいで一目見た時に誰かが分からなかったんだ。
「ん?」
それにしても、妙に赤い。
なんだか赤毛の割合が増えている気がする。
目も前より更に、赤くなっているような……
継承者として順応していけば、こうやって徐々に変化するんだろうか。
俺以外の継承者はみんな、目と髪なんか完全に変わりきってるしな。
咲とかお花畑な部屋が顔負けなくらいにドピンクだ。
「……?」
ていうか、俺はいつの間に、あいつを咲と呼ぶようになったんだ?
今気付いたが、何故かハートと呼ばなくなっている。
自分でも把握してねえ内にそうなっていた。
多分、ハートという堅苦しい役職名で、あいつを呼ぶのが無意識に嫌になったんだろうな。
しっかりと本名で呼ぶべきだと判断したんだ。
咲に向けている俺の何かが、変わったんだ。
それが心情か、同情か、友情かは知らねえ。
だが、咲は俺の中で特別な一人になった。
一人の大事な友人として認めたんだと思う。
「……」
だからこそ、俺はスペードを許せねえんだ。
咲もスペードも大事な友達で、掛け替えの無い存在だからこそ、あんなことになってしまったのを許容出来ねえ。
スペードを許してやらなきゃいけねえのに、どうしても許せねえ俺がいる。
しょうがなかったで片付けてしまうのは、俺の立場じゃ簡単だ。
でも、咲のあんな辛そうな表情を見た後じゃ、そんなことを思えるわけがなかった。
このままスペードを許せず蔑ろにするのか、それとも咲の気持ちを捨て置くのか……そんなのはとうに決まっていた。
ハッ、どっちも御免だね。
やはり二人とも、俺にとっては大切なんだ。
円満な解決に向かうためには、まずは事の全貌を理解しなければならねえ。
スペードが咲に謝ることは必須だが、何故そうなったのか、何故謝るのかを知るのが先決だ。
「よし」
顔をパンパンと叩き、覇気を取り戻した俺は、ある決意をした。
スペードに、あんなことになってしまった事情を説明させるんだ。
どれだけ時間がかかろうが、二人が仲直りをするまではそう動かさせてもらう。
俺は諦めが悪いんでな。
人を諦めるつもりはねえよ。
それに、それが大切な人なら尚更だ。
――♧――
とりあえず朝飯を食うために、俺は食堂へと向かった。
腹が減っては戦は出来ぬ、腹が立っては許しも出来ぬ。
俺がイラついてちゃどうにもならねえ。
スペードは自分を嫌っている。
なのに、俺まであいつを嫌いになっちまったら、自分を許して好きになる機会すら奪っちまう。
許せねえし幻滅も失望もしたが、怒りを向ける相手を間違えるな。
俺がスペードの救いになるんだ。
咲も、スペードを嫌いになったりはしねえ。
どれだけ酷い目に遭おうが、それだけは変わらねえはずだ。
10年で培ったあいつの想いを、俺は信じている。
それに、俺も秘めた想いの強さを知ってるからな。
「んぁー、何食う……お?」
「あっ」
食堂の扉を開けながら、朝飯のメニューをどうするかを悩んでいたら、先客がいた。
日頃の髪型と違って、少し寝癖が付いていた。
こいつが寝癖を放置しているのは初めて見る。
咲だった。
冷蔵庫を開けて、中の食材を物色していた。
料理をしようとしていたわけじゃねえのか、何も持ち出してはいねえ。
ただ見てただけじゃねえかな。
俺と同様に腹が空いたんだろう。
それに加えて、どうしてかお決まりのポニーテールではなく、髪を解いて下ろしていた。
髪を結ぶのも面倒になるくらい、無気力になっちまってるのか?
俺と鉢合わせるや否や、咲は冷蔵庫を閉めて顔を逸らした。
昨日、スペードを殴ったから嫌われたのかもな。
それも仕方ねえことか。
「おは……よ?」
「ん? あぁ、おはよう」
咲から挨拶をしてくれた。
どうやら嫌われてはねえようだ。
ちょっとだけホッとした。
昨日の俺の態度を気にしているからか、こっちを見ねえように俯いて、辿々しく話しかけてきた咲。
俺からは横顔しか見えてねえが、それでも分かるくらいに目が赤く腫れていて、泣き疲れた顔をしていた。
ずっと……泣いていたんだろうな。
逸らしたのはそのためか。
現在の自分の顔がどうなっているのかを更に気にしたのか、咄嗟に長く伸びた後ろ髪を手で掬って前へと持ってきた咲は、表情を隠した。
前髪で隠すスペードとは対照的に、咲は後ろ髪を使ってそうするようだ。
「……ごめんね」
ピンク色のカーテンで顔を隠しながら、呟くように咲は謝ってきた。
ここまでネガティブで、元気を失っている姿は初めて見る。
本当は俺にめんどくせえと思わせるくらいに前向きで、明るいはずなのにな。
「何が?」
「クローバーに、色々手伝ってもらったのに……」
「はあ?」
うじうじしてて、まるでスペードのようになっている咲にウンザリした俺は、近付いて話すことにした。
二人だけで話をするのは避けたかったが、ここまで弱った姿を見たらな。
俺の歩く足音に反応して一度ビクリと体を跳ねらせる咲は、固まったままで動かずに、どうするのかを待っていたようだった。
ゆっくりとそのピンク色の頭に手を乗せて、軽く撫でてやった。
陰で弓月が孤独に泣き終わった後、よくやっていた慰め方だ。
その時に、決まって「どうして撫でてくれるの?」と聞かれたりしたが、俺は絶対に「泣いてたから」と言いはしなかった。
ただ、撫でるだけだ。
「クローバー……?」
咲にとっても、泣いていたことにはあまり触れて欲しくはねえだろう。
人に弱さを見せたくねえからだ。
だから隠すんだ。
なら、俺はこうやって撫でてやればいい。
それだけでいいと分かっている。
「手伝わせたとか、そんなの気にすんな」
「……っ」
「お前は頑張った。そうだろ?」
「でも……」
長い髪を指の間に通している咲の手が、ぎゅっと握られる。
それでも俺は頭を撫で続けて、咲を安心させようと優しい言葉を投げかける。
流石に弱っている咲を揶揄う趣味は、俺には無え。
女友達は弓月以外にも何人かいたが、これが正しいのかは分からねえ。
まず、弓月相手にしかこうはしねえからな。
弓月は頭を撫でられて、俺の手で落ち着いてくれていたようだが、咲はどうなんだろうな。
これでいいのかね?
童貞ヘドロには分かりません。
「でも、あたしは……!」
「上手くデート出来なかったってか?」
「だって、そうでしょ?」
「本当にそう思うか?」
「えっ……?」
咲は大方、スペードがああなったのは自分が原因だとでも思ってるんだろう。
とにかく責任を感じているのは間違いねえ。
例えば、無理にデートに付き合わせてしまって、スペードが本当は嫌がっていたから、あんな腑抜けにさせちまったんじゃないのか、とかな。
あのスペードの腑抜け具合は【狂喜】を使った感じじゃなさそうだったが。
そんな冗談はさておき、それは違うと断言出来る。
「あたしが悪い」と言っていた咲は、どうしてもスペードのせいにはしたくなかったんだろう。
だから、自分に非があると勘違いしてしまった。
自分自身に責任を押し付けているんだ。
つくづくスキだらけな思考回路だな。
「咲」
「あっ……そういえば、あたしの名前……?」
「これからは、そう呼んでいいか?」
「う、うん。いいわよ?」
しかし、咲が悪いとは思えねえ。
そんなわけねえよ。
スペードもあんなに楽しそうにしてたじゃねえか。
それに……
「なんでスペードが普段着ないような服を買って、着てたのか……分かるか?」
「あ、えっと……? どうして?」
「それは、お前と同じだったからだ」
「?」
俺のその言葉がどういう意味か分からねえのか、咲は自信が無さそうな目を、手に持っている髪の間から覗かせてくる。
こうして改めて見てみると、ピンク色も案外悪くはねえな。
咲の瞳は一輪の花のようだった。
変わらずに続けて撫でてやると、少しだけ表情が安らいで、咲は微笑んでくれているように見えた。
一応、咲も弓月と同じく安心してくれたようだ。
よかった。
「あいつは秘密裏に、お前とデートしようと作戦を立ててたんだよ。俺達みてえにダイヤと組んでな」
「えっ、嘘……? そんな……」
咲にはもう話していいだろう。
というよりも話してやらなきゃな。
このサプライズは、どんなものよりも喜ぶはずだ。
俺とダイヤが協力していたこと。
俺達の関係と一緒で、スペードはダイヤに服を見繕ってもらったこと。
スペードは、咲をデートに誘おうとしていたこと。
その全てを咲に伝える。
まずは誤解を解かなきゃ、咲も自分を許せねえ。
スペードが自分を許せねえなら、咲が先陣を切って、どうすればいいのかを示してやればいい。
あいつに元気を与えてあげられる、前向きな咲が。
――♧――
「じゃあ、スペードはあたしとのデートが嫌だったわけじゃ……?」
「言っただろ? お前が悪いわけねえって」
「あ……ぅ、あぁっ……」
「スペードはお前とデートしたくて、頑張ってたんだ」
「う、ううっ……」
「お前達は、ずっと似たもの同士だったんだよ」
「あぁっ、ああああ……っ!!」
「うおっ! とと」
力が抜けて、崩れたように膝を折る咲の肩を支えてやると、その体がふるふると震えているのが手に伝わってきた。
華奢で、細くて、か弱い肩だ。
それなのに、折れねえ芯の強さを持っていた。
この肩には重過ぎる荷が積まれていた。
そんなの俺も一緒にいくらでも支えてやるから。
だから、もう一回頑張ろうぜ、咲。
勘違いに気付いた咲は、安堵したように胸を撫で下ろすと、ほろりと涙を流した。
だけど、咲が流した涙は一粒だけだった。
「ぐすっ。クロー……いえ、情!」
「なんだ?」
ああ、強いな。
咲は強くて優しい花のような目で、俺を見据えた。
その目には、今まで以上の覚悟が宿っていて、喜びの色で満ち溢れていた。
咲き誇る気高さと、強い信念が込められていた。
もう、咲は涙なんて出さねえ。
もう、泣くのなんか必要ねえ。
「あたしはスペードを知りたい!」
「おう」
「あの子の不幸せを、過去を! ちゃんと知りたいのよ!!」
「俺もだ」
「あたし……あたし、スペードを幸せにしたいの」
「……あぁ」
涙は涸れた。
今度は咲が拭ってやる番だ。
まだ涸れていない涙を。
スペードの涙を、劣等感を、過去を拭うんだ。
「だから、もう一回だけあたしに協力して?」
もちろん、俺の答えは決まっている。
「ハッ、仕方ねえな」
「ふふっ。情、ありがとう!」
咲は明るく笑った。




