54.試される器量
――♡――
「この……この……獣が……!」
「スペード?」
「獣……獣め……」
「だ、大丈夫?」
名前を呼びかけても、スペードは何もしない。
何も動かせない。
あたしに何も反応を返してくれなかった。
うわごとのように震えた声をひり出して、気が動転しているように見えるスペードには、あたしの声は微塵も届いていなかった。
まるで何かに取り憑かれたみたいに、何度も「獣」と呟きながら、ブルブルと。
頭を抱えて髪の毛を掻き回した後、スペードはそのままテーブルに両肘をついた状態で動かなくなった。
流していた髪の毛は元に戻り、その顔には影が差し、表情が見えなくなってしまった。
「具合でも悪いの? 誰か呼ぶ?」
「……」
「ね、ねえ?」
「……」
「あたし、どうすればいいの?」
「……」
「なんとか言ってよ……」
それが怖くなってきて、あたしは何度もスペードに呼びかけた。
それでも全然変わらなくて、どんどん恐怖が強くなってきて。
スペードは独りぼっちの殻の中に閉じこもった。
あたしは何か、悪いことでもしたんじゃないか。
スペードが嫌がっていることを、知らず知らずのうちにしてしまっていたんじゃないか。
こうなったのは、あたしのせいなんじゃないかと不安になった。
一度そう思ってからは、そうとしか考えられなくなって怖かった。
スペードが何を不幸せに思ってるのか知らないまま、あたしは自分の幸せを押し付けてしまった。
先に、スペードのことを知ってあげれば良かったと強く後悔した。
今日をやり直せるなら、やり直したいとさえ思った。
冷や汗が横顔を伝っていく感触が、あたしを更に不安にさせる。
「もう……」
「え?」
「やめて……くれ……」
「!」
なんて声をかければいいのか迷っていると、スペードは口を開いて、あたしを拒絶した。
「な、なんで?」
さっきまで、あんなにも楽しかったのに。
スペードも楽しんでくれたから、お揃いの指輪を買ってくれたんだと思っていたのに。
でも、そうじゃなかった。
そう思っていたのはあたしだけだった。
どうして、そんな悲しそうな声を出すの……?
「どうしてよ……」
目頭が熱くなってきて、徐々に涙が滲み出てきた。
スペードが何を考えているのか、それが全然分からなくて、あたしは困惑するだけしか出来なかった。
こんなの、こんな、なんでこんなことに……
あたしはどうすればいいのか。
どうすれば、スペードを幸せにしてあげられるのか。
理解したかったはずなのに、今はもう、それを理解するのが一番嫌だった。
だって、スペードがこんな風になってしまったのは、どう考えてもあたしの……
「……っ」
あたしは独りよがりだった。
スペードの気持ちを、不幸せを、過去をちゃんと知ろうとしないで、身勝手だったんだ。
なんてことをしてしまったんだろう。
あたしだけが有頂天になって、嬉しくなっていた。
自分だけか満足していて、そんなことにすら気付かなかった。
スペードに元気を与えようとしていたはずが、あたしがそれを奪ってしまっていた。
あたしが、スペードを苦しめた。
「うっ……う、ぁ……!」
涙が溢れて、止めたいのに止められなかった。
スペードにこんなところなんか見せたくないのに、あたしは涙を抑えられなかった。
あなたの前で泣きたくないのに、こんなの……嫌なのに。
「うぁぁあぁああっ!! あぁああっ……!!」
ごめんなさい、スペード。
ごめんなさい。
――♧――
「おい」
「……」
「何があった?」
スペードに疑問を投げかけたところで、こいつは何も言おうとはしなかった。
ハートが泣いてるっつうのに、スペードはハートを放置して、ただ呆然と突っ立ってただけだ。
それに腹が立った。
スペードの肩を掴む手に、無意識に力が入る。
「ハート、大丈夫?」
「う、うっ……」
俺の背中から降りたダイヤは、ハートに駆け寄って、気遣う言葉をかけてあげている。
だが、ハートは何かに怯えているかのように、小さく嗚咽を上げ続けていた。
手で顔を押さえながら、ビクビクと怖がっている。
二人がこんなことになってしまった状況に、俺はただ傍観する他なかった。
スペードが何故、ハートを放置してただ突っ立っていたのか、それが皆目見当もつかなかった。
「……」
「なあ、なんとか言えよ」
俺が肩を掴んで話しかけているのに、スペードは目を逸らして無言を貫いている。
誰にも話しかけられてねえみてえに、俺を無視している。
ふざけやがって……
次第に語気が強くなっていた俺は、怒りが増していることを自覚していた。
怒りが内側で沸々と湧いてくるものの、それと同時に酷く落ち着いてもいた。
今までになかった静かな怒りが、俺の腹の中を巡り巡っていた。
荒れ狂う激怒が、理性と共存していた。
何があったのかは知らねえが、何故こんな状況になっているのかは分かった。
それは、俺にも理解できた。
スペードが、ハートに……咲に。
涙を流させた。
「はぁ……」
俺が嫉妬されていた件で拗れちまったのか、それとも他の何かで咲と喧嘩をしてしまったのか、どっちかは分からねえ。
分からねえが、一つだけは確かだった。
咲がこんなに泣いているのは、それ相応の理由があった上での結果だ。
あんなにデートを楽しみにしていた咲が、あんなにスペードをものにしたいと意気込んでいた咲が、あんなに俺から見ても眩しく輝いていた咲が、涙を流している。
スペードの過去を許そうとしていた俺は、スペードそのものが許せなくなった。
湧き出るこの感情を、止められそうもなくなっていた。
すまねえなダイヤ。
幻滅しないで欲しいっていうお前の願い、俺には無理そうだ。
もう、止められねえよ。
「スペード。歯を食い縛れ」
「ぐ……ッ!」
掴んだスペードの肩を引っ張って振り向かせてから、その情けねえ顔をブン殴った。
スペードに正気を取り戻させるために、全力を尽くした一撃を放った。
重く鈍い打撃音が響き、咲とダイヤは驚いた顔で俺を見る。
拳の皮がベロンと捲れて、痛みが走る。
そこから血がだらだら出てきたが、どうでもいい。
こんなんもんじゃねえ。
ハートが……咲が受けた傷は、俺の拳よりも、殴られたスペードよりも、ずっと痛かったはずなんだ。
「やっ、やめてクローバー!」
「あ?」
「あたしが全部悪いの! あたしが……!!」
「お前が悪いわけねえだろうが」
「だって、あたしが……」
「黙ってろ」
咲を諭すように、俺は叫ばず静かに語りかけた。
前までの俺だったら、ただがむしゃらに叫び散らしていたはずだが、そうするのにも嫌気が差していた。
スペードに対するこの怒りは、信頼の裏切りと失望が混じっていたからだ。
咲が悪いはずねえだろ。
スペードのために頑張ってきただけなのに、デートをしたかっただけなのに、振り向かせようとしただけなのに、恋人になりたかっただけなのに。
それの何が悪いってんだよ?
咲は、スペードが好きだっただけだろ。
「スペード、咲が好きなんじゃなかったのか?」
「……」
「俺に言ったよな、心から笑える子が好きだって」
咲から聞いた話じゃ、スペードは「心から笑って欲しい」と言ってたはずだろうが。
お前もそれを望んでたんだろ?
咲に笑ってて欲しかったんだろ?
それなのに、なんで咲を泣かしてんだよ。
なんで、お前が……
咲を笑わせたいはずのお前が、なんで笑顔を奪ってんだよ。
「スペード」
「僕……は……」
「俺の質問に答えろ!」
「獣……」
「!」
口から血を出しているスペードの服の襟を右腕で掴み、ぐいっと近くに引っ張る。
その俺の腕に力無く自分の手を添えたスペードの目には、違和感があった。
「何だよ、それ」
そこには何も無かった。
光が宿っていなかった。
その目にはまるで生気が感じられなかった。
虚空を見つめているスペードの視界には、俺が映っていなかった。
瞳が、暗い闇に囚われていた。
そのスペードに気取られていると、いつの間にか近くに来ていた咲が、俺の腕を引っ張る。
「もう、いいの、いいから……」
咲が絞り出したその懇願は、俺の腕の力を抜かせるには十分だった。
俺にはどうしようもなかった。
今のスペードは、誰にも変えられねえ。
少し考える時間が必要だ。
スペードは何故、こうなったのか。
何故、二人のあの楽しかった時間は奪われたのか。
こんな状況になってしまった原因は何だ?
「チッ」
スペード。
お前、どうしちまったんだよ。
――♧――
羽鳥がどこからともなく現れて、スペード達にモール中の人間の気絶と、記憶の抹消を命じていた。
咲はすぐに【狂喜】を広範囲に発動したが、スペードは気絶した人の記憶を消そうとするまでに時間がかかった。
亡者のように虚ろになっていて、羽鳥に何度も言われてから、やっと指示された行動に移っていた。
それから俺は羽鳥に叱られた。
人目を憚らず、目立つ行動をするなと言われた。
知らねえよそんなの。
俺には、スペードのムカつくサマしか見えてなかった。
周りにいた奴なんか知るかってんだ。
大体、あんなのただの喧嘩にしか見えなかっただろうが。
いちいちうるせえんだよクソが。
ダイヤが咲を介抱し、俺達より先にアジトに帰っていった。
スペードと羽鳥と俺は、何も話さずにモールから帰路に着いて、俺達は自分の部屋へ戻った。
あっという間に夜になり、狩りの時間が近付いていた。
そうすると、ダイヤが俺の部屋に顔を見せて、「スペードを悪く思わないで欲しい」と言い残し、国外の狩りに出て行った。
あいつにも色々と苦労をかけたっつうのに、それを歯牙にも掛けねえで、ダイヤは本当に仲間想いなやつだ。
仲間を泣かせる誰かさんと違って。
一体何なんだよ。
目を離した隙に、二人は大丈夫そうだと思った矢先に、どうしてこうなった?
最悪で胸糞悪い一日になった。
「羽鳥」
「なんだ?」
話しにくかったが、そうも言ってられなくなった俺は、一人で羽鳥の部屋に行き話しかけた。
まずは咲の部屋に行こうとして、慰めの言葉の一つでもかけてやろうかと思ったが、それはやめておいた。
今は一人にしてやらなきゃダメな気がする。
スペードを殴った俺なんかに気を遣われるよりかは、ゆっくりと休んだ方がいいだろうからな。
それに、スペードがああなったのは、咲と二人で作戦会議をしてたせいかも知れねえ。
あいつが嫉妬をしたから歪んじまった可能性がある。
しばらくは二人だけでの会話は控えるべきだろう。
とりあえず、スペードがあんな風になったのはどういうことなのかと、羽鳥に聞きに来た。
こいつならあの状態になった理由を知っているはずだ。
スペードを……誰よりも知っているはずだ。
「……スペードは、過去の自分を忌み嫌っている」
「それを詳しく教えろって言ってんだ。今日起きたアレも含めて」
ネガティブとか、引っ込み思案とか関係ねえ。
もうそんな言葉じゃ片付けられねえんだよ。
あいつは過去の自分を嫌っているくせに、その足環に引き摺られ過ぎてる。
矛盾してんだよ、何もかもが。
変わりてえならさっさと変われってんだ。
いい加減こっちもイラつくってんだよ。
「ふむ……」
俺はそれから、スペードの暴走の訳を説明された。
羽鳥が言うには、仕方がないんだとさ。
それに「私のせい」であるとも。
スペードが『獣の狩人』に入った、初期の頃の話だ。
最初、あいつは獣を殺すことに恐怖を感じていた。
人を殺し回っていた過去の自分に、戻ってしまうと恐れていたから……らしい。
だが、継承者として獣の狩りに慣れさせるために、羽鳥は「彼の逃げ場を奪ってしまった」と言った。
(僕も最初は……獣を狩れなかったんだ……)
そう言って俺にかけたあの言葉は、嘘偽り無しの励ましと、共感だったんだと改めて気付いた。
俺が獣を殺すことに恐れたのとは違い、代わりにスペードは過去の自分を何よりも怖がっていた。
それを、羽鳥がある事をして吹っ切れさせて、今までの獣狩りを担当させていた。
だが、その積み重ねの反動が来たことによって、あんな風に塞ぎ込んでしまった。
だから羽鳥は自分が悪いのだと。
「そのある事ってのは?」
「それは教えられない」
「は?」
「スペードの、名誉に関わるからだ」
はぐらかされ、イライラが爆発しかけていた俺は、羽鳥を今すぐにでも殺してやろうかとも思った。
傷ついた咲を見たからなのか、焦らされ、余裕が無くなっていた。
「……だが、スペードの過去を知ることは止めはしない」
「じゃあ教えろよ!」
「私はそれでも構わんが……最良の選択は、スペード本人の口から聞き出すべきだ」
確かに、口止めされている羽鳥からあいつの過去を知ったところで、スペードが余計に傷つくのが容易に想像できる。
なんとしてでも過去のスペードに何があったかは、本人から言わせた方がいい。
あいつ自身に懺悔させるしかねえ。
今の俺と、スペードに必要なのは……
「クソ……」
スペードを許すことだ。




