2.春の匂い
――♧――
「でさ〜、弓道部の……」
「おー」
あの夢の痛みは何だったんだ?
「ね〜……」
「んー」
獣化は、実物でもあんな感じなんだろうか?
「ちょっと……」
「うーん」
弓月が俺を喰うなんて……
「聞いてる〜? 情〜!」
「えっ?」
いつの間にか弓月は俺の前へと回り込んでいて、腰を折りながら後ろ手を組み、上目遣いで俺の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫〜……?」
どうやらあの夢に対してリソースを割いていたからか、覚束ない返事を続けていたせいで、弓月にいらぬ心配をかけさせてしまったようだ。
あんなの、弓月に限ってあり得ない……と思いたい。
そんなことって……俺には辛過ぎる。
やっぱり病気なんかじゃなくて、呪いなんじゃないのか?
「あっ、えっと……弓道部の話だっけ?」
頭をぶんぶんと振り払って、あの意味不明な夢の恐怖を追い出す。
忘れよう、あんなこと。
「うん、そうそう。もう少しでレギュラー選抜があってさ〜、その選抜の前に……」
「前に?」
やけにもじもじして、どうしたんだ?
「じ、情と……」
「俺と?」
なんだろう。
こんな時にこんな事を考えるのも変な話だけど、幼馴染で見慣れている俺からしても、弓月は端正な顔立ちをしてると思う。
小さく纏まったフェイスライン。
長く伸びたまつ毛に、くりくりと愛くるしい大きな瞳。
真っ直ぐと筋が張って、整っている小ぶりな鼻。
ぷるんと瑞々しく輝く唇は、艶かしさすら感じるほどだ。
その綺麗な顔が、だんだん赤くなっていく。
「……ート」
「ト?」
うん?
両手の人差し指をチョンチョンと合わせながら、足をもじもじさせている。
そして、顔を赤らめてるってことは……
「わ、私とね……?」
そうか、そういうことか!
真実は、いつも一つ!
コ○ン君もそう言ってた!
「デー……」
「トイレに行きたいんだな!?」
「……へ?」
間違いない、弓月はトイレに行きたかったんだろう。
選抜の前にって言ってたのは……選抜の話をする前に、トイレに行かせてくれってことだ。
そうだろ?
「だから、トイレに行きたいんでしょ? 確か近くに公園があったから、そこで済ませなよ」
「……」
「ん? どうしたんだ?」
弓月は体をカッチリと硬めて、黙ってしまった。
もしかして……余計なお世話だったのかな。
けど、女子にとっちゃ、恥ずかしくて言いづらいことだろうしな。
「そそっ、そうだよ〜! 私トイレに行きたかったんだぁ〜!!」
「そうだよな。弓月のことなら俺、なんでも分かるぞ」
よかった、怒ってる訳じゃなさそうだ。
相変わらず、弓月の一人で抱え込んじゃう癖は抜けないな。
弓月のことならなんでも分かる。
それについてだけなら、誰よりも自信がある。
切なそうな顔をしてしまった。
もう寸前ってところまで来てるに間違いない。
早く言ってくれれば良いのに、いつも変なところで気を遣うんだよな。
「……ば〜か」
「えっ? なんか言った?」
「何も言ってないよ〜……」
俺達が通う高校の通学路の途中には、ブランコと、ベンチと、トイレと、日本の公園特有の針葉樹が端っこに植えられている、小さな公園がある。
今、歩いている道は、家に囲まれた住宅地の道路だ。
途中にその公園があって、丁度通りかかるくらいの所だったので、少し歩いてからそこに入った。
俺はベンチに座り、弓月はトイレに向かう。
――♣︎――
「も〜!」
なんで気付いてくれないの!?
情の彼女になって、デートしたいってだけなのに〜!!
情に好きになってもらえるように、綺麗になったねって言われるために!
化粧だって、ファッションだって……!
色々と努力してるのに〜!!
独り言がトイレに響いて、情に聞こえちゃいそうだけど……そんなの知らない!
もういっそ聞こえちゃえば!?
「情のばか〜!!」
そもそも、なんで私からデートに誘おうとしてるの!?
なんで私はこんなに苦労してるの!?
情から「俺とデートしてくれ」って言ってくれれば、こんなに苦労し……な……?
「情と、デート……」
そんな、そんなの……!
「うあ〜!!」
――♧――
「うおっ、なんだ!?」
夢に出てきた獣みたいな雄叫びが聞こえてきたけど、少し漏れちゃってたのか?
高校生になっても漏らすほど、いつも自分のことは後回しなんだから。
あんなに元気で明るい性格なのに、自分のこととなると昔から消極的なんだよなぁ。
――♣︎――
なんであんなに鈍いの!?
こんなにアプローチしてるのに、なんで私の気持ちに気付かないの!?
そんなに分かりづらい接し方してないよね!?
誰がどう見ても気付けるくらい……!
やってる自分が恥ずかしいくらい!!
積極的に好き好きアピールしてるよね!?
「やっぱり……私だけなのかな〜……?」
情に意識してもらいたくて、ずっと情を意識してきた。
部活で忙しい私でも、せめて登校だけは情としたくて、毎日足繁くお迎えに行ったり。
愛さんが遅くまでお仕事で帰れないってわかった日は、情のお家でご飯作ってあげたり。
情との時間が欲しいから必死に勉強し続けて、宿題も手伝ってあげたり。
なるべく一緒にいるようにして、尽くしてるのに〜……
「気付いてよ〜……」
ただの友達?
情からしたら、私は幼馴染としか思われてないのかな……?
いや。
だめ、弱気になったらだめだよ私。
情が鈍感なのは今に始まったことじゃない。
そんなの、分かってるけどさ〜……?
「つらい〜……」
興奮したせいか、情を意識したせいか、なんだか体が火照ってきちゃったじゃんか〜……
――♧――
「お、おまたせ〜」
「はいよ」
顔が真っ赤になっている弓月が、手で顔をぱたぱたと仰ぎながら戻ってきた。
「漏れたの、大丈夫だった?」
「漏れッ!?」
バッと音を立てて、制服のスカートを抑える弓月の顔は、更に赤くなる。
ちょっと直球過ぎたか?
こういうのはあまり聞かない方が良かったかもだけど、でも心配だしな。
着替えとか必要かも知れないし。
「叫んでたじゃん」
「ちがっ、あれは〜!」
あんなデカい叫び声、俺だったら漏れちゃった時くらいしか出さない。
弓月も大体おんなじ状況だったんだろう。
昔は一緒に風呂にも入ってた間柄なんだし、生理現象はどうしようもないんだから、俺に気を遣わないですぐに言ってくれればいいのに。
最近はめっきり綺麗になってくから忘れがちだけど、どこか抜けてるのが弓月だ。
優しくて、意地悪で、明るくて、消極的で、しっかりしてて、抜けてる。
なら尚更、あの変な夢はおかしいに決まってる。
弓月は俺を揶揄うことはあっても、傷つけるようなことは絶対にしないのだから。
「む〜! このやろ〜!」
「どうした? なんで? 痛い痛い」
ポカポカと、弓月は握った拳で叩いてくる。
反射的に痛いとは言ったけれど、全然痛くない。
弓を引く筋力はあるから、手加減してくれてるんだろう。
「ごめんごめん。デリカシーに欠けた言葉だったな、謝るって」
「情君は相変わらずいい所に目をつけますね! そんなデリカシーとか細かい部分には気付くんだから、もっとさ〜……」
「もっと?」
「なん、でも、ない〜!」
またもや痛くないポカポカを続けてくる。
そうだよ。
弓月があんな恐ろしさを体現したかのような獣になるなんて、あり得るはずがないんだ。
俺は何をあんなに臆病になってたんだ?
いや別に、俺が臆病者だって言ってるわけじゃないぞ?
だって、あんな現実味を帯びた夢を見ちゃったら、誰でも怖くなるよな?
そう、つまり俺は臆病者でもなんでもない。
あの反応は至って普通だ、普通。
驚くのと怖いのは別、うん。
――♧――
俺と弓月はそのまま、登校ついでに小さな公園内をゆっくり歩いていた。
会話はさっきよりも少なくなったけど、黙っていることに対して「何か喋らなきゃ」というような焦燥感は無い。
幼馴染だからか、沈黙も苦じゃないんだ。
ふいに風が俺達の頬をふわりとすり抜けていく。
咲きかけの桜の匂いが混じっていて、何回も経験した季節を感じさせてくれる。
春の匂いだ。
「……ねぇ、情〜?」
「ん?」
サラリと伸びた綺麗な黒髪が揺れ、その長い髪を手で抑えながら俺を見つめてくる弓月の瞳は、どこか寂しさで潤んでいた。
「今年で私達も、高校二年生なんだよね〜」
「そうだな……」
幼稚園児の頃もそうだったけれど、小学生の時はこんなにも人生は早く感じなかったのに。
そして、いつの間にか中学生になったと思ったら、気が付けば高校生になっていた。
それも、弓月と一緒に。
「私達、幼稚園から一緒に遊んでたけどさ〜。ずっと同じなんて、まるで兄弟みたいだよね〜?」
「あぁ。年は同じだから、こりゃあ二卵性の双子だな」
別に示し合わせたわけじゃないけど、隣にはいつも弓月がいた。
ずっと同じだった。
「でもさ、なんで俺と同じ高校選んだんだ? 弓月の成績なら、もっと良いところに行けただろうにさ」
「えっ!? い、家と近くて行くのが楽だと思ったからだよ〜! 別に情と一緒の高校に行きたかったとかじゃ……!」
またぱたぱたと顔を手で仰ぐ弓月。
昔からこれがこいつの癖だけど、春になって少し暑くなってきたもんな。
仰ぎたくなるのも分かる。
「そっか、そうだよな。いくら幼馴染と言っても、わざわざ高校まで同じにする必要ないしな」
「そ、そだよ〜。あはは〜……」
なんか、元気ないな?
漏らしたのがそんなに気に障ったのか?
あっ、もしかして……そんなにやばい量を漏らしたのか!?
「ゆづ……!」
「情、覚えてる〜? 獣道公園の桜」
「え? そりゃ覚えてはいるけど」
俺らの家とは少し離れてて、今通っている高校とは真反対の方角にある、獣道公園。
今でも鮮明に思い浮かべられるあの景色。
見渡す限りの芝生が一面に生い茂る自然公園の中、盛り上がった丘の上に生えている、一本の桜の木。
正式な名前が分からないし、その桜へと続く道が獣道みたいに草が除けているので、俺達は勝手に獣道公園と呼んでいる。
「なんで?」
「私ね? 小さい頃にあそこで情と一緒に遊んだ記憶が、どうしても気になるんだ〜」
「……俺も、あの景色だけは頭にこびり付いてる」
昔は、弓月と毎日のように獣道公園で遊んだ。
確かに遊んだ記憶はあるんだけど、それと同時に何かを忘れている気もするんだ。
「私達が首にかけてるクローバーのペンダントって、確かそこで貰ったんだよね〜」
弓月は俺が持っているのと対をなす、もう片方の二つ葉のクローバーをブレザーの中から出して、見せてくる。
「貰った……?」
あれ?
このペンダント、誰かからの貰……
俺が、その何かを思い出そうとした瞬間、それは起こった。
「う、ぐっ……? あがっ!?」
「え?」
頭の中に釘を刺されたような鋭い痛みが、いきなり迸った。
「ぐっ、がぅうあ……!!」
「情!? 大丈夫!?」
「うぐあああぁっ!?」
立っているのか座り込んだのか、そのどちらの姿勢になったのかも分からなくなるほど、俺はその痛みに苦しみ、錯乱する。
「あ……あ?」
しかし、途端に痛みが引いていく。
それと同時に、先程と同じような桜の匂いが混じる風に、今の時期にはまだ咲くのが早すぎる、満開の一本桜が揺らされているのが視界に映った。
これは……記憶?
「獣道公園……?」
桜と共に風で揺らされた赤が、目に留まる。それは、長くて綺麗な赤色の髪だった。
風で靡く赤髪を抑えながら、女の人が低い視線に合わせるように屈んでいる。
(忘れないで)
「えっ……?」
顔が黒く塗り潰されていて、誰なのか分からない女の人が俺に話しかけた。
この光景って……幼い頃の俺の記憶なのか?
謎の記憶に気を取られているうちに頭痛は治っていて、現実に戻ってこられた。
頭を抱えて蹲っていた俺の目の前で、記憶の中で出てきた女の人のように、弓月が顔を覗き込む格好で屈んでいた。
「頭……痛い?」
俺のことを心配してくれる弓月には悪いけど、それより今の記憶の方が気になって仕方がない。
頭にチラついた景色……あれは間違いなく、獣道公園の桜だった。
「さっきのは!?」
忘れないでって……あんな記憶は、あんな人は、あんな声は覚えすらないぞ!?
ない、はずなのに。
「さっきの? 頭痛のこと?」
「違う! さっきの女の人の声!!」
「私の声……? ってことなのかな〜?」
弓月の声だったのか?
似てるような、ちょっと違うような……?
「今日の情、なんか変だよ〜。頭が痛いならお休みしなよ〜?」
「いや、大丈夫……っていうか!?」
制服のズボンの右ポケットに入れているスマホを取り出して見てみると、そろそろ着かないと危ない時間になっていた。
「やっぱり!? やばい弓月! 遅刻するぞ!!」
「あっ、そうだよね〜!? 私がお家にお迎えに行った時間も、遅れちゃってたもんね!?」
「急げ急げ!!」
「ねえ待ってよ〜!!」
考えても要領を得ないし、走りに専念することにした。
するつもりだったけど……俺の内側で、矛盾した感覚がずっと残っていた。
その言いようのない感覚の理由は、さっきの赤髪の女の人と話した記憶なんて無かったのに……
「一体誰なんだ……!?」
あの人を、知っていたような違和感があったから。