本編
指先が、触れた。変わる変わる世界の中で私はどうにか立っていた。
「ありがとうございます」
精一杯、微笑む。彼はその黒い髪を揺らし、紫色の瞳を見開いて、驚いたようにこちらを見ていた。
私は人形令嬢と呼ばれている。リデル子爵令嬢である姉様の影にひっそりと立つ、妾の娘。天真爛漫な姉と違って、無表情で可愛げのない妹、それが私のはずだった。
家族には邪険にされたわけではない。しかし、母は既に亡く、父は私にどうやって接したらいいのかわからないようだった。
「ソニア!」
学園の中、図書館に向かって歩いていると、明るい声に呼び止められる。
「お姉様。そんなに走ったら転んでしまいますわ」
なにかしら。と薄い金色の髪を揺らして首をかしげると、灰色の瞳の色しか似ていない姉、コレットはキュッと立ち止まった。
「御髪が乱れていますわよ」
そっと指を差すと、彼女は、慌てたようにピンクブロンドの髪を押さえた。
本当に似ていないわ。と心の中で思う。おっとりした自分と違って、姉はいつも溌剌としている。
「ソニアはまた図書館に行くの?」
「ええ、そのつもりです」
返すと、飽きないわねぇと彼女はため息をついた。
「もうすぐ私も卒業でしょう? 卒業パーティーまでに、早くいい殿方を見つけなくてはいけないの」
ソニアはあと一年あるかもしれないけど、と頬を膨らませる姉は可愛らしい。
「お姉様なら大丈夫なのでしょう? 応援していますわ」
噂に聞いたことがある。彼女は学年でとても人気なのだと。
「コレット! ここにいたんだ」
「ハーヴェイ」
赤い髪の彼はソニアの前からコレットを隠すように立った。
「皆待ってるよ? あの子にはまた会えるでしょう?」
そして肩越しに冷たい目で睨んでくる。
思わず肩を揺らしてしまう。姉の恋人だろうか? 邪魔をするつもりはないのだけれど、じりじりと後ずさる。
「失礼します」
頭を下げると、彼らは行ってしまった。またね、という姉の声と、君の妹は表情が変わらないから、気味が悪いよ、男性の潜めた声を置き去りに。
まるで、嵐のようだった。気を改めて、図書館の扉をくぐる。
入り組んだ館内を抜けて、窓際の一番奥の席に行く。ここで勉強をするのが、私の日課だ。
「こんにちは、ソニア。また難しい本を読んでいるね」
歴史書を読んでいた私を覗き込んだ。一つの影。
「アーシュ様、こんにちは」
背の高い彼を見上げて、私は、精一杯表情筋を動かして挨拶をする。
初めて会った時、落としたペンを拾ってくれた彼は、コレットの知り合いなのだと名乗った。逆に言えば、それ以外に名乗らなかった。でも、私は知っている、彼が何者なのかを。去年学園を卒業していて、本来ならばここにいるはずがない人であることも。
彼は、アーシュ=スタンレイ。公爵家の長男であるはずだ。もっとも私の前で、フルネームを名乗ったことはないので、間違っているかもしれない。でも、多分合っている。
彼の妹のジゼル様は、絶世の美姫として有名で、王太子の婚約者だったはず。その王太子の右腕と名高い彼がどうして学園に居るのか。それは、わからない。きっとコレットと同じ学年の、妹のジゼル様に会いに来ているのだと私は思っている。
「分からないところがあったら聞いてね」
「今日は、歴史書といってもおとぎ話ですので」
彼は、とても優しい。初めて見たときは凍っているようだと思った紫の瞳は、笑うと溶けて印象がガラリと変わる。
私は、彼に恋をしていた。真剣に本を読む目線、文字をたどる長い指、低く艶のある声、酷薄そうに見えるが優しい言葉を紡ぐ薄い唇、全てにときめいていた。勿論この気持ちは、伝えるつもりはない。彼と私では釣り合わないから。迷惑になってしまうから。でも、せめて彼の記憶に残してもらうなら、仏頂面ではなく、笑顔でいたい。
「このお話には、裏の話があるのを知っているかい?」
私が読んでいるのは聖女伝説だ。光の魂を持つ聖女が、百年に一度生まれ変わり、現れるというもの。聖女は、人々の心の傷を癒し、ある時は、王子と結婚し、またある時は、騎士と結婚し、人知れずこの国に繁栄をもたらし続ける。この国には、聖女をモチーフにした女神像があって、いろいろな所に置かれている。この学園にも。
「どんなお話なのでしょう」
「堕ちた聖女の話さ。聖女は百年に一度現れる。でも、いい聖女じゃないと、国は混乱する。国を混乱させて改心できないままでいると、新たな聖女が生まれる。そう言う話だ」
アーシュ様の顔は思ったより真剣だった。
「これは、本当の話なのでしょうか」
思わず口をついた言葉にハッとする。
「どうだろうね。でも、百年に一度っていうのは今年なんだよ?」
丁度百年前に聖女が現れたと記録されているんだ。何気なく続けられた言葉に、
「それは、機密文書なのでは……」
困ったように眉根を寄せると、彼はいい子いい子、言わないでねと私の頭を撫でてきた。
急な接触は困る。頬が熱い。
恨めしく思って彼を見上げると、優しい目とかち合ってパッと顔を背ける。
それはそうとして、と彼は唐突に言った。
「君は今年の卒業パーティーに出席するのかい?」
「え?」
「コレットが君も出るって言っていたんだけど」
目眩がした。姉は何を言っているのだろう。確かに姉の卒業ではあるし祝ってあげたいけれども。
「私には、相手もいませんし……」
「私がエスコートして上げようか?」
何を言っているのだろう。彼は、私の噂を知らないのだろうか?
「……私は人形令嬢と呼ばれています。それに、私の身分は低すぎて釣り合いません」
「フルネーム、名乗ったつもりはないんだけどな」
噂、噂ね。と彼は面白そうに言う。
「じゃあ、噂を壊しに行こうか。君は人形なんかじゃない。きちんと怒るし、笑うし、時々泣きそうなのも知ってるよ。ほら、今も」
キュッと噛み締めていた唇を、噛んじゃだめだよと指先でなぞられる。
「私はね、私だけの光の魂が欲しいんだよ。それに、きっとこれが最後のチャンスだから」
言葉の意味は半分わからなかったが、ちょっと寂しそうな顔をする彼にハッとする。彼の妹、ジゼル様は、今年卒業される。ということは、彼に会えるのはもうこれで最後なのかもしれなかった。
「ダメかな?」
畳み掛けられて、私の首は勝手に頷いた。
卒業パーティーとは、ダンスパーティーだ。アーシュ様がお父様に話を通したらしく、準備はつつがなく行われた。目立ちすぎないように、地味すぎないように、私は、ふんわりとした、シンプルな薄紫色のドレスを選んだ。アーシュ様の瞳の色だ。正直、この色を選んでもいいのか葛藤した。しかし、アーシュ様は私に似合う格好をしてきてね、と言った。だから思い切ってこの色にした。
「ソニア様、お綺麗です」
髪を結ってくれた侍女は感無量といった風だった。私は、あまりこういった催し物には出席しないので、腕を披露する場所がなかったのだろう。悪いことをしたと思う。
姉には、相手は誰なのかとしつこく聞かれたが、私は言わなかった。
コレットは春の妖精のようだった。小花を散らしたピンク色のドレスが似合いすぎている。
「お綺麗です。お姉様」
「ありがとう。あなたももう少し派手にしたら良かったのではなくて?」
私はふるふると頭をふる。
「主役はお姉様たちですから」
姉は先に行き、違う馬車で学園に着くと、アーシュ様が迎えてくれた。馬車から降りる手を貸してくれる。
「ソニア。似合っているよ」
そっと囁かれて、恥ずかしくなる。
「可愛いね」
きっと私は耳まで真っ赤だ。
「お兄様、紹介してくださってもいいのではなくて?」
声をかけられてそちらを見ると、アーシュ様と同じ色彩の美女が腕を組んでこちらを見ていた。
豊かな黒髪を結い上げて、ほんの少しつり上がった紫の瞳に赤い唇。この方がきっと。
「失礼いたしました。ジゼル様、ソニア=リデルと申します。本日はご卒業、おめでとうございます」
「ありがとう、ソニアさん。ジゼル=スタンレイよ。お兄様をよろしくね」
悪戯っぽく笑って告げるジゼル様に思わず見惚れてしまうと、ちょっと拗ねたようなアーシュ様が視線を合わせてくる。アーシュ様のタイは光沢のある灰色で、私の瞳の色に合わせてくれたのかと思うと嬉しくて、それ以上に恥ずかしかった。
「行こうか」
「でも、ジゼル様は」
「大丈夫、あいつが迎えに来るから」
あいつとは、まさか殿下のことだろうか。それなら邪魔をするわけにはいかない。エスコートされてホールに入った。
煌びやかなシャンデリアの下、飾られた花に豪勢な食事、立食パーティーというものなのだろうが、普段出不精な私には刺激が強すぎる。華やかに着飾った人々の視線を感じるのは、隣に立つこの人のせいなのだろう。
ここに一人置き去りにされたらどうしよう。ふとそんな不安が生まれてしまう。今、頼れるのは隣にいるアーシュ様だけだ。
「大丈夫だよ」
心細いのが顔に出ていたか、彼はそう言って。見えないように、そっと手を握ってくれた。
入り口からざわめきが広がった。何事かと思ってそちらを見ようとすると、困ったようなアーシュ様に阻まれて見えなくなってしまった。
「喧嘩?」
「どうだろうね」
「ハーヴェイ! 落ち着いて、リドルも」
響き渡る声に聞き覚えがあった。
「お姉様?」
阻んでいるアーシュ様の腕の隙間から、様子を見る。
二人の男性が大声で言い争っていた。
何方が姉のパートナーかで揉めているようだ。
姉のことを放っておくわけにはいかない。
「……どうしても行くの?」
アーシュは嫌そうな顔をしている。
「ごめんなさい。このままでは、パーティーが台無しになってしまいます」
せめて声を落とすように言おうと姉に近づく。その時、姉の首の後ろに不思議な模様が現れているのに気づいた。
「お姉様、騒ぎになっていますわ」
この場に私が現れたのが意外だったのだろう、コレットは、あんぐりと口を開けた。
「真ん中で喧嘩は良くないですわ」
コレットは私の後ろを見つめたまま固まっている。
「お姉様?」
「アーシュ様! このようなお見苦しいところをお見せしまして」
コレットがいきなり喋り出したので、びっくりする。振り返ると、不機嫌そうな顔をしたアーシュ様が立っていた。後ろを付いてきてくれたらしい。ほっこりしていると、姉はとんでもないことを言う。
「ソニアのパートナーなのですか? ソニア、私たち入れ替わりましょう? ねえ、いいでしょう? あなた、私を応援しているって言ったものね」
嫌だとは言わせないと顔に書いてあった。否、そうじゃない。この人は私が断ると思っていないのだ。どす黒い感情が胸を埋め尽くしていく。姉の天真爛漫さを羨ましいと思ったことはあれど、こんなに憎らしく思ったことはない。
嫌だ。とたった一言いうだけなのに、私の唇は動かない。涙が溢れそうで俯く。
それを肯定と取ったのか、私の答えを聞かずに、コレットはアーシュ様の腕に手を絡めようとした。見ていられなくて、目を背ける。
その時だった。
「断る」
低い、低い声がして、慌ててアーシュ様の顔を見上げると、冷たい瞳に蔑んだかのような色が浮かんでいる。背筋が凍った。軽蔑、されてしまった。
なんで、嫌と言うだけの一言が出ないんだろう。私は気がついたら外に向かって走っていた。
私は卒業生ではない。私が居なくても問題ないはずだ。女神像の前まで行くと、涙が今になって溢れた。
「どうしてっ……」
唇をかみしめて、手の平をぎゅっと握りしめる。
「どうしていつも言えないの」
必死に、嗚咽を噛み殺す。理不尽だと思うことはあった、でも仕方ないと諦めていたはずなのに。
「アーシュ様……ごめんなさい。好きでした。あなたが好きだったんです」
女神様に告解する。
その時だった。後ろから伸びた腕に抱きしめられたのは。
「残念。過去形、なんだね」
指が私の目尻を優しく辿り、涙を拭っていく。
「こちらを向いて、ソニア」
「アーシュ様……」
どうして、と呟けば、一人で飛び出しては不用心だよ、と叱られる。
アーシュ様は優しい。それに甘えて、私は。
「ごめんなさい……」
どうしようかな。と彼は言う。
許してはもらえないのだろう。そっと覚悟を決めて振り向くと、彼は笑った。
「君はちっとも人形令嬢なんかじゃないよ。こんなに温かな涙を流せるんだもの。これは悔し涙かい?」
そうです。と今度はするりと肯定の言葉が出た。
「私、悔しかったんです。あんな風に言われて、私はお姉様のものじゃないのに。きちんと意思があるのにっ。アーシュ様にだって失礼なことを……」
「……私のことはいいよ。君の素直な言葉が聞けたからね」
「でも」
あんなに、怒っていたではないか。釈然としないまま視線を送ったが、彼は答えなかった。
「今日は残念だったね」
しばらくして、彼が言った言葉に、現実がどっと押し寄せてくる。そうだ、今日で、もうアーシュ様とは会えないかもしれないのに、姉と喧嘩してこんな所にいる。今更ながら自己嫌悪に頭が痛くなる。
「ねえ。言ってくれないの?」
何をだろうか。首をかしげると彼も同じ方向に首を傾ける。目線が合いっぱなしでドキドキする。
「私のこと、好き?」
「そ、れ、は」
早鐘のように心臓が鳴る。そうだ、さっきの聞かれていたんだっけ。
「……好きです」
もう、嘘はつきたくない。出来るだけ微笑んで告げる。記憶に残してもらえるように。この優しい人の想い出になるように。頬が熱くなる。胸がいっぱいで、涙がひとつ溢れる。
彼が息を飲んだのがわかった。
「私も、ソニアが好きだよ」
そして、幸せそうに微笑んで、彼の形の良い唇が降ってくる。
降ってくる? 私の顔はきっと真っ青だろう。だって、こんなのおかしい。
「どうかした?」
後退ろうとするが、にっこりと微笑んだ彼は私の腰をいつの間にか抱いている。
「逃がさないよ。君は人形令嬢じゃないんだろう?」
もっとも私の前では初めから、いつも表情豊かだったけどね。とアーシュ様は続ける。
「でも」
言い募ろうとすると彼は人差し指を立てて私の唇に当てた。
「ねえ、聞いて?」
それからの話は、ちょっと理解できそうになかった。アーシュ様はいつの間にかお父様に話を通していたらしい。
「今日はダンスを2回踊って、君と婚約するつもりだったのになぁ」
彼は残念そうに呟くが、初耳すぎる。
「私で、いいのですか?」
「君が良いんだよ」
彼は答えてくれるが、いいのだろうか。
「このまま帰ってもいいけどさ、せっかくだから戻って踊ろうか」
彼に手を引かれそっとホールに戻る。
隅の方でひっそりと踊っていると、さっと人混みが割れた。
ジゼル様だ。彼女が指をさしたのだ。
太陽のような髪をした殿下も微笑ましそうにこちらを見ている。
こんなに注目されては心臓が止まってしまう。
助けを求めるようにアーシュ様を見ると彼は笑いをこらえていた。
「本当に可愛いなぁソニアは」
くるっと回されて曲が終わると彼は私を抱きしめた。きゃーと言う悲鳴とざわめきが広がっていく。
「次が終われば、もう逃げられないよソニア」
彼は楽しげに囁くけれど、私は逃げるつもりがなかった。
逃げるタイミングなんて、いくらでもあった。私は私の意思でここにいる。それを彼に伝えなければ。
「アーシュ様こそ、逃げられませんよ」
可愛くない言葉がなんでこんな時に出るのだか。どうか私を離さないで、と祈るように視線で訴えると彼はたまらず吹き出した。
「わかってるよ。愛してるよ、ソニア」
「……大好きです。アーシュ様」
そうして私たちは、2回目のダンスに踏み出した。