#03. 黒い森(3)
気がつくと、枝葉のあいだから、月がのぞいていた。
イツキは苦労して、起き上がり、木の幹に背中をあずけて座り込んだ。
ぶるりと体を震わせる。二の腕が粟立っている。
危惧したとおり、森は夜になると、急激に気温が下がっていた。
凍死はしないまでも、風邪を引きそうだ。
かといって村に近づけば、確実に殺されるだろうし。
──詰んだわコレ。
ひと思いに死んだ方が楽なのかナァ、なんて思ってみたりする。
しかし、のどがかわいた。
水がなければ、三日くらいで死ぬらしいと聞く。
このかわきに、三日も耐える……。
──うん、無理。
さらさらと、水の音がさっきから聞こえている。
川から少し離れてしまったが、それほどの距離ではない。
イツキは重い体に鞭打って、這うように水音がする方向に移動した。
ようよう、川辺に着いて、水を飲む。
ごくごく飲む。
冷たい。この寒さのなか、冷たい飲み物はかなりつらい。
それでも、水はうまかった。
左足を、そろそろ伸ばして、川の流れにひたす。
体温をますます奪われるが、なるべく清潔にしておいた方がいいだろう。
川辺を離れて、適当に目についた木の幹に、再びもたれた。
◆
どのくらい、寒さに震えていただろうか。
疲労感は感じているが、イツキは眠ることもできないでいる。
寒さを感じている一方で、体の負傷個所は熱を帯びていた。
森の夜気は濃く、なにか昂ぶり、妖しい気分にさせた。それが先が見えない不安と溶け合っていた。
こんなささくれた精神状態ではとても眠れない。
ふと、遠くに灯かりが見えた気がして、イツキは目を凝らした。
そして、それが、音もなく、すぐそばまで迫っていたことに気づき、ざあっと血の気が引いた。
紫色の燐光を放つ双眸。
野犬どころか、オオカミにしても大きすぎる。
──ハハア、夜魔ってコイツのコト、デスか。
イツキの、闇に慣れた目は、とぼしい月の光でも、その姿が視認できてしまった。
姿勢を低く、丸めた背骨のラインに沿って、尖った骨のようなものが、背ビレのようにずらりと並んで突き出している。
地面に食い込む爪は巨大で、湾曲して鋭くて。恐竜の映画で見た、ヴェロキラプトルの鉤爪に似ている。
それにその顔。まさにオオカミと肉食恐竜を足して二で割ったような、醜悪な……。
耳まで裂けて、鋭利な歯列をのぞかせた口は、嘲笑うかのようだ。
そんなものににらまれて、イツキは卒倒しそうだった。
それでいて、卒倒できない自分を恨んだ、気絶したら楽だろうに。
怪物は、まだ襲ってこない。
警戒している、というより、獲物を観察し、反応をたしかめるように。
──チガウ、実際、観察シテルんだ。
気のせいではなく、その顔には感情が……嗜虐的な喜びの表情が浮かんでいる。
「……ぅひぇえ……」
われ知らず、か細い声が漏れた。
森で野獣に食い殺される、それは想像を絶するひどい死に方だが、これはもっとひどい。
こいつは、わたしを、楽しみながら食らう。
そこまで理解できてしまって、さらには〝声〟まで聞こえてきた時、だからイツキは、自分が恐怖のあまりおかしくなったのかと思った。
「ヘヘヘ……ひさしぶりの、ごちそうだア」
言葉に合わせて、怪物は深紫色の舌をべろりと伸ばして舌なめずりをする。
「まず腹を裂いて、テメエの中身がどうなってるか、見せてやるか。
人間って奴ァ、自分のことを知ってるようで知らねェからな」
楽しげにつぶやきながら、外科医がメスを構えるように、爪をかかげる。
「だがその前に、逃げまわられても、めんどくせェ」
ばしゅ、と血煙が舞い、イツキののどから絶叫がほとばしった。
左の足首から先がなくなり、壊れた水道管みたいに血を噴いている。
肺から空気を出しきってしまうと、ぜッぜッと息をつき、黄色い胃液をぶち撒けて、さらに激しく咽せ返る。
生まれて初めて体験する激痛。
血と吐しゃ物にまみれて転がりながら、イツキは痛すぎてキレた。
「──痛ッ──テェな、きさまァア!!」
怪物は驚愕した、人間が、夜魔の言語を使ったからだ。
「テメエ、オレの言葉が分かンのかよ!? いったいどう……」
「ああああ──めちゃくちゃ痛えだろうが!!」
会話にならない。
痛い痛い痛い痛い、わめき散らしながら、イツキはポケットをさぐる。
スマコンを取り出して、血だか汗だかでぬめる指で、しかし的確に操作する。
「おい人間、聞いてンのか、テメエいったい」
「うるせえ死ね」
言いつのる夜魔の鼻先に、画面を突きつけ、撮影する。
フラッシュライトの白い光が爆ぜた。
「ギャウンッ!?」
光に弱いだろうと直感したのだが、効果は予想以上に絶大だった。
夜魔は、巨大な手で突き飛ばされたかのようにもんどり打って倒れ、もがき苦しむ。
暴れ狂いながら、輪郭を失い、不定形の黒いアメーバのようになって、どろどろとくずれていく。
どんな魔法を使っても、一瞬であんな強い光を生み出せるわけがない。
なんなんだよいったいなにをしやがった──夜魔の思考は混乱しながら、散り散りになり、薄れていった。
同時に、イツキも失神していた。
※「滅紫」を「深紫」に訂正。空さま、ご指摘ありがとうございます。