#02. 荒野(1)
【2,891字】
夜明けとともに、イツキは目を覚ました。
とはいえ頭がぼんやりして、現実感を欠き、夢のなかにいるかのようだ。
──……ココはドコ?
病に疲れきった老人の目のようにどろりと灰色ににごった空。
荒れ果てて、ごつごつとひび割れた大地を、朝日が照らしはじめている。
枯れた木々が、まばらに突き出し、救いを求める亡者の手のように虚空をつかもうとしている。
イツキ自身の服装は、ぼろ切れがかろうじて体に引っかかっているような状態だった。
脱ぐ、という表現も適切ではない、もはや衣服のていを成していない切れはしを、引きむしって捨てる。右足の履きものもなくしていた。
Tシャツに、ルームパンツの姿になる。
四肢はひどく汚れており、少し伸びすぎた爪も、まっ黒だ。
髪だって、にかわで固めたようにごわごわする。
かけられた幻術の効果は解けており、本来の黒髪にもどっていた。
口のなかがねばついて気持ち悪い。
思いついて《いくらでもものが入る》ポケットをさぐり、ちいさな水筒を出した。
口をすすいで、吐き出す。吐き出した水は汚らしい茶色ににごっていた。水は貴重ではあるが、もう一度だけ、口をすすぐ……さっぱりした。
ポケットの、中身をぜんぶ出してあらためてみる。
細長い形状の水筒がふたつに、数日分の行糧。
ナイフにロープ、釣り具など、雑多な小物。
金は、銀貨二三枚に、銅貨が四〇〇枚くらい。
イツキの私物に加えて、仲間からあずかっていたものがふくまれるので、けっこういろいろ持っていた。
ポケットの口がちいさいため、ひとつずつ、入れたり出したりしないといけない。
取り出して検分し、再びすべてしまうだけで、時間がかかった。
煙草を一本、咥えて、火口箱で着火した。
深々と煙を吸い込むと、少し気分がマシになる。
スマコンを出して、日記アプリを確認する。
自分が書いた最後の記録を読み返す。
森で、三頭の馬の番をしながら、レイシィとリオンがもどるのを待ちながら書いたものだ。
カレンダーで日付を逆算する。
──一五日間、経ってマスね。
その間、なにをしていたのか。
記憶がすっぽり欠落していた。
スマコンのカメラを自分に向けて、鏡の代わりにする。
思わず、ぎょっとした。これが自分の顔か。
もともと痩せてはいたが、さらに肉が落ちて骨と皮という感じだ。落ちくぼんだ目の下には、クマがどす黒くべったりと張り付いている。
いまにも餓死しそうに見えるが、紫色に変化した瞳は、強い生命力を宿してぎらついていた。
イツキはあてもなく、暗鬱な空と、色褪せた大地、荒涼とした景色のなかを、左の義足を引きずって歩きはじめた。
やがて日がかたむいた。
◆
夜とともに悪夢がおとずれた。
記憶の断片が脳裏に明滅する。
人間の体にナイフを突き入れる感触。
すすり泣きと命乞い。
むせるような血臭と、ナマの臓物のにおい。
生きながら切り刻まれる人々の顔に浮かぶ苦悶と狂気。
無数の死に顔。
無数の光を失くした目が、怨みを込めてイツキを見つめる。
数十人分の死の苦しみを味わっていた。
頭を地に打ちつけ、爪で体をかきむしる。
手が、硬いものに触れた。とがった形の石ころ。
苦しみから逃れたい一心で、自分の首筋に押しつけてごりごりと削いだ。
皮と肉が破れ、黒っぽくて重い体液が流れ出す。
しかし死の安らぎをむかえる前に、傷はふさがってしまった。
──おいおい、自殺なんて罰当たりなマネ、してンじゃねェよ。
いつの間にか夜魔がいて、イツキを嘲笑っていた。
発狂寸前だったイツキの正気は、怒りによってつなぎ留められた。
──おまえ……わたしのからだを使ったな……!
──だから、ちゃんと返したじゃねェか、五体満足でよ。
──答えろ、どうすればわたしは死ねる?
──どうすればオレを殺せる?
イツキは石ころを握りしめ、腕や太ももを手あたりしだい、切り裂くが、黒くドロリとした体液が少し流れるだけで、傷はふさがってしまう。
──わたしから離れろ! 離れろよ、ああ耐えられない、逃げたい逃がせ逃がして!
──逃げたい、逃げたい! 笑わせるぜイツキ、自分の影からどうやって逃げる?
イツキは言葉にならない叫びをあげた。
「……そうカンタンに壊れちまってもつまらねェ。特別サービスだ、教えてやるよ」
夜魔が呆れたように〝言葉に出して〟言った。
「オマエの人間性が弱くなりすぎてンだよ。
そのぶん、不足をおぎなうためにオレから力が流れる。食ったエサの苦悶までいっしょにだ。
オレにとっちゃア愉しい記憶だがなァ」
「だから……どうしろって言うんだよ!?」
「体力を回復させろ。なにか食うとか」
夜魔の答えは、納得のいくものだった。
直観的に、正解だとわかった。
黒パンや干し肉を、つぎからつぎに取り出して、餓狼のようにむさぼり食らう。
はずみで口のなかを噛んでも気づかず、血といっしょに呑みくだす。
数日分の行糧を食べつくしてしまうと、ようやくおぞましい夜魔の記憶の奔流がとまった。
人心地、ついて、どうにか平静をとりもどした。
イツキは少し考えてから、夜魔に向かって言った。
「自分の意識がナイあいだ、アナタがナニをしたか、教えナサイ」
「そりゃかまわねェが、平気か? また取り乱されてもめんどくせェんだがね」
「平気デス。……断片的には、思い出してしまいマシタ、カラ」
それならと、夜魔は話しはじめた。
ただ、あくまで夜魔の感覚がベースなので、理解しづらいところがあった。
イツキは推測でおぎない、質問をはさみつつ、状況を整理した。
◆
両者の意識は、一時的に混濁した。
しかしイツキの自我が強まると同時に、入り込んだ異物に対して激烈な拒絶反応が起き、昏倒した。
イツキの体は、しばらく飲まず食わずだったが、エルマーを殺して得た夜魔の力が供給されて衰弱死することはなかった。
その後、より強靭な夜魔の意識が先に目覚めて、イツキの肉体を支配した。
夜のうちにいったん、ラグナを離れ、郊外で一昼夜、ようすを見た。人間の肉体に慣れる必要があったし、レイシィやリオンと交戦したくなかったからだ。
片脚が義足の体ではあるが、夜魔のバランス感覚をもって、二本の前脚と一本の後脚として動かせば、さほど不自由は感じなかった。
しばらく様子見の時間をあけてから、町にもどって、殺りくした。
用心深く、ひとりも逃がさないように殺し尽くした。
夜魔は、殺し屋としてはとんでもなく有能なのだ。
だが、そのためにずいぶん苦労した。
時間をかけて楽しめた殺しもあったが、ほとんどは逃げたり、助けを呼んだりさせないために、すばやく殺すほかになくて、味気ない気分になった。
夜魔はこの体の損得を考えてみた。
昼でも活動できるのはたしかに利点だ。
しかし人間の体は、やはり鈍重で脆弱だ。
獲物を破壊するための牙や爪もなく、いちいち道具を使わないと、人体を壊せない。
初めはちょっと面白かったが、飽きた。道具を介してでは、殺しの実感にとぼしい。
このまま時間が経てば、眠っているイツキの意識は完全に消滅して、この肉体に定着してしまう……。
けっきょく、夜魔は、人目につかない荒野に移動してから、意図的にイツキに肉体をあけわたした。
日がのぼり、夜魔の力が弱まったので、イツキは目を覚ましたのだった。
読んでくださってありがとうございます♪
【次回】#02. 荒野(2)、8月14日(金)更新予定。
内容としては、引きつづきイツキと夜魔の話です。