#01. ベルキュリア邸
【3,613字】
今回の仕事の報酬は、合計して、ざっと銀貨六〇枚。
おかした危険に見合うだけの金額ではある。
もろもろの手続きや、書類のやり取りをするため、しばらくラグナの宿から動けなかったが、どの道、意識不明のイツキを置いて旅はできない。
傷を癒す必要もある。
イスペルタ国、パルノー宛てに、ブライヒェン市警が発行した証明書を添付し、賞金首であるチコ一家を始末したことへの報酬を求めた。
その金が本日、着金したので、もうこの町に留まる理由はなくなった。
この十二日間、イツキは一度も目を覚まさなかった。
深いこん睡状態だ。
食物はおろか、水さえとっていない。
心拍と体温が低下しており、〝冬眠〟に似た状態だった。
レイシィは、明日、旧友のもとに、グループ全員で《転移》することに決めた。
大がかりな魔術になるが、イツキには助けがいる。
その夜、レイシィは、となりの、イツキの部屋から物音を聞いて飛び起きた。
ドアを開け放つ。ベッドにイツキの姿がなく、窓が全開になっている。
その窓べり、イツキは夜に身を乗り出すようにして、うずくまっていた。
レイシィの目には、イツキのシルエットが悪霊のように昏い霊気をまとっているのが視える。
息を呑む。恐怖を感じた。
これまでに対峙してきた、どんな悪霊よりも邪悪なものを感じた。
「あなた……夜魔に憑かれたのね」
自分でも意外なほど、冷静な声が出た。
イツキはいまにも身を投げようとしていたが、静止し、そして、ゆっくりと振り向いた。
紫色の燐光を放つ双眸でレイシィを見やり、にぃっと、禍禍しく笑う。
つぎの瞬間、闇のなかに姿を消した。
「くそったれ!」
いつの間にかかたわらに立っていたリオンが、壁に拳を叩きつけ、穴をあけた。
「なあレイ、人間に夜魔が憑くなんてこと、あるのか?
悪霊憑きは、聞いたことがあるけど……」
「あり得ない。どう考えてもあり得ないわ。
ブライヒェンの宿で、わたしがイツキを調べたことがあったでしょう?
イツキは無属性という特異体質ではあったけど、この世界の人間と、それほどのちがいはなかったし」
夜魔は、悪霊よりも強力であるぶん、ほとんど実体化している。
この点においてはこの世の存在に近く、人間を切り刻むことはできても、憑依はできない。
「追いかけようよ! イツキ、どっかでまた倒れてるかも」
レイシィは首を横に振った。
通常、一度《霊絡》した相手は、《追跡》が容易になる。
しかし、イツキは無属性なので探知しにくい。
不用意に追いかけて、闇のなかから襲われたら? イツキの身体能力が向上していることは、いまの動きでわかった。
魔法は効くか。力で抑えられるか。不確定要素が多すぎる。
「リオン、部屋にもどりなさい。夜が明けたら動きましょう」
リオンは、ぐるるるる、と不満げな声を漏らす。
しかしレイシィには逆らわず、自室に引き下がり、ドアを荒々しく閉めた。
◆
《転移》。
レイシィには使えない風属性の魔法だが、魔術符を持っている。
魔術符とは、対応する魔術を一回だけ、術者の能力と関係なく、発動させるものだ。
たいへん便利なのだが、希少で高価であるため、めったなことでは使われない。
ふたりは翌朝、町を出た。
ひと気のない場所まで移動して、レイシィは準備を始める。
馬が三頭、その内側に、余裕をもって入れる規模の魔法陣を描く。
魔法陣の効果のひとつは、魔力をその内側に貯め込むことだ。
時間と手間のかかる儀式をおこなって、めいっぱい、魔力をかき集めた。
魔術符が引き起こす現象を、極限まで高めるためだ。
ふつうに使えば、移動できるのはひとりだけ。
レイシィは魔法陣を併用することで、効果を上位魔法の《空間転移》に高め、リオンと、三頭の馬、まとめて転移させるつもりだ。
目視できないほど遠方に瞬間移動する際は、媒介としてルーン石を使う。
ルーン石の使い道は多様だが、この場合はマーカー、記憶させてある移動先の指定である。
十分なリソースをたくわえた魔法陣の中心に、石を置く。
術式が完ぺきであることをたしかめてから、レイシィは、ゲーム用のカードとおなじくらいのサイズの魔術符を破り、籠められた魔術を解放した。
◆
高所から落下する夢を見て、飛び起きることがある。
あんな感じで、一瞬の失神状態から、意識がもどった。
その時にはもう、目的地に着いている。
《転移》の際に覚える感覚は、個人差がある。
一瞬と感じる者もいれば、長い眠りから覚めたように感じる者もいる。
ただ、魔法を使った長距離移動のあと、しばらくは、どんな人間でも軽く調子をくずすのが常だ。
具体的には、見当識が狂い、思考力や判断力も低下する。
体質によっては、目まいや吐き気を感じることもある。
転移症候群、もしくは単純に〝酔う〟と呼ばれる現象だ。
転移のはずみに、肉体と霊体が一瞬、ずれ、しばらく不安定であるせいで起きる症状だといわれている。
転移症による不調は、個人差があるが、それほど顕著なものではない。
そのせいもあって、自覚症状が薄い。
ゆえに、組織的に団体が転移した場合、ふつうは一日から二日、休憩する決まりを設ける。思いがけない事故を避けるためだ。
レイシィとリオンは、このベルキュリア地方への転移に慣れている。
目の前にそびえる、格調高いヤミルナ様式の古城。
事前に《霊信》で一報、入れておいたこともあり、すぐに食堂にとおされた。
ブルーローズティーに、見た目にも絢爛な砂糖菓子がふるまわれる。大の甘党であるレイシィにとって、いつもならここを訪れる際の楽しみなのだが、いまは食欲がない。
甘いものが食べられないリオンには、食事の時間でもないのに、牛肉の串焼きに、ベルキュリアで広く飲まれる辛口のゴルテン・メディアシュ。客の好みを知り尽くしたもてなしだ。
ほどなく、城主が姿を見せた。
天鵞絨のガウンに身を包む、すらりとした長身の美女。
白磁の肌に、輝く銀糸のようにまっすぐ流れる長髪。
カトリーヌ・ド・ラ・ベルキュリア伯爵夫人は、赤い瞳をわずかに細め、薔薇が咲くように微笑んだ。
「四八一日ぶりですわね、レース」
「おひさしゅうございます、黒の奥方」
ことさらに、慇懃にあいさつしながら、レイシィは焦りがほぐれるのを感じていた。
この友人の、いつ見ても変わらない堂々たる姿には、安心感を覚える。
「よお! カトちゃん、元気してた?」
カトリーヌは笑みを消し、優雅にととのった眉をかすかにしかめる。
「リオン。その呼び方、やめていただけませんこと……。
再三、申し上げておりますわ」
軽くため息をついてから、真顔になって、レイシィに目を向けた。
「積もる話はありますが、火急のことでしたね、レイス。
その、イツキという方との出会いから、あらためて詳細をお聞かせくださいな」
……──。
話を聞き終えても、カトリーヌはしばらく沈黙していた。
レイシィにも、この、自分が生まれるはるか以前からこの地を治めている美しい魔鬼の、表情を読むことはむずかしい。
「なあ、人間に夜魔が憑くなんてこと、あるのか?」
じれたようにリオンに問われ、カトリーヌは口を開く。
「おふたかたとも、転移症はお障りございませんか?」
「え? ええ。……平気よ。すでに転移したことがある場所なら、症状が軽くなる。
どうしてそんなことを?」
「そう、逆に言えば、遠く、見たこともないような土地では、症状は重くなります」
カトリーヌは、自分の考えをふたりに説明する。
通常の転移でも、肉体と霊体のシンクロが弱まり、揺らぎがおさまって完全に定着するまで、一日ほどかかる。
イツキが異世界から来たのなら、重篤かつ特殊な転移症が出ていたとは考えられないか。
彼女はこの世界に来て、短期間のうちに夜魔に襲われている。
そして、ほとんど相打ちのように、際どいところで撃退した。おそらく両者は、至近距離で、ほとんど同時に意識を失ったはずだ。
その時のイツキの存在は、まだこちらの世界に完全に定着しきっていない状態だった。
消滅を逃れようとする夜魔の執着が、その間隙に侵入し、そのまま同化してしまった。
「ただの仮説ですけれどもね」
「ああ。……ああキャス、たぶん正解だわ」
レイシィは、絞り出すように返答して、そのまま言葉を失った。椅子にかけていなければ、ひざからくずれていたかも知れない。
ふと、のどがからからに干からびていることに気づき、茶ではなく、水を流し込む。
「つまりどういうことだ? イツキは助けられるのか?」
「率直に申しまして、わかりませんわ。なにしろ先例のないことですから」
大声を出しかけたリオンを、レイシィが鋭く叱って制す。
それは、カトリーヌにぶつけるのはすじちがいだ。さすがにリオンでもわかる。それでも感情のやり場がない。リオンはやはり激昂して、レイシィに食ってかかろうとして、
ぱんっ、と澄んだ音が響き、押し黙った。
レイシィの手のなかで、水飲みのグラスが砕け、かけらが突き刺さっている。
重い沈黙のなか、純白のテーブルクロスに、ぽつ、ぽつと赤い染みが増えていった。
読んでくださってありがとうございます♪
そういえば、この作品の最初期の案では、イツキは存在せず、レイシィ、リオン、カトリーヌで旅する話だったのでした(ずいぶん変わったものです)。
……あー、これで、レイシィとリオンがとうぶん書けなくなるの、さびしいなー。
【次回】#02. 荒野(1)、8月7日(金)更新予定。
内容としては、イツキと夜魔の話です。