#14. 暗い森(2)
どしゃあ、とエルマーが横ざまに転倒する。
イツキは目を開けて、見た。
男のひざ丈のブーツがひとそろい、雨に打たれながら、行儀よく立っている。
エルマーはその向こうで、ぬかるみのなかでもがいていた。
「くそっ、すべる、おれの靴を取ってくれ、なあおれの靴を取ってくれよ」
そんなことを言っている。
──ハア? カンベンしてクダサイよ。
──フザケてナイで、ヤるならサッサと……。
そしてイツキは気がついた、ブーツの中身が詰まっていることに。
それでは起き上がれないはずだ。
エルマーはもがいているが、その両脚はこっけいなほど短い。
あれでは、仮に立てたとしても、小柄なイツキとおなじくらいの背丈かも知れない。
どろどろと遠雷が聞こえる。
それよりも高く、野太い男の絶叫が森に響きわたった。
状況を理解するよりも先に、痛覚刺激を自覚したらしい。
──ああ、助かったぜ……!
──もっと苦しめ! もっとおびえろ!
昏い歓喜が、イツキの心を満たしていく。
「う、う、ウソだろ、夜魔が、こんな、どこから」
エルマーの言葉が意味をなしたのは、そこまでだった。
その後は、舌をもつれさせ、時おり、短い悲鳴をあげたり、すすり泣くだけだった。
切り刻まれていく。
噛み砕かれていく。
イツキは姿勢を変えた。両腕で体をささえて向きを変え、木の幹に背中をあずけて座り込んだ。
不思議なほど身も心も軽い。
いつしか雨はやんでいる。
濡れた土のにおいに混じる血臭は甘い。
無意識に、ギザ歯を剥いて笑い、よだれを垂らしていた。
血肉の花が咲き乱れている。
あたり一面に人間であったもののピースが散らばっている。
その中心、イツキから二メートルくらいの距離に、闇がわだかまっている。
そいつは振り向いて、歩み寄ってきた。
尖った背ビレと、湾曲した鉤爪、それに牙は、光沢のない漆黒だ。
夜魔は深紫色の舌を出し、ぎざぎざの歯列を剥き出して、笑った。
イツキの表情もそれとよく似ている。
──おひさしぶりデスね。スマコンで、殺したつもりデシタが。
──オレも死んだと思ったよ。
イツキがこの世界にきて、最初に遭遇した夜魔。
そいつの思念が、イツキのなかに流れ込んでくる。
夜魔は強烈な光を浴びせられ、いったん、意識を失った。
だがそのあと、イツキの影のなかに同化している自分に気づいた。
夜魔は通常、日中は、地中深くに沈み込んで光から身を守る。
だが地中を移動することはできない。そのまま夜を待つだけだ。
しかしイツキの影と同化していれば、ちがった。意志とは関係なく、影といっしょに移動していた。
それでも、生物のように表現すれば、瀕死の重体だった。
影に潜り込んだまま、回復を待つしかできなかった。
少しずつ力がもどってきて、ようやく元どおりに実体化できた。
ちょうど男がいたので、食らった。
──つまり、ずっと自分にとっ憑いてた、って理解で、いーんデスかね?
──おかしな感じだぜ。閉じ込められてるみてェでもあるが、悪ィ気分じゃねェ。
──とにかくオレはもうアンタの影から出たら、消えちまうンだと思う。
──自分もヘンな気分デス。
──アナタの思考や感情が流れ込んでくル。
とにかく、この怪物は、いま、エルマーから自分を助けてくれた。
夜魔自身の生存のためにも、宿主であるイツキを助けざるを得ないのだ。
しかし好きでイツキを助けるわけではない。
むしろ、できることならば……。
──なァ、テメエのカラダ、オレによこせよ。
──お断りデス、そしたら自分、サイコなシリアルキラーになっちゃうってコト、デショ?
──その方が人生、楽しいぜ? さっきも殺されかけてたじゃねェか。
──黙れデスよ。影に入れてやってルだけデモ、ありがたく思いナサイ。
──ナメるなよ、ニンゲンが。奪い取ってやるよ。
──ふふふふ、困りマシタ。追い出す方法、わかりマセンし。
おかしなことになったものだ。
イツキは他人事のように面白がっていた。
いま時点、両者は同時に、死の、あるいは消滅へのストレスから自由になり、その解放感をごちゃ混ぜに共有してハイになっていた。
ふと夜魔は、巨大なオオカミに似た耳をピクリと動かすと、イツキの影のなかに、とぷんと液体のように沈んだ。
どうしたのだろう、と思っていると、ふたりの仲間が姿を見せた。
◆
レイシィとリオンは、息を切らして走ってきた。
そしてイツキの無事らしい姿を認め、笑顔で駆け寄ろうとして、ただならぬようすに気づいた。
イツキは相当ひどく、殴られたようだ。
だが、幸いほかに外傷はない。
しかしこの、周囲に散らばる肉片は?
ここまで人体を執拗に、徹底的に破壊するもの。
夜魔しか考えられない。
イツキは、やはり、野盗の生き残りに襲われた。
しかしそこにたまたま夜魔が出現し、野盗を食らう。
その夜魔を、イツキがスマコンで撃退した……それだけの話なら、どんなによかったか。
レイシィの直観は、そうではないと告げていた。
正体不明の不安。
「レイシィ、リオン、無事だったんデスね、よかったデス」
イツキは微笑む。
その表情に、なぜこんなにも不吉なものを感じるのだろう。
「イツキ……なにがあった?」
そうたずねるリオンの声も、あからさまに震えていた。
リオンの、獣人の本能もまた、異常事態であることを告げていた。
「ナニって? ナニも。ふたりがもどらなくて退屈デシタよ。
デモ、新しい友だちがデキタからいーんデスケド。
オモチャで遊んでマシタ。……味も悪くなかった、腹が減ってたからな」
レイシィは、いくつか、イツキを問いつめたが、ほどなくあきらめた。要領を得ないのだ。
自分たちも傷だらけなのを忘れて、イツキの手当てを始める。
水筒の水で布を濡らして、血と泥の汚れをていねいに落としてやる。
イツキはされるがまま、ニコニコしていた。
イツキは、目ばかりぎらつかせて、時おり、思い出し笑いをする。
とびきり愉快な秘めごとを思い出したかのように、くつくつとのどを鳴らす。
そうこうするうちに夜が白み始めた。
それと同時に、イツキの笑みが消えた。
代わりに、さまざまな表情が浮かび始める。
当惑。疑念。不安。焦燥。混乱。恐怖。苦痛。
「おああぁぁああ──!」
爪を立てるように、両手で頭を抱える。
目と、口を、限界まで開いて、長々と叫んだ。
そして唐突に、糸が切れたあやつり人形のように、くたりと倒れた。
「おいっ! どうしたんだよお?」
リオンが、まるで幼児のようにうろたえている。
レイシィはイツキを抱き起したが、その体は軽く、氷のように冷たくて、痙攣している。
てんかんの発作を思わせた。
眼球が、不規則に忙しく運動しているが、おそらくなにも見えていない。
血の気を失った唇が、たどたどしく動いた。
「……お母さん。お母さん。……どこにいるの? 帰りたいよ」
うわごとのようにつぶやいていたが、やがて完全に気を失った。
レイシィは、古い友人のことを思い出していた。
助けがいる。これはなにか、手に負えないことになっている。
あのランシールの辺境伯の、支援と知識が必要だ。
読んでくださってありがとうございます♪
イツキを襲った夜魔のことなんて、みんな忘れてるんじゃないかしらと不安な話でした(^^;
【次回】#01. ベルキュリア邸、7月31日(金)更新予定。
内容としては、ちょいちょい話題になっていた〝レイシィの後ろ盾〟の人物の顔見せです。