#04. 野外生活(2)
シカの体は、まだ暖かそうだ……。
おそるおそる、触れると、びくりと痙攣した。
「ピャッ!?」
イツキはへんな声をあげて尻もちをつく。
心臓が早鐘を打っている。これだけおおきな動物が、こんなに近く、目の前で死にかけている……初めて体験する状況だった。
というか、まだ死んでいなかったことに驚いた。相当、血を流しているのに。
なんて、生命力……。このまま待っていても、絶命まで時間がかかりそうだ。
では、どうすればいいのか?
黒々としたシカの目は、限界まで見開かれ、苦痛にきらめいている。
その目のなかで、生存本能が燃えている。
イツキのナイフを握った手は、意志とは無関係にブルブル震えていた。
困惑し、自分が泣いていることにも気づかずに、ぐちゃぐちゃな感情を抱えたまま、ひたすら途方に暮れていた。
「夜になっちゃうよ! イツキ」
鋭いリオンの声に、イツキは座ったまま飛び上がる。はずみで、心臓が口から飛び出すかと思った。
手の震えが、いつの間にか全身に波及している。呼吸が浅く、速くなっている。
……獣の、匂い。
……血の、匂い。
──畜生ッ! やれるやれる……。やるんだやるんだ……。
両手で握りしめたナイフを、力いっぱい振り下ろした。
つもりが、シカの首筋に触れる直前で、くたりと力が抜けて、刃は毛皮をなでただけだった。
自分を叱咤する。ナイフを再び構えようとする。ところが重くて動かない。
──気のせいだ。腹をくくれ。
一度、深呼吸して、気合を入れると、ナイフが持ち上がった。
高く、かかげ、一呼吸の間をあけて、振り下ろす。
ざく、と肉を割き、こつっという感触とともに刃が止まった。
同時に、ばちんと顔に湯を浴びる。
ピィーッ、という音は、断末魔が声帯を震わせたのか、それとも気道から血とともに吹き出した空気がなにかの加減で鳴ったのか。
殺した。本能的にわかった。
ひっ、としゃくりあげるように息を吸おうとして、血臭に咽せた。
反射的に胃から逆流したものを、かろうじて飲み込む。
旅の途中で、食物は、栄養は、貴重だ。吐いたりして無駄にしてはならない。
吐くのをこらえた代わりに、大粒の涙がこぼれた。
「よくできました。つぎは、胸からお尻まで切り裂いて。内臓を抜くの」
鬼軍曹、もといレイシィの指示が飛ぶ。
イツキは無視して、少しだけ、休ませてもらう。呼吸を整えるあいだ、ほんの少しだけ。
再びナイフを握る。血と汗ですべらないよう、しっかりと。
先ほどよりは、抵抗がなかった。対象がもう死んでいるからだろう。
毛皮と肉を切開していく。
「力、入れすぎ! 消化器系は傷つけたらだめ」
レイシィの声に、ぎくりと肩を強張らせる。
……言われたことの、意味は、わかる。
──わかるケド、初体験デスよ? 加減がむずかしいナァ……。
内心でぼやきつつ、努めて冷静に、ナイフを使う。
刃は、毛皮と、その下の肉に、ある程度の深さまで埋まっている。
そのまま進めていくと、時おり、筋、それとも太い血管を断つのか、ぶつり、ぶつりという感触。
もう少し先に、手応えが薄くなる隙間がある。たぶん、その奥が内臓だ。だからそれ以上、刃を沈めてはならない。
突然、びっくり箱みたいに中身が飛び出した。
ぶわ、と湯気とともに、叩きつけるような臭気。
ナイフを握っていた手は、あふれた内臓のなかに手首まで埋まってしまった。
焦った。
だが、冷静だ。取り乱したのではなくて、深く切りすぎたかと焦ったのだ。
熱い内臓は、じかに触れていると、まだ生きているかのように動くのを感じる。
流れ出した勢いが残っているだけか、死後もしばらく蠕動するものなのか、わからない。
わからないが、どうやら内臓を傷つけてはいない。
「ご苦労さま。イツキって本番に強いのよね。上出来よ。
水場でナイフと手を洗って、休憩してて」
「…………」
返答は、言葉にならなかった。
赤と桃色と黄色の塊から、顔をそむけて、ゆっくり深呼吸する。
イモムシみたいに這って、すぐそばの泉ににじり寄った。
添えていただけの左手はともかく、右手は、ナイフと溶接したかのように一体化している。
仕方なく、左手で、右手の指を、一本一本、柄から引き剥がすようにする。
ぽろりとナイフが落ちて、浅い水際につかった。
赤黒く、べとべとする両手を、ていねいに洗った。
リオンが、湧き水の反対側に、内蔵を露出したシカが半ば水に浸かるまで移動させる。
イツキと目が合うと、ねぎらうような笑みをみせた。
イツキに反応する気力はなかったが、リオンは気に留めず、爪を使って手際よく、いらない内臓をかき出していく。
ちいさな泉は血の池地獄と化したが、流れがあるため、徐々に透明度を取りもどした。
「食う?」
ふいにリオンが赤黒い肉片を、イツキの鼻先に突き出した。
嗅覚がマヒしていて、鉄くささはもう気にならない。
悪ふざけかと思ったが、リオンの表情には、友人にスナック菓子をすすめるような、気軽な好意しかない。
イツキは少し考えて、レバーだと思い至るが、力なく、首を振る。
リオンは気にしたふうもなく、イツキに目線でナイフを要求した。
受け取ったナイフで、新鮮な肝臓をふたつに切り分け、軽く水ですすいでから、一片をレイシィに放り投げる。
予想していたようにレイシィは受け取り、ふたりは、うまそうにパクパクと食べてしまった。
──肉食系女子、デスネー。
紅を差したかのように、唇を血で汚したふたりを見て、イツキは思う。
リオンは唇をぺろりと舐めてから、ナイフを使って、本格的に解体を始めた。
さすがに、手慣れている。
どうやら首を切断するつもりだとイツキは察し、同時にナイフ一本で可能なのかと疑問に思った。
方法を思いめぐらす間もなく、手品みたいに、シカの頭部はごろりと落ちた。
イツキの視線に気づいたリオンは、手を休めずに説明する。
「肉も骨も流れがあり、継ぎ目がある。わかってたらカンタンにバラせるよ。
イツキもすぐできるようになるよ」
そう言われて、イツキは嬉しくなり、そんな自分に驚いた。
イツキはしかし先ほどから、リオンの解体作業に見蕩れていたのだ。
リオンのナイフさばきは、流れるように美しかった。
自分が使ったのとおなじナイフだとは思えない。自分の使い方はなんと不器用で、ぎこちなかったことだろう。
イツキは恥じ、情けなく、同時にリオンの技術に、羨望の眼差しを向けていた。
「機会があったら、教えてクダサイ」
半ば無意識に、そう告げた。
リオンは一瞬、手を止め、ほんの少し驚いたようにイツキに目をやって、愉快そうに破顔した。
ほんとうにシカをさばいただけだった!
【次回】#05. 野外生活(3)、5月22日(金)更新予定。
内容としては、外でごはん食べて寝ます。インドア人間としては、アウトドアを書くのは楽しいです!