#01. 黒い森(1)
気がつくと、イツキは森にいた。
夢でも見ているのだろうか、などという疑いを抱く余地がないほどに、リアルだった。
あまりに鮮烈な緑の色彩と、強烈な、それでいてさわやかな樹々のにおい。
ただ、現実感があるということと、それを受け入れられるかはべつの問題で。
──アー、森デスネー。
とは思ったものの、そのまましばらく思考停止した。
「……イヤイヤイヤ、森って。
さっきまで自分、ゲームやってたんデスケド?」
たしかめるように、声に出してみる。そうでなくても、彼女には独りごとのくせがある。
服装は、Tシャツに、ルームパンツ。眼鏡もちゃんとかけていて、素足だ。部屋でゲームをしていた時の、記憶にあるままだった。
森なのは見たまんまだとして、いったいここはどこなのだろう。
少なくとも、自宅の近所に、こんな森はないはずだ。
──だって、ガッツリ森だもんナ、公園トカじゃなくて。
三六〇度、確認する。どこまでも森がつづいているようだ。一回転しただけで、最初に向いていた方角もわからなくなった。
不測の事態に、思考はからまわりしていたが、やがて、スマートコンピュータの存在に思い至る。
ひきこもりであり、友人もいないイツキに、スマコンは必要ない。
これは頼んでもいないのに、母親に買い与えられたものだった。
むやみにハイ・スペックな機種だが、深い意味はないのだ、母親の頭にあるのは仕事のことばかりで、イツキに対する態度はいつも冷淡で他人行儀なのだから。
それでもいちおう、少しは、引け目にも似た感謝の気持ちがあって、家のなかでも、常にポケットに突っ込んでいたのである。
とりあえず、親にかけようと思った。
仕事をしている時間だ。迷惑にはちがいない。
しかしこれはたぶん緊急事態なので、そこは許されるだろう。
許され、そしてどうするべきなのか命じられるだろう、いつものとおり。
ところが、つながらない。発信音さえ鳴っていない。
何度かけてもおなじ反応なので、思いきって緊急ダイヤルも試したが、変わらない。
圏外……というわけでもないらしい。少なくとも、画面に、それを示すような表示はない。
──となると、通話機能の故障デスか? ロクに使ってもイナイのに?
ブラウザを開いてみると、ネットにはつながるようだ。
ふだん、外でスマコンを使ったりしない人間のことで、操作にもたついたものの、地図を開いた。
しかし現在地は、自宅と表示されている。
「あるぇー? 外でもGPSで特定デキルんじゃナイの?」
では、どうしようかと考えてみても、なにも思い浮かばない。
SNSも、他のコミュニケーションツールも、使ったことがない。
やさしい風が吹き、葉ずれの音とともに、木もれ日が揺れてきらめく。
──うん、この上なく、森。
スマコンを片手に、ラフな部屋着姿の自分はとても場ちがいだ。
おなかが鳴ったことで、空腹を自覚する。
当惑が、ゆっくり、不安に置き換わりはじめた。
ようやく、頭がまともに働きだしたのだ。
いまの気温は、涼しくてちょうどいいが、夜になると、もしかしてかなり下がるのではないだろうか。
空腹もだが、のどだってかわく。
いや、それより、森には、危険な動物がいるかも。
「ヤバ……怖くなってきた」
大声で、助けを求めたりするべきだろうか。
なんとなく恥ずかしく、ためらいを覚える。
それに、長らく、ぼそぼそした独り言くらいしか、発声していない。大声を出せる自信がない。
そもそも声がとどく範囲に、人間なんていそうにない。
「じゃあ、移動シテみるしかナイ……デスよね」
遭難した時は、へたに動かず、その場で助けを待つのがいいと、どこかで聞いた気がするが、自分の状況がそれに当てはまるのかわからない。
なにより、じっとしていると不安がどんどんふくらみそうだ。
思いきって、一歩、踏み出す。
素足に、ひんやりする土の感触。
──うー、コレは、きもちいいよーな、悪いよーな……。
慣れない感触に戸惑いながら、歩きつづける。
しばらくして、ずきり、とした鋭い痛みを足裏に感じた。
「ッ!?」
バランスを失い、転倒する。
左の足の裏に、小枝が突き刺さっていた。
自分のうかつさを呪いながら、その異物をつまみ、力を入れる。
肉が引っ張られるような感覚とともに、痛みが走った。
迷ったものの、一気に引き抜いた。
ぱたたっ。
血が枯れ葉にぶつかって、軽い音を立てる。
ずくん、ずくん、足裏がうずくと同時に、熱っぽくなってくる。
思ったより、深く刺さっていたらしい。
──莫迦デスカ、自分は!
腹立たしい。こんな軽装で、まして素足で、森のなかを歩いていて、不用心にもほどがある。
ここは、安全な自室ではないのだ。
ケガをすることで、やっとはっきり自覚した。
歩けないようなケガではないと思う……たぶん。
しかし、闇雲に歩いてもしょうがない。
イツキは立ち止まり、あらためて周囲を観察する。
ゲームで、たとえばそう、自由度が高く、リアルな作り込みに定評がある某ファンタジーRPGで、森のなかで道に迷ったらどうするだろう。
その答えに行き当たるのと、聴覚が、さまざまな環境音のなかから、かすかな水音を拾うのが同時だった。
左足をかばいつつ、移動して、思ったとおり川に出た。
流れはゆるやかだ。対岸まで一〇メートル前後、水はきれいに澄んでいる。
のどのかわきは、まだ、それほどでもない。腹を壊す危険を考えて、がまんできるかぎりは飲まない方がいいだろう。
それでも、川沿いに動けば、飲み水は確保できるわけだし、それ以上にうれしい発見があった。
道だ。舗装されているわけではないが、あきらかに人間の手が入った道だ。よく見ると、車輪のような跡がある。
この道をたどれば、必ずだれかに助けを求めることができる。
いつからか、左足の鈍痛は、じんじんと燃えるような感覚に変わっている。
もとから体力がないのに、片脚を引きずりながらでは、疲労の度合いが激しい。
けれども、このまま日が落ちてあたりが暗くなったら、と思うと、立ち止まることはできなかった。
やがて、空が茜色に染まりかけたころ。
視界が開けて、人家と畑が目に入った時、安堵のあまり腰が抜けそうになった。