#09. 酒場にて(1)
イツキは、毎日、必死で歩く練習をした。とりあえず自力で移動できないことにはなにもできない。
杖を使えば、かろうじて、トイレに行くくらいはできたが……。
松葉杖が切実に欲しい。
両脇に二本、杖があれば、格段に安定するだろう。
しかしこれもまたオーダーメイドになる。イツキは身長一四四センチであるし。
これ以上、借金を増やすわけにはいかなかった。
杖なしで歩けるようになるまで、二〇日以上を費やした。
それでも歩行速度は、常人のせいぜい半分くらいだ。
◆
「スミマセン。エールをもう一杯」
第二市区、酒場兼宿屋に、イツキは宿泊している。
安物のエールは、なまぬるく、のどごし最悪、どろどろざらざらしている。
これなら水の方がよほどいいのだが、なぜか水よりもエールの方が安価なのだ。
支払いは、レイシィから「一文無しではさすがになにもできないだろうから」とわずかな軍資金を借り受けている。
で、がまんして飲んでいたら慣れてきた。
以前に酒を飲んだ経験はなかったが、アルコール度数はたぶん、五パーセント未満だろう。
それでもほのかに酔える。思考が鈍磨する感覚が、暗い考えしか浮かばないイツキにとってはありがたい。
木製のジョッキでエールをすすりながら、つまみの、イナゴとナッツ類を炒ったものをカリカリとかじり、時おり、ため息をついた。
第二市区は本来、奴隷階級の者がいるべき場所ではない。
この宿の部屋は、レイシィの名義で──いや、エシャルという偽名を使っていたが──借りてもらったが、イツキがひとりで飲んでいると、白い目で見られる。
ただ、いちばんすみっこの暗がりで、安酒をやっているぶんには、周囲もそっとしておいてくれた。
黒髪がばれたら、殺される。頭巾で隠しているだけでは心もとなく、極力、人目を避けたい。
必要がないかぎり、太陽の下に出たくなかった。
この数日は、金を工面しようと努めた。
酒場は流れ者にとって、仕事の斡旋所でもある。
依頼内容は掲示板で知ることができた。
──いわゆるサイドクエスト、デスね。
──しかしソレでさえ……ハードル高すぎィ!
どの仕事も、まず、ふつうに歩けること。多くは、馬に乗れることも前提になっている。
たとえば、近距離の宅配で銀貨三枚か四枚。
しかし文面から判断して、往復、一〇日くらいかかりそうだ。
最低賃金の仕事は、雑用を丸一日、一〇時間以上めいっぱい働いて、報酬は銅貨で二〇〇枚である。ちなみに銅貨一〇〇〇枚で、銀貨一枚に相当する。
こんな仕事でさえ、足が不自由なイツキには不可能だ。
冒険者ギルドでも仕事は見つかるらしいが、より、ハードな内容になる。
人目に触れるリスクをおかしてまで、確認に行くのはやめた。
可能性として、イツキはデスクワークならば、スマコンを活用することで、この世界のだれよりも有能に複雑な計算ができる。
おそらく、大規模な商取引、教育、軍事、政治などの現場では、需要があるはずだ。
しかしそういう仕事が、酒場の掲示板などで募集されるわけがない。
上流階級にコネがあるか、信頼と実績の担保がないと雇ってもらえないだろう。
ほかの知識チートはできないか。たとえば、なにかクラフトできないだろうか。
結論からいえば、だめだった。
この世界は資源が少ないので、人々の生活の知恵により、可能性のあるものはあらかたすでに、イツキが思いつく以上に作られている。
イツキの「清潔にしていないと、病気になる」という知識は、潜在的な価値は計り知れない。
こちらの人々は衛生状態に、ドン引きするレベルで無関心だ。
たとえばこの宿〝緑の兎亭〟はミドルクラスだが、ベッドはくさいし、シラミが湧いている。それはもう「シラミですがなにか?」と言わんばかり当然の顔をしていて、
「ああ、自分の方がアウェーなのだナァ」と思い知らされたものだ。
石けんは、存在はするが、ほとんど有効利用されていない。
「石けんをもっと使って、清潔を保て、肥溜めと水場はできるかぎり遠ざけろ、医療現場では消毒を徹底しろ」
この知識が実践されれば、人々は健康になり、有病率、死亡率が低下して、国家規模の益があるだろう。
しかしそれは、みんながイツキの発言に真剣な注意を払い、忠実に守り、しばらく経ってようやく価値が実感されるものだ。
すぐ金に換えることはできない。
今日は、こちらの暦では、地の節、第七の週、四日と呼ぶ。
レイシィがくれた猶予は三週間だが、この世界の一週間とは、七日ではなく、一〇日を意味する。
つまり三〇日あったのだが、すでに二八日がすぎ、明日が期限だ。
今日、一日で、銀貨三〇枚を稼ぐ。どう考えても不可能だろう。
──もはや、安酒で酔っ払うしかネェ!
イツキが自棄を起こしているのも、むりはないのだった。
おおきくため息をつきながら、テーブルの上に突っ伏した。
酒場の喧騒のなか、楽士がギターをつま弾いている。
ごくシンプルなリズムと旋律だが、なかなかいい雰囲気だ。
──スマコンで、音楽を流すコトもデキルんデスが……。
イツキの好きなハードロック、ヘヴィメタルは論外として、クラシックなどは、この世界の人間にも受け入れられるだろう。
しかし楽器も持たずに音だけ流せば、未知の魔法として、おそらく人々は面白がるより、怖がるだろう。
この世界の人々はきわめて保守的で、見慣れないものに警戒する。
レイシィやベルガが、例外なのだ。彼女たち自身、〝魔女〟というはみだし者であるから、偏見がなく、常識に囚われていない。
首だけ、横に向けて、店内を見わたす……一般人は、そうではない。
もし、仮に、スマコンの音楽で好評を得られたとしても、酒場の音楽家に支払われる報酬なんて、たかが知れているだろう。
イツキは、頬に、テーブルのでこぼこした感触を感じながら、目を閉じた。
──売り飛ばされたその先で、ドンナ目に、遭うんデスかね?
──考えても、仕方がナイデスケド。
どん、と顔のすぐそばにナイフが突き立てられた。
びくっとして見上げると、大男が敵意をむき出しに見下ろしている。
「なんでおまえが、こんなところにいやがるんだ? なにを企んでる。
まあいい、警卒を呼べばおまえは縛り首、確実だ」
読んでくださってありがとうございます♪
【次回】#10. 酒場にて(2)、3月27日(金)更新予定。
内容としては、新キャラクタが登場します。考えてみるとこの人、比較的ちゃんと出番のある、数少ない男性キャラクタです。なおこの世界には「お酒は二十歳になってから」という決まりは存在しません。