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angel fall

作者: 鈴村蓮
掲載日:2018/05/28

 些細な一言が、他の人に大きなダメージを与えることは往々にしてある話だ。そして大抵は、言葉を発した本人はその事に気づいていない。言われた方は悔しさや腹立たしさを通り越し、時にはその場から立ち上がれなくなるほどの衝撃を受けるというのに。

『一人じゃ何もできないお前は、金魚の糞と同じだ。ここにいる価値もない』

 俺にとってそれは、幼い頃から抱いていたコンプレックスだった。それを暴かれ、串刺しにされ、それでも猶心穏やかにいられる人がどれだけいるだろう。

「何もあそこまで言わなくても」

 口に出したところで、俺の中に渦巻く靄は消えない。むしろ投げつけられた悪口雑言を再び思い返してしまい、胃が縮んで立っていられなくなった。歩道の縁石に座り込み、両膝に顎を乗せる。

 頭上に広がる雨間の曇天の様に、世界が全て濁って見えた。雲の切れ間から差す夕方の淡い光の柱さえ、世界に色をつけてくれない。

 加えて降り注ぐ蝉の鳴き声が、現実と非現実の境を曖昧にしていった。喧騒と共に言葉が増幅され、僅かな自尊心すら削られてゆく。

 世界ニトッテ無価値ナ俺ノ、居場所ハ一体ドコニアル?

 顔を埋め、世界と断絶する。このまま消えてしまえばいいと願ったそのとき、俺は突如背部に受けた重量でぐしゃりと押し潰された。


*  *


「い、ったぁ……。息がつまる……」

 こっちの台詞だと、声にならぬ声で呻く。アスファルト舗装の道路に押しつけられているせいで、息ができなかった。どいてくれと上に載っている物を叩くと、やっと気付いたそれがこちらに視線を落とす。

「え、何――わわわわっ、ごめんなさいごめんなさい! 今どきますからっ」

 体を浮かしてくれたおかげで、辛うじて空気が肺に入る。早くなってしまう息をなだめ、ゆっくりと地を這う視線を持ち上げた。

 彼女、という表現であっていると思う。白いワンピースシャツに黒いスパッツを合わせ、うっすら茶色がかった黒髪を乱れさせて酷く混乱していた。おっとりとした垂れ気味の瞳も、今だけはせわしなく左右に揺れ動いている。

「だっ、大丈夫ですか?」

「大丈夫なはず、ないだろ。何だよ、あんた」

 切れ切れの息の下から掠れた声を絞り出す。彼女は困った様に、道にへたり込んだ。

「えっと、天使です」

「……は?」

「だから、天使です。ちょっとドジって落ちてきちゃって」

「……どこから?」

「上から」

 そう言って彼女は人差し指を一本立てた。その先を追うと、行きつくのは木の上、雲の上、

「天界から、落ちちゃったんです」

 俺は息を吸って、吐いて、呼吸が整ったところで背中を浮かした。慌てて伸ばされる手を制し、道路に腰を落ち着けてまた一息。

「冗談」

「天使は嘘をつきません。神様に怒られてしまいます」

 からかっているのではない事は、真剣な表情から読み取れた。どうやら彼女は、本気で自分を天使と信じているらしい。

「……わかった。じゃあ君が本当に天使だったとして、どうして地上に落ちてきちゃったのさ。堕天された、とか?」

「いえ、さっき雨が止んで、少し雲が薄くなってきたじゃないですか。天界の床もそのせいでところどころ穴が開いていて、そこから足を踏み外しちゃったんです」

 足を、踏み外した。神の使いがそんなうっかり者でよいのか。

「……天使って、飛べないの?」

「その筈なのですが。勢いがつくといけませんね、落ち始めたらどうする事もできませんでした。羽も全然役に立たず」

「そんな物、見当たらないけど」

「ちゃんとありますよ。ほら」

 そう言い、俺に背中を向ける。肩甲骨の辺りに掌サイズの両翼が描かれているが、

「まさか、これ?」

「はい。神様や大天使様にもありますよ」

 立派な髭を生やしたいかにも偉そうな神の衣装にこんな可愛いプリントがされているのを想像して、泣きたくなった。

「胡散くせぇ……」

 思わずつぶやくと、彼女は悲しげに口を尖らせた。そんな表情をされると、心が痛む。

「あー、じゃあ信じるよ。信じよう。で、そうだとして、元いた場所にはどうすれば帰れるのさ? 天界、だっけ」

「……それが、普段無意識で浮いているので飛び方がわからないんです。困りました」

「え、でも、地上に降臨する天使だっているだろ。あれも最後には帰っているじゃないか」

「そのような大天使様と私とでは、格も霊力も雲泥の差です。比べるなんてとてもとても」

「……じゃあ、帰れないじゃん」

 重苦しい沈黙。今にも泣きだしそうな空の下、蝉の声がやけに耳について喧しいことこの上ない。

 その時つむじ風が一筋、俺達の間をすり抜けていった。それはそのままビルを駆け上がり、空高くへと消えていく。

 隣の間抜けな天使も同じ様に飛び立てれば、どんなに楽だったか。風の行く末を呆然と眺めていると、ふいに彼女ががばっと立ち上がった。漆黒の瞳がキラキラと輝いている。

「もしかすると、高い所から上昇気流に乗れば帰れるかもしれません」

 彼女は周囲を見渡し、突然前方に駈け出した。往来の少ない道路を挟んで目の前にあるのは、五階建の雑居ビルだ。その足元に着くや否や、止める間もなく外階段を軽々駆け上がっていく。そしてあっという間に最上階へ到達すると、転落防止用ネットを手で除けた。

「まさか、あいつ」

 俺も慌てて地面を蹴り、足を縺れさせながらもどうにかビルの下へ向かう。上を向くと、彼女が手すりに足をかけた所だった。

 天使は飛び出し、俺は叫ぶ。風が頬を撫で、その背中に羽が見えた気がした。

 だが華奢な体は重力に従って、そのまま地上へと帰ってくる。

「……あれ?」

「いや、そりゃそうだって」

 不思議そうに首を傾げる様子を見て、一気に力が抜けた。というかあの高さから落ちても無事だなんて、本当に人間ではないらしい。

 誰も騒いでいないので、彼女の飛び降りを見た人はいないようだ。ほっとしたが、これ以上の厄介事はごめんである。もうそろそろ別れ時だろう。

「あのさ、俺、用事があるから――」

「これより高い建物は近くにありませんか? できればちょっとした山くらいの高さで」

 そっと退散しようとしたが、腕を掴まれて逃げ場を失った。その上仔犬の様な瞳で見上げられて、非常に居心地が悪い。

口には出さぬ圧力、有無を言わせぬ力に俺はとても弱い。いつも断りきれずに、誰かに振り回されている。だが、今回ばかりは。

「山って、ここは都会のど真ん中だぞ。そんな簡単に言われても」

 それ程の高さとなれば地上五百メートルは必要だろう。自然の地形はおろかそんな高い建物が、こんなところにある訳が

「あ」

 俺の視線が彼女の背中、周囲の建物の奥で止まる。そこには雲を突き刺して悠然と佇む、日本最大の電波塔があった。

 俺の様子に気づいた彼女が、振り返って目を丸くする。

「あの塔は、どれくらいの高さなんですか?」

「六三四メートル、だったかな」

「すごい、すごい。小山くらいはありますね」

 満面の笑みを浮かべて、無邪気な天使は弾んだ声を上げる。反対に俺は、気づかなければよかったと頭を抱えた。何故ならきっと、次の彼女の台詞は

「あそこに行きましょう。あれだけの高さならきっと大丈夫です」

 ああ、やっぱり。けれどそれを拒絶する勇気を、俺は持っていなかった。


*  *


 軽やかな音をたてて、エレベータが展望デッキへと到着した。本来はこの階から更に上の展望回廊へと向かうエレベータに乗り換えるのだが、見物客に流されて自然と俺達も窓際へと近づいていく。ここからは都心部のある平野からその外側の山々が、運が良ければ富士山まで見えるはずなのだが

「……雲に隠れて何も見えねえ」

 外は暗く濁った塊で覆われ、絶景どころか一寸先も見通せない。天気は再び雨、しかも先刻より風が強くなっている。時折足元が左右に振られて、少し怖い。

 そういえば以前、エレベータが強風で止まったことがあった。そうなる前にさっさと上へ昇ってしまおうと、乗換の案内を探す。

と、流れていた音楽がぷつりと途切れ、機械的なチャイムがフロアに響いた。

『ご連絡いたします。強風の影響により、誠に勝手ながら本日の営業は中止とさせていただきます。お客様には多大なるご迷惑を――』

 ざわりと、フロアの中が波立った。戸惑いのうねりの中、係員による誘導があちこちで始まる。次の行動を躊躇って二の足を踏んでいると、彼女が小さく袖を引いた。

「あの、皆さんどうされたのですか?」

「天気が悪くなってきてもう今日は閉めるから、早く帰れって案内があったんだ。俺達も降りて、また明日出直そう」

「……今日では、駄目なんですか?」

「もう夕方だから、さすがに今後の営業再開は無理だ。これ以上高い所は近くには無いし、一旦帰って――」

 雑踏から目を移したところで、言葉が止まる。彼女が酷く寂しげな笑みを浮かべていたからだ。

「それなら仕方ないですね。ここで貴方とはお別れです」

「お別れって、そんな大げさな。家にはさすがに上げられないけど、寝る場所は用意してやるから、また明日――」

「私は本来この場所にいてはならぬ者です。朝になれば、消えてしまうでしょう」

 俺は二の句を継げず、口を閉じた。

 あまりに自然だったために忘れていた。彼女は天使で、俺達とは住む世界が違い、ここでは異質で非常に不確かな存在だった事を。

 それまで近くにいたはずなのに、手を伸ばしても触れられない。

「貴方がいてくださったから、未知の場所への不安を感じることなく最後まで楽しむことができました。ここまで付き合っていただけて、本当に嬉しかったです」

 ありがとうございましたと、天使は深々と頭を下げる。その華奢な背中が細かく震えているのに気付いたとき、俺は唇を噛みしめた。

 俺にできる事は、まだあるのではないか?

 ここで手を放したら、きっと一生後悔する。

「ちょっと、こっち」

 細い腕を取り、そっと物陰に誘う。静かに扉を開けて入ったのは、塔の中心を貫く非常階段。職員達の通路として、また緊急用の避難口として使われるというそれは、螺旋を描きながら上にも下にも際限なく伸びていた。

「これを昇っていけば、多分外に出られる」

 ぽかんと口を開けて空を見上げていた天使を尻目に、俺は階段に足をかける。数段昇った辺りで、後ろから靴音を鳴らして彼女も昇り始めたのがわかった。


*  *


 しばらくの間、二人とも何も言わずにひたすら歩き続けた。だが延々と続く同じ景色は、次第に精神と体力を蝕んでいく。選択を悔やんでも、現在地がわからないために引き返すことも不可能だった。

 そもそもどうして、俺はこんな事に付き合っているのか。自問したが答えは明確だ、彼女が俺を引っ張ってきたからだ。

 また俺は、誰かに動かされている。

 先に投げつけられた罵詈雑言が耳に蘇る。結局、これまでもこれからも俺は何も変えられないのだろう。ずっと誰かの駒となるだけの、そんな人生。

「そんなこと、無いです」

 凛とした声が、俺の思考を断ち切った。勢いよく振り返ると、こちらを見上げる彼女と視線がかち合う。

「貴方は駒ではありません。私の世界を動かしてくれた、ただ一人の人物です」

「もしかして、全部聞こえていた?」

「今私がここにいるのは、貴方が世界を回してくれたお陰です。貴方がいなければ、私はあのまま消えていたでしょう」

 質問には答えず、彼女はまっすぐ俺を見据えている。それに耐えきれなくて、再び前を向いて歩き出した。

 二人分の足音が、壁で跳ね返って響き渡る。

「……俺は何もしていない。お前に振り回されていただけだ」

「いいえ。私は私だけでは、自分の世界を動かせません。誰も自分の世界を回すことはできないんです」

 天使の話は止まらない。耳障りだった靴音が、だんだん意識の外に飛んでいく。

「確かに自分の世界の中心にいるのはその人でしないのですが、誰かに助けてもらったり影響を与えてもらうことで、初めて世界は回るんですよ。今回はそれが貴方だった」

「でも、偶にいるぞ。俺の世界は俺が回すって、周りを意のままに操ろうとする人。で、実際にそうなっちゃう人」

「そういう人は、自分が井の中の蛙であることに気付いていないだけです。本当は周りの人の手を借りて、やっとその位置にいられるのに。そういう傲慢な人は私大嫌いなので、あらゆる手を使って天国行きを阻止しちゃいます」

「天使なのに、そんな事公言していいのかよ。そんなんじゃいつまで経っても下っ端のままだぞ」

 冗談交じりに言い、肩越しに後方を見やる。口を尖らせているかと思った彼女はしかし、心底嬉しそうに笑っていた。

「それはそうですが、でも今回は下っ端でよかったです。私の世界を変えてくれた、貴方に出会えたから」

 その表情が、言葉の調子が、そこに嘘偽りが無いことを雄弁に物語っている。それを悟った瞬間、心臓が大きく波打った。

「人は自分で思っている以上に周りに影響を与えています。それは貴方も同じ。歴史に名を残すのと同じくらい、すごいことなんですよ」

 ふいに涙が溢れそうになり、慌てて前を向く。顔が火照って仕方がないが、それを誤魔化すすべがない。

 無価値だった自分に価値を認めてくれる。いてくれてよかったと存在を肯定してくれる。その何と有り難く、心強いことか。

 何かを言おうとしたが、声が震えそうで開きかけた口を閉じた。代わりに最後に現れた踊り場で足を止め、壁から突き出た鈍色に光るドアノブに手をかける。そしてガチャリとそれを下げ、力いっぱい内側に引いた。

 開け放った扉から、水滴交じりの強風が一気に吹き込む。だが予想外の攻撃にたじろぐ俺を尻目に、彼女は軽やかに外へ出た。

 霧雨が弾丸の如く飛び交う中で屹然と立つその様子は、まるで神の降臨図だ。

「すごい、今にも天に届きそう」

「それならいい、頑張った甲斐があったよ」

 俺の言葉に、彼女は振り返って微笑んだ。

「ここまで連れてきて下さって、本当にありがとうございました。貴方と会えて、本当によかった」

 そう言い、彼女は深く頭を下げる。そしてくるりとこちらに背を向けると、足場を囲む雲の中へ飛び込んだ。

 姿を探して空を仰げば、白いワンピースが遥か上空で風に弄ばれている。そこへ白く輝く光の束が一筋差し込み、彼女を貫いた。迷い児を導くための薄明光線、またの名を

「天使の階段……」

 彼女を包む大きな羽が見えたのは、夢か幻か。それもやがて雲に紛れて見えなくなった。

 結局、人の言い分に少しも耳を貸さない奴だった。こちらの主張は、告げる隙が無くただ飲み込むだけ。

 地に沈んでいた俺を救ってくれた礼も、言えていない。

「ありがとう、少しは楽に生きられそうだ」

 届かない思いを小さく呟くと、忍び込む冷気が彼女の不在を実感させる。一人で取り残されるのは、思っていたよりも辛い。

 ……一人?

 そこで気が付いた。俺は今、たった一人で、地上から遠く六百メートルの所にいる。

「待った待った待った! これ、どうやって帰ればいいのさ!?」

 その叫びは誰にも届かず、渦巻く雲に呑みこまれた。

 この度は拙作に目を通していただきありがとうございました。

 つたない部分も多々ありますが、どんな形であれ少しでも誰かの心に引っかかっていただけたなら幸いです。

 これからもどうぞよろしくお願いいたします。


 special thanks:BUMP OF CHICKEN「angel fall」(聴いているときに内容を思いつきました)、投稿前に感想・アドバイスをくれた友人、投稿させていただいた小説賞の関係者様。ここまで見てくださった方々。

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