第1話 偽都《秦》
微睡みの中にいるような景色が、ワタシの視界を覆っていた。
行けども行けども、真っ暗な世界。
この状況になって三十分くらい経つが、未だこの状況を脱け出せていない。
二十分くらい経った辺りで心が折れそうになったが、何とか気を保ち五感を走らせる。
嗅覚では、微かに潮の香りを感じ、聴覚では、僅かに波の音が聞こえている。
それが、幻聴なのかは分からないが、今は五感に頼るしかなかった。
しばし歩くと、ぐに。という奇妙な音が、足下から聞こえた。
…………ぐに?
それは、樹の根とはまったく違う感触。まるで、触手のような物を踏んだような感覚に似ていた。
ゴゴゴゴゴォォォォォ………………。
その答えを見つける暇も無く、突然足下が揺れ始めた。
ワタシは慌ててその場から離脱する。
ゴンッ!!「ッ!」
しかし、暗闇の中で跳躍した為、頭上にあった樹の枝に頭をぶつけてしまった。
ヒュッ!と何かがしなるような音が聞こえたと思った瞬間、ドゴッ!と音が鳴り、ワタシの脇腹に衝撃が走った。
それが、『ナニモノか』による攻撃だと気付いたのは、身体がものすごく遠くまで弾き飛ばされた後だった。
「ゴホッ…………、カハッ!」
脇腹の痛みに耐えきれず、嗚咽を吐いた。
意識を強く保ち、現状を把握する。
先程の攻撃により弾き飛ばされた際に薙ぎ倒した木々の数、その木々の間隔、『ナニモノか』との距離、自身の身体の変化、それらを照合し、改めて目の前の『敵』を見据える。
未だ暗闇の状況なので『敵』の姿を黙視で確認することが出来ない。なので、五感の内、嗅覚と触覚、聴覚に意識を集中させ、『敵』の姿を確認する。
「…………」
まずは、触覚だ。
目を閉じ、攻撃を受けた脇腹に触れた相手の一部から、出来る限りの情報を探る。
振り返ってみて解ったのは、先程の『何か』が、軟体系のようなものではなく太い樹の蔓であった点と、その攻撃の原因を作ったのはその少し前に踏んでしまった樹の根だった点の二点。
次は、嗅覚。
鼻腔を突き刺す杉か銀杏のような薫り。
その特徴を利用して、相手の攻撃の種類を模索する。
最後は、聴覚だ。
耳を澄ませば聞こえてくる這いずるような特殊な足音。
それは、明らかに一般的な動物のような歩き方ではなく、軟体動物のような類いのものに近い。
しかし、現状を把握できた所で、この状況を打破できる訳ではない。
……………。俊敏なしなる蔓。樹の根を踏んだことで動き出した『何か』。
総合して考えると、その『敵』の正体はおそらく《森賢樹》だろう。
ワタシは改めてその『敵』に敵意を向け、臨戦体勢に入る。
耳を澄ませば聞こえてくる、何かが暗闇の森の中を這いずるような音。
数秒毎にその音は鮮明に聞こえ出し、『敵』との距離が明確になり始める。
その距離はおよそ二十メートル程。速度はあまり無いようだ。
ワタシは上着の内側、腰に携帯していた護身用の小太刀を抜く。
バキバキバキバキッ!
五分と経たずして、『敵』はワタシとの距離を確実に詰める。
相手が《森賢樹》であれば、大々的な計画は必要無い。
《森賢樹》に意思は無く、あるのは本能という定められた法則のみだ。
その法則性を逆手に取れば、決して勝てない相手ではない。
しかし、ワタシの中では、小さな不安があった。
…………それは、互いの身長差だ。
ワタシの身長は一メートル弱。対する《森賢樹》の体長は平均で八メートル程ある。
身長差を利用した戦略はいくつか存在するが、今回はそれを模索している暇も、実践している暇も無い。求めるのは、一閃必中のような『ナニか』だ。
唐突だが、蝙蝠は、特殊な高周波を駆使して、天敵や獲物等などとの明確な距離を感知することが出来るらしい。
ワタシにそこまでの技術は無いが、現状では最も頼れる戦法と言える。
最も手近にあった木に手を添え、《森賢樹》に悟られない程度の高周波を近隣に発する。
辺り一帯が木々で生い茂っている為、相手との区別が着きづらいと思われたが、案外、容易に目的は達せられた。
──ヨシッ、ココかッ!
そう思えたのは、《森賢樹》の中に『異常な程に分厚いナニか』が見付かったからだ。
それは、一般的な木々には存在しないはずの『器官』。おそらく、それが人で言うところの『心臓』であることは察しが付いた。
ワタシは姿勢を低く屈め、軸足に力を込めて一撃必殺の体勢を取る。
ズルズルズルズル………………。
二・三分程前から、《森賢樹》の足運びが緩やかなものになっていた。その行動は、コチラの存在を見失ったことを意味していた。
ワタシはその行動を逆手に取るため、自身の存在を闇の中に浸透させる。
チャンスは一度きり。それを逃せば、夜目の利かないワタシにとって、戦況を覆される要因になりかねない。
──ハァ、フゥ~。
心の中で大きく深呼吸し、一度きりのチャンスを伺う。
パキッ。
「………ッ!」
不意に、ワタシの足下で小枝が割れた。
「しまっ!」
バキバキバキバキッ!!
音か声か、相手もコチラの存在に気付き、全速力で近付いてくる。
「くっ!」
仕方ない、ここは…………。
視覚に全ての意識を集中させる。
“minis vurn”───。
そう心の中で唱ると、右目に全ての情報が写し出される。
一瞬にして視界は明るくなり、『敵』の姿が黙視で認識できるようになった。
ヒュッ、バァン!バキバキ………ドゴォオォォン!
《森賢樹》の攻撃によって、右手にあった樹木が薙ぎ倒される。
「……………」
危なかった。寸前が交わしていなければ、先程のように弾き飛ばされていた。
《森賢樹》の全長は三・四メートル程。その巨体から繰り出される攻撃は、辺りの木々を容易く薙ぎ倒してしまうほど驚異的だ。
ヒュッ、ヒュヒュヒュッ!!
六本の太い蔓の乱撃を寸前で交わしていき、順当に蔓を切り刻んでいく。
《森賢樹》はますます怒れ狂い、斬られた蔓を再生させ、再び攻撃を開始する。
「くっ、キリがない…………」
小声で舌打ちし、今度は蔓の間を縫うようにして《森賢樹》の懐に飛び込んだ。
ワタシが視界から消えた事で、《森賢樹》の攻撃が止んだ。
───ごめんなさい。
そう、心の中で呟き、左手の小太刀に力を込め、《森賢樹》の『心臓』に一閃必中の攻撃をぶつける。
ギギギギギッ………………。
時代遅れのブリキ人形のように、動きが鈍くなった《森賢樹》。
ズシィィィン!という音と共に、《森賢樹》はその場に倒れた。
どうやら、終わったようだ。
ワタシはゆっくりと目を閉じ、右目に集中させていた意識を元に戻した。
「ッ!」
視界が正常に戻った瞬間、瞳に何かが刺さった。
片目を瞑り、空を見上げた。
日射し…………?
沢山の木々が薙ぎ倒されたおかげか、森の至る所に小さな光の筋が立っていた。
ワタシは上着を脱ぎ、土埃を払った。
カシャン。………?
その時、何かが足元に落ちた。
「あ………」
それを拾い上げた瞬間、それに映っていたモノに、ワタシはあることに気付いた。
ワタシが拾い上げたそれは懐中時計で、落とした衝撃で開いたそれに写し出されていた時刻は十時二十分過ぎ。
「ヤバッ!」
慌てて懐中時計の二段目を開き、方位磁石で方角を確認する。
確か、東………だったよね?
独り言のように心の中で呟き、木々を蹴って森の上に出た。
「えっと…………」
方位磁石と地図、見た感じの現状から大間かな位置情報を予測する。
「………………」
所持していた手荷物を確認し、森の上を通って森を抜ける。
舗装された道路の上では、全速力で走り目的地を目指した。
二十分後。
「ハァハァハァ……………ッ……」
ワタシは、酷い息切れを起こしていた。
「ハァ、フゥ~~」
息を整え、現在地の情報を視認する。
城塞のような建物を中心に、大きな建物が幾つか点在しており、門前に立てられた石柱には、【神代学園】と刻まれている。
「ここ………みたいですね」
中途半端に開いていた鉄格子の間を潜って学園内に進入する。
な、長い……………。
校舎までの直線を歩きながら、心の中でそう呟いた。
距離はおよそ四・五十メートル程か…………。
普通の学校にしては距離がありすぎる気がする。
いや、ここにある全て建物の大きさを見れば、此処が普通で無いことは自ずと分かった。
《神代学園》…………、《秦》………………か。
少し疑念が過ったが、よく分からないことだったので頭の隅に置いた。
「ゆ~ず~~き~~~!!」
「ッ!?」
突然、女性の声が聞こえ、辺りを懸命に見渡した。
しかし、いくら見渡しても、その声の主はどこにも存在せず、それどころか、先程から辺りに人影は無く、人の気配というものも無い。
「………?」
ワタシは訝しげに首を捻った。
スルッという音と共に、下半身に違和感が生じた。
「ふぇ?」
その違和感の正体に気付いた時、ワタシの顔は真っ赤に染まっていた。
「~~~~~~!!!」
気付かぬ間にズボンをずらされていたのだ。
慌ててズボンを持ち上げ、再び辺りを見渡す。
「か、風音さんッ!」
半泣きな顔で、この犯人に訴える。
「………………、あれ?」
しかし、いくら見渡しても、その人の姿はなかった。
「………………」
「………ッ!」
ふと、背後に気配を感じズボンのベルトを留めながら、後ろに振り向いた。
「くっ…………」
そこには、膝を着き肩を落としている知人・双葉風音さんの姿があった。
「あ、あの…………」
先程の行為について抗議しようと思ったが、風音さんは酷く後悔したような暗い表情でブツブツと独り言を唱えていた。
「な、んで…………」
え?
「何で、タイツなんて履いてるのよッ!!」
何かよく分からないことを叫び、一人絶望していた。
「いや、だって当然じゃないですか」
つくづく、変人だとは思っていたが、それがいつも通り過ぎて逆にその認識が定着されつつあった。
しかし、よく考えたら風音さん……よくベルトを難なく外せましたな……………全然、音がしなかった。
「えと…………」
数分程で風音さんの気持ちが落ち着き、ワタシは言葉に詰まった。
「で?」
「はい…………」
「柚希は何処で何をしていたの?」
「えと………」
どう答えて良いのか分からず、沈黙が訪れた。
「まぁいいけど。とりあえず、あまり時間が無いからとっとと着替えを済ませるよ」
「え?あ、はい!」
ワタシの弁論も聞かず、風音さんは校舎の中に消えた。
ワタシも急いでその後を追った。
校舎の中に入ってまず最初に気付いたのは、
「誰もいない…………」
という違和感だった。
先程まで確かに人の気配があったはずなのに、今はほとんど薄くなっている。
ワタシが一人で考えていると、風音さんが口を開いた。
「今は『式』に出てるからね、もう少ししたら皆戻ってくるよ」
シキ…………?
ワタシの知る中で、『式』は入隊式と退兵式しか存在しない。
しかし、《神代学園》は以前ワタシがいた場所とは違い普通の学校と聞いている。
では、今行われているのはいったい何の『式』なのだろうか……………?
「柚希………?」
「……………」
「お~~い、柚希~~?」
「ふぇ?あ、はい、何ですか?」
また、深く考え込んでしまっていたようだ。
「はい」
「ふぇ、何ですか?」
紙袋を手渡された。中には赤みの入った黒い布切れが入っている。
「《神代学園》の制服。あっちに給湯室があるからそっちで着替えて」
「わ、分かりました」
ワタシは指示された部屋に入り、『学園の制服』に着替えた。
「よし、着替えたね。じゃ、行くぞッ!」
「あ、は、はい!」
その後、流れるような風音さんの行動になんとか着いていき、違う部屋の前に到着した。
人の気配は先程とは違い確かにある。
しかし、その数は思っていたより多かった。およそ四十はあろうか…………。
「ココが、柚希の教室」
風音さんがワタシの考えを察したように、そんなことを口にした。
「ワタシの、教室…………」
ワタシは自身に問い掛けるように呟いた。
ワタシの教室ということは、ワタシ、今日からこの学校に通うんだな。
学校、か…………あまり良い思い出が無いので、正直、気が進まないなぁ。
ほんの一週間前の事なのに、酷く憂鬱な気分になってきた。
「何してるの柚希?早く入るよ、皆待ってるんだから」
「あ。ま、待って下さい!」
先行する風音さんの後を追って、教室の中に入った。
教室の扉が開かれた途端、生徒達の視線は一斉にコチラを向いた。
「何あの子、かわいい~」「お人形さんみたい」「あれが例の転校生なのかな?」「そうなの?」「そうなんじゃない?」「でも、どう見ても初等部の子みたいだけど?」
教室内で、一人二人と声が上がる度に、教室中が何かしらの話題を持ってざわめき始めた。
「はいは~い、転校生が気になるのは分かるけど今は静かにしてねぇ~」
風音さんの指示で、教室内が静かになっていく。
静かになったことを確認すると、風音さんは教卓に両手を着いて口を開いた。
「さぁ、皆さんお待ちかねッ!先日話した転校生の紹介ですッ!!」
「えっ!!?」
まるで、実演販売をしているかのような口調で話し始めた風音さん。
ワタシは目を丸くしたまま、その様子を眺めていた。
教室内は大きな活気に包まれ、大きな喝采と拍手が巻き起こった。
「それじゃ転校生。自己紹介お願い」
「ふぇ?あ、は、はい!」
突然話を振られ、ワタシは我に帰った。
ワタシは一歩前に出て強張った表情を必死で緩める。
生徒達の視線と、教室の空気で緊張が中々解けないが、やむなく口を開いた。
「え、えと…………。神威柚希、です。その…………よ、よろしくお願いいたしますッ!」
簡単な自己紹介をし、お辞儀をした。
「えっ、それだけ?」
すると、風音さんが隣で酷く驚いた顔で問い掛けてきた。
「え、あ、はい」
その面持ちに圧倒された。
他に何を喋れば良かったのだろう…………。
「はぁ~~、まぁいいか。じゃ、柚希の席はあそこ、窓際一番後ろの席……………あれ?」
風音さんは自身が指差した先に目を向けたまま、しばし硬直していた。
ワタシもその席に目を向けるが、特に変わった様子も無い。
一つ、不自然だと言えるのが、その席の後ろの席がガラ空きということだけだ。
「ちょっと最中、修哉は?」
「……逃げた」
風音さんが問うと、一つ前の席に座っている女子生徒がきっぱりと、手短に答えた。
「くっ、やってくれるじゃない………」
風音さんは右手でこめかみを抑え、堪えた、と言わんばかりに呟いた。
「………まぁいいわ。柚希、とりあえず、最中の隣に座って」
「あ、はい」
ワタシは指示された席に向かい、
「あ、えと。よ、よろしくお願いします」
「うん。こちらこそよろしく~」
お互いに軽く会釈し、ワタシはその女子生徒の隣に座った。
「はい。じゃあ、まぁ、特に私からは無いけど、明日から通常の授業が始まるから、皆忘れ物の無いように準備だけはしっかりねぇ~」
風音さんは手短に済ませ、ヒラヒラと右手を振って教室から出て行った。
風音さんが出て行くのとほぼ同時に、数人の生徒が席を立ち各々の席に向かった。
そのまま会話し始めていることから、友人の下に向かったことが伺える。
「さてと、私達はどうする?」
ふと、隣で最中(?)さんがそんなことを問う。
ワタシはよく分からず、首を傾げた。
「ん~~。兄さんを探すか、それとも、そのまま帰るかってこと」
ああ、そう言うことか。
それは当然───、
「お~い、最中」
と、ワタシの言葉を待つより先に、男子生徒が声を掛けてきた。
「ん、何?」
「これからどうする?」
振り向けば、そのには二人の男子生徒がいた。
一人は眼鏡をかけた茶髪の如何にも秀才っぽい顔立ちの人物。もう一人はその人よりやや長身な金髪の人物、コチラは少し不良っぽそうな風貌だ。
「ん~~。まぁ、兄さんを探そうと思ったけど、転校生に校内を案内しなくちゃだし………」
「そうか…………、なら、修哉はボク達で捜しとこうか?」
「ん~。いや、ありがたいけど遠慮しとく」
「そうか……、じゃあな」
「うん、じゃぁねぇ」
「転校生もサイナラ」
「ふぇ?あ、は、はい!さようなら、ですッ!」
最中(?)さんと共に男子生徒を見送った。
「よし。じゃあ、私達も行こうか」
「あ、はい」
「とりあえず、最初に教務室だよね?持って来てた荷物とか、回収しなくちゃだし」
ワタシは教室内の空気に違和感を覚えつつも、最中(?)さんの後を追って教室を出た。
「ところで、柚希」
「はい、何ですか?」
階段を降る途中で、最中(?)さんを口を開いた。
「そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったなぁ~と思って」
「えと、そうですね」
「じゃあ、改めて」
最中(?)さんは反転し、改めて自己紹介した。
「私は、小薙最中。ちなみに、さっきの男子生徒、手前の茶髪が、御影恭助。その後ろの金髪が、藤堂陽毅。私共々好きに呼んじゃって良いから」
「はあ…………」
最中さんだけの自己紹介かと思いきや、先程の二人の紹介までされてしまった。
教務室までは然程も遠くもなく、五分程で到着した。
「しっつれぇしま~~す」
最中さんは勢い良く扉を開け、ずかずかと奥へ進んで行った。
「風音~、柚希の荷物取りに来た~」
「あ、そう。そっちにまとめてあるから」
「りょ~か~い」
最中さんはワタシの荷物を軽々と持ち上げた。
ワタシは持ち上げるのに少し力が必要だったが、流石、年上と言うべきか…………。
「あ、ちょっと待って、柚希」
「ふぇ?あ、はい、何ですか?」
風音さんに呼び止められ、振り向いた。
「二つ隣の町の外れに、大きな桜の樹が植えられてるんだけど…………」
何となく、嫌な予感がした。
しかし、こんな前置きの段階で話を遮るのは、逆に変な感じがするので、若干不安を抱えつつ話の続きに耳を傾けた。
「その桜の花、咲かせといてね?」
「え?」
唐突な言葉に、ワタシの思考は停止しまった。
今、何と?
「柚希?」
いや、まさか………、だって、桜の花って春になれば咲くんじゃ────。
そこでふと、此処へ来る途中の事を思い出した。
そういえば、少し変わった樹なのに、酷く枯れた木々が所々に点在していたような………………、もしかして、あれが桜の樹?
「お~~い、柚希~~」
桜の樹は、この東方の地でしか咲いていない希少な樹木の一種。と何かの本で読んだ気がする。
うぅ~ん、桜の樹、かぁ…………。
確か、桜の樹の老樹が、此処《秦》にあるって話、誰かから聞いたなぁ……………。
にしても《秦》かぁ………………。
「大丈夫なの?」
「多分ね。また、深く考え込んでいるだけだと思うから」
「そっか…………」
《秦》、あまり良い噂は無いんだよなぁ………。
《秦》といえば、『偽都』の名で有名な地だ。
数百年程前に起きた大きな事件を境に、毎年のように大小様々な事件が相次いでいるらしい。
しかも、幾年か前に大々的な事件も起きているらしいし……………。
「いたっ!」
突然、ワタシの旋毛に強い痛みが走った。
「おかえり」
涙目になった瞳で正面を向くと、風音さんがワタシの髪を弄って遊んでいた。
「た、ただいま………」
「で、引き受けてくれる?」
「えと、桜の開花、ですよね?」
「そうだよ?」
特にやること…………、というか、呼び出した張本人の要望だ、どんな依頼にせよ受ける以外にワタシに選択肢など存在していないのだ。
「…………分かりました」
「ん。じゃ、お願いね」
「はい」
「それじゃあ、私達は帰るから」
「分かった~。あ、修哉には遅くなるって伝えといて」
「分かった」
風音さんを残し、ワタシと最中さんは教務室を出た。
これが、ワタシの初任務にして、この土地に呼ばれた理由だった。
この依頼が果たして、長引くのか、あっという間に終わるのか、今のワタシには分からないけど、やりたい事なども特に見付からなさそうなので、なんとなく引き受けてみたが、本当にこれで良かったのだろうか?
果てしない疑問が、ワタシの頭の中で縦横無尽に駆け巡った。
まぁ、やらずにする後悔より、やってする後悔の方が幾らかましだろう。




