嘘
それから私は領主として、領政に携わっていた。
……とは言っても、することは変わらない。
毎日政務に追われ、執務机に向かう毎日だ。
尤も……昔とは違って茶々を入れてくる者もいないため、随分と余裕があるけれども。
レティシア様が王位に就くという正式な告知があった。
ディーンの喪に一年服した後、戴冠式が行われるらしい。
私も領主として、その時は式に出席する。
領主となってから初めての公式的な行事……つまり私にとってもお披露目の式だ。
……一年、か。
ふと、私は息を吐いた。
あの人がいなくなってから既に数週間……随分長い時間が経ったような気がする。
お母様が以前仰られていた通り、ふとした時に胸に痛みが走る。
けれども……その痛みすら、愛おしいと感じるのだから重症だ。
「……お嬢様、どちらに?」
扉から出たら、ちょうどターニャが書類を抱えて部屋に入ろうとしていたところだった。
「散歩よ。少し、身体を動かしてくる」
「では、私も一緒に……」
「大丈夫よ。屋敷の中だけだから」
そう言って私は彼女を置いて、外に出た。
常春の空気が、優しく私を包み込む。
伸びをすれば、ポキポキと可愛らしくない骨の音がした。
やっぱり机にばかり向かい合っていると、身体が固まってしまうな……そんなことを思いつつ、美しい庭園で心を癒す。
「良い天気……」
上を見上げれば、澄み切ったような美しい青空。
「……あの空のどこかに、ディーンはいるのかしら?」
思わずそんな独り言を呟きつつ、懐中時計を握り締める。
空から見守ってくれている……お伽話のようなそんな考えを、けれども私は本気で信じていた。
……否、信じたいと縋り付いているといったところか。
「……いえ。あの空にはいませんね」
そんな私の独り言に、後ろから誰かが言葉を返す。
聞き覚えのあるその声に、一瞬、私は固まった。
……信じられなくて。
「ウソ……」
ついには幻聴が聞こえてしまったのかと、冷静な私が歓喜に震える私を嗜める。
けれどもそんな私を嘲笑うかのように、その声が続く。
「……申し訳ございません、お嬢様。私は、偽りばかりを貴女に伝えていました」
ポロリと、瞳から涙が溢れる。
聞き間違いでは、ない。……ましてや、幻聴でもなかった。
「それは……どんな嘘?」
声が、震える。
「たくさん、あります。商会の息子という、身元。貴女が嫁ぐと聞いて、平気なフリをしたこと。それから、私が死んだということ」
「全部、どうだって良いことだわ……っ」
私は振り返ると、走って彼の胸元に飛び込んだ。
間違いない……彼だった。
彼……アルフレッド・ディーン・タスメリアだ。
その温かい体温に、胸の音に、私の涙腺が崩壊した。
彼は、生きている……生きているのだ! と。
「貴方が生きていること以上に、望むことなんてないわ……っ」
彼もまた、私の背に手を回す。
その手が震えているのは、きっと、気のせいではない。
感極まって、私はギュッと抱きしめる手に、力がこもる。
確かに彼がここに存在しているのだということを、実感したくて。
互いに抱き合って、その体温を分かち合う。
会いたかった……会いたかったのだ!
どうしても、どうしようもなく。
もう会えないと思っていながら、それでも私は彼を求め、彼の面影に縋っていた。
そっと少しだけ身体を離し、私は彼の頰に手を当てた。
「でも、どうして……?」
「流れ矢に当たったのは、本当です。死にかけたことも。……けれども医者の努力の甲斐あって、息を吹き返しました。まあ、その前に私が死んだという情報が王宮にまで届いてしまっていた訳なのですが」
「まあ……もう、大丈夫なの? ……痛いところは?」
「もう大丈夫です。後遺症もありません」
彼はそう言って、笑った。私はホッと息を吐く。
「そう……良かった」
「息を吹き返したことは、私を診ていた医者しか知りません。……口止めをしましたので」
「それは、どうして?」
「レティが、私は王に向かないと。自分が王になるから引っ込んでいろと言いまして。彼女が王位に就くのに丁度良いかと。……まあ実際は、既に王宮内の主要人物は彼女が掌握しているので、戻ったところで混乱するぐらいならというのもありますが」
そう言いつつ、ディーンは楽しそうに微笑む。
「自分のしたいようにしろ、とも妹は言ってくれました。それならば私は、こちらで働かさせていただきたいと思いまして」
ディーンが頰に添えていた私の手を掴む。
「今まで私の未来は、王になるか死ぬかのどちらかだと思っていました。それ以外の将来を描いたことなど、なかった。全ては、王になるために……ただ、それだけのために周りと関わってきました」
私は彼の心の内の吐露を、静かに聞いていた。
「でも……ここにいる時の、私は違った。いつも念頭に有ったはずの先のことが吹き飛んでいた。そしてただただ、貴女との仕事を純粋に楽しんでいたんだ……」
「ディーン……」
それは、まるで告白のようだった。
彼の言葉を聞きながら、私の胸はずっとドキドキしっぱなしだった。
「願ってしまった。望んでしまった。それ以外の未来を。貴女と、見たことも想像したこともない未来を創り上げたいと」
私の手を掴む彼の手に、力が込められる。
「今までは短期雇用契約でしたが……これから先は、ずっとここで働かせていただきたいのです。亡霊の私に、その席はまだありますか?」
「……っ!ええ、勿論」
確かに死んだことになっている彼には、確かな身分はない。
けれども、それが何だと言うのか。
一度あの絶望を味わえば、多少の苦労など、苦労のうちには入らないような気すらしていた。
私の手を握ったまま、ディーンが跪く。
まるで御伽噺の中で、騎士が姫に傅くように。
「ちょ……ディーン!」
突然の彼の行動に、私は目を白黒させつつ声をあげた。
けれども、彼は和かに微笑んで首を横に振る。
そして次の瞬間、強い眼光を携え彼は私を見つめた。
その瞳に、私の意識は絡め取られる。
「……貴女を、愛している」
そして彼の言葉に、またもや私は呆然とする。
飾り気のない、短な言葉だった。
けれどもその言葉に込められた思いに、私は涙が溢れて止まらない。
「偽りばかりを、貴女には言ってきた。それに、私はこの世に正式な身分がなく、表に出ることの叶わない亡霊。苦労をかけることも多いだろう。けれども……もう自分を、何より貴女を偽りたくない。私は、真実貴女を愛している例え貴女に苦労をかけると分かっていても、諦めることなどできない。貴女と共に、これから先歩んで行きたい。どうか、私と共にこれからの人生を歩んでくれないか?」
私は彼の言葉を聞きながら……顔が熱くなって赤くなっている気がした。
嬉しくて、嬉しくて。胸が、いっぱいだった。
「そんなこと、貴方は気にするのね」
私は、彼の手を掴んだ。
「そんなことって……自分で言うのも難だが、真実、面倒だろう。まず、身元不確かなどこの馬の骨とも知らない男は、領主の夫として不適格だ。その上、その男は王家の血を引く王位継承権を持っているんだ……表舞台に立つことは決してできない」
「私にとっては、そんなことよ。だって、貴方と一緒になれるのだもの……死んだと思っていた、貴方と。その奇跡を前に、それらは『そんなこと』でしかないの。それに……」
彼は私の言葉に、驚いたように目を丸めていた。
そんな彼を立たせ、私は彼の胸の内に飛び込んだ。
淑女としての嗜みや、公爵令嬢としてのあるべき姿はこの時点で宙に放り出していた。
「逆に言えば、貴方は王冠よりも私を選んでくれたのでしょう? 仮に貴方が王として戻って来たとしても、私は既に領主。この地位を返上するつもりはないし、したくない。……どんなに貴方を愛していても」
「アイリス……」
「私もね、ディーン。とっても面倒な女なの。とっても欲張りで、貴方のことを愛しているけれども、私は私の道を変えることができない。この地を、この地の民を愛しているから」
それだけは、譲れない。彼をどれだけ愛していても。
「……そんなアイリスを、私は愛しているんだ」
そう言って、彼は笑っていた。
「ディーン……」
私たちは、見つめ合う。互いの瞳に映るのは、互いだけ。
「でも一つだけ、約束して」
そう言えば、彼は真剣な眼差しで続きを問う。
「もう、あんな思いはたくさん。決して私が泣くような嘘をつかないと」
苦しかった、辛かった、切なかった。
胸が張り裂けるほどに。……もう、あんな思いをすることには耐えられない。
「勿論。もう、私も嘘はごめんだ」
そっと、今度は彼が私の頰に手を添えた。
私はその添えられた手に自身を預けるように、首を傾ける。
「……私も、貴方と一緒に歩いていきたいわ。誰よりも近くで。……私も、貴方を愛しているの」
やっと、言うことができた……あいしている、その六文字を。
私の素直な気持ち……湧き出ては溢れ出るこの思いを。
そのことに満足感を覚え、安堵の息が漏れた。。
そっと彼の顔が、近づく。そのまま私は目を閉じた。
そうして私たちは、口付けを交わす。
……愛しい。
彼が生きていること、そしてここに至るまでの全てに私は感謝する。
そしてそれと同時に……暴力的な衝動が私の心の内を駆け巡った。
感情が爆発しそうで、叫び出したいほどに。
彼の全てを、私のモノにしたい……他のことを考えられないほどに。
溢れ出した感情に溺れそうになる私と同じぐらい、私を思っていて欲しいと願う。
……そっと、私たちは離れた。
「……ひとまず、戻りましょうか」
これ以上このままこうしていたら溺れてしまいそうで、私は恥ずかしさを感じつつ提案する。
「……そうですね」
そう同意した彼の顔も僅かに赤い。
それが可愛くて、ついつい笑ってしまう。
「きっと、皆、貴方のことを歓迎するわ。貴方が死んだと聞いて、皆も落ち込んでいたから」
「どうでしょうかね……財の面々はむしろ私が地獄から蘇ったと言って慄きそうですけど」
「確かに……」
私たちは、手を繋ぐ。
指先から伝わる体温に、ついつい頰が緩む。
これから、ずっとこうして歩いて行くことができるのかと。
「さあ、行きましょう!ディーン」
「ええ」




