笑み
本日四話目の投稿です
……どれぐらい、そうしていたのだろうか。
もう、分からない。
記憶の隅には、何度か朝日を見たような気がする。
けれども、記憶が朧げでそれが事実なのかどうかも分からない。
その代わり、彼との思い出が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
一緒に孤児院に行ったこと、共に仕事をした時のできごと、ダリル教との戦いのときに助けてもらったこと、東部での視察……。
いっぱい、いっぱいあった。彼と時を共にし、共有した思い出は。
それらを思い出しては、浸り、そして涙する。
短いようで長いような……はたまたその逆か。
いずれにせよ、多くの時を共に過ごして来たのだ。
思い出せば、どれもが優しくて愛おしい記憶。
『お嬢様はそのまま、いつもの貴女らしく思うように突き進めば良い。私が、貴女を何者からも守りますから。ですから、お嬢様。……貴女の身を、私に預けてください』
ふと、東部の街を共に駆けたときの彼の言葉を思い出した。
「……嘘つき。大嫌い」
そして思わず、そう呟いて自嘲する。
一体どの口が彼を批難するのか、と。
「……嘘。愛している」
泣いているように震えて聞こえる、愛しているという言葉。
それが、私の胸に重く響いた。
……だから、こそ。今は全て、どうでも良くなっていた。
こんなにも苦しい思いをして、それでも何事もなかったかのように世界は回り続けるのだ。
彼を、置き去りにして。
なんともまあ、私たちはちっぽけな存在か。
ならば私たちの存在している意味は、そしてしていることに何の意味があるのか。
枯れ果てたと思っていたのに、また涙が溢れた。
……ふと立ち上がって、ふらふらとバルコニーに出る。
かつて、彼とたくさんのことを語り合った場所。
家族への思い、領地の未来、それから過去の話。
執務室のそこだから、自室のバルコニーから見える景色とは若干違うけれども……それでも、今はただただ懐かしい。
強い陽射しに、目を細めつつ遮るように額に手を当てた。
泣き続けた目に、それは酷くしみる。
「……さまー!」
ふと、耳に幼子の声が聞こえてきた気がした。
耳までおかしくなったのか……と自嘲したものの、確かに聞こえた気がして私は階下に広がる庭に向けて目を凝らす。
そして、ミナや孤児院の子どもたちの姿を見つけた。
本当に小さくしか見えないので、何となくだが……けれどもその背格好で、確信できる。
どうして、彼女たちがここに……?
湧き上がるのは、純粋な疑問。
「まさか、私を心配して……?」
その呟きに、答える者はいなかった。
けれども、すぐにその答えは分かった。
「アイリス様―!! 早く元気になってー!!」
そんな叫び声が、彼らがいる方から聞こえてきたからだ。
子どもたちは叫んだことをミナに咎められたのか、すぐに声は止まったけれども。
……腰に手を当て怒っている姿のミナに、私は思わず笑みがこぼれる。
「私、笑えるんだ……」
自分で、自分に驚く。
苦しくて、辛くて、悲しくて。
トワイル国を恨み、この国を呪い、すべてを憎んでいたというのに。
それでも、私は今、確かに笑ったのだ。
胸に温かいモノが過った気さえする。
『貴方は、国の歯車。そして、私も。でも、決して重なり合わない訳ではなかったのね。道が分かれたとしても、同じ方向を見続けている。なら、私はどこにでも行ける。何でもできるわ』
かつての言葉を、ふと思い出した。
それと同時に、私は私自身に問いかける。
全てを、喪った? ……本当に?
私の存在意義に、意味はない? ……本当に?
そこまで考え、私は自然とすべてを否定する。
そしてその瞬間、それまで私と世界を隔絶するようにあった殻がパリンと割れたような心地がした。
私の存在意義なんて、どうでも良い。
けれども、私自身が歩いて来た結果が……目の前の光景だ。
彼らやここに住む民たちを慈しみ、守り、未来を築き上げる。
それを目指し進んできた過去の私を、私について来てくれた皆を、そして先ほどの子どもたちの存在……その全てを否定することになる。
喪ったモノは、確かに大きい。
心が痛いことには、変わりがない。
けれども、私は全てを喪った訳ではない。
私には私の進むべき道があり、その道の過程には数多の民の生活と命があるのだから。
何より共に歩んでくれ、支えてくれる皆がいるのだから。
「……アイリスちゃん、失礼するわね」
私がバルコニーから部屋に戻ったところで、ちょうどお母様が部屋に入って来た。
「あらあら……その分じゃ、もう大丈夫そうね」
ニコリ、お母様が私を見て笑って言った。
「ええ。ご心配をおかけして、申し訳ございません」
「良いのよう。……そんなに取り乱すほど、彼を愛していたのね?」
お母様の指摘に、一瞬顔に血が上って……けれども、すぐに冷める。
「ええ、そうですわね。……お母様。私、大馬鹿ですの」
「あら、どういうことかしら?」
「喪って始めて、どれだけ彼が大切な存在だったのか……骨身に沁みましたの」
好きだなんて感情、とっくに通り越していた。
私の中にあったのは……執着にも似た、愛だった。
私の言葉に、お母様は真剣な表情で耳を傾けてくれる。
「彼とは一度、決別しました。けれども、それでも想いは決して無くなっていなかったのですわ。彼が私と違う道を歩もうとも、彼が存在してくれるのであればそれで良いと」
「……それが、愛というものではなくて?」
お母様の言葉に、私は素直に首を傾げた。
「例え相手が自分と同じ道を進まずとも……信じ、想い続けることができる。相手の存在そのものが、愛おしい。そういうことでしょう?」
お母様の言葉に、私は苦笑いを浮かべる。
「そうですね。私は、彼を愛しています」
……その想いを告げることができなかったことが、悲しい。
きっと、ずっと後悔し続けるのだろう。
「けれども……私は、他にも愛しているモノがあります」
続いた私の言葉に、今度はお母様が首を傾げた。
「……何かしら?」
「この領地と、ここに住まう民ですわ。喪うことの辛さを知ったというのに、私はその嘆きに浸るばかりで、もう一つの愛するモノをどうでも良いと思ってしまったのです。きっと、それすらも喪ってしまえば、今度こそ後悔してもしきれないでしょうに」
決して天秤にかけることができないほど……どちらの存在も私にとっては不可欠なもの。
どちらも失くしてしまえば、それは私にとって世界が欠けたことと同じ。
「何より、彼と共にあった私が許さないでしょう。民を蔑ろにすることは。彼と共にあった私に恥じないような、私でありたいのです」
「……素敵ね」
ポツリ、お母様が呟かれた。
「今のアイリスちゃん、とっても素敵よ。……私はね、アイリスちゃん。今尚メソメソ泣き喚いて貴女を大切に思う存在を蔑ろにするようであれば、叱ろうと思ってここに来たの」
お母様の言葉に、ゾクリ鳥肌が立った。
それほどの迫力がお母様から放たれていて、一体そのお叱りとはどのようなものなのかと震え上がってしまうほど。
「でも、杞憂だったわね。貴女は、ちゃんと大切なモノが分かっているわ。貴女自身が大切に思うモノも、貴女を大切に思うモノも」
「……ありがとうございます」
「……きっと、これから何度も何度も、ふとした時に貴女は悲しみ苦しむわ。けれども、忘れないで。嘆き苦しむことも時には大切だけど、それに囚われてはダメ。……貴女は今、生きているのだから」
お母様はそっと、私の手を握り締めた。
「かつて私は野盗の手によって母を亡くしたことは、言ったわよね?」
その問いかけに、私は首を縦に振った。
忘れる訳がない。私が悩んでいた時に、聞かせてくださったお母様の過去を。
私に先へと進む指針を掴むキッカケとなった話のことを。
「私はね、その後母を失った悲しみに囚われて……未来を見ることができないでいたの。母を殺した野盗を殺すためだけに、復讐のためだけに訓練の中だけで生きて……。失ったことばかり考えて、その時あった大切なモノを見落としていたの。その結果、私は私の大切な人たちに沢山心配をかけて……『お前は、今、生きているんだ!』とお兄様に言わせてしまったの」
さっきお母様が私に告げた言葉と、お母様が言われた言葉と重なる。
「私だけじゃない……苦しんでるのは、悲しんでいるのは私だけじゃなかったのに。私は、世界で一等私が悲しくて苦しんでると勝手に思っていたの。でも、そんなことは私の思い上がりだったわ」
「……お母様」
「失ったものを取り戻すことはできない。だからこそ、悲しむことは当然だわ。でもそれに囚われて周りを蔑ろにしてはダメよ。今から目を背けて過去ばかりを見ていては、ダメ。それこそ、亡くなった人が浮かばれないわ。それにもし、再び大切な人を失ったら……きっと更に後悔する。あのときこうしていれば良かったって、失う辛さを知っていたからこそ、余計に。……人は、いつか大切な人を失う。それは、人である限りどうしようもないことなのよ。共にいることができる時間は、有限。けれどもだからこそ、より人は人を思うことができる。限られた時を、めいっぱい悔いのないように大切にするべきなのよ。それにアイリスちゃんが言った通り……大切な人だからこそ、その人に恥じない貴女であり続けなさい」
お母様の言葉を、私は私自身に刻み込むように反芻する。
「……ありがとうございます、お母様」
そう言った瞬間、フワリとお母様が私を抱きとめた。
「頑張ったわね、アイリスちゃん。偉いわ、本当に……。貴女は自分で自分の大切なモノを思い出したのだもの」
「……っ!」
その温もりに、その言葉に。
私は、またもや涙を流した。




