母
長らくお待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。
「戦争って……お母様、それは確かなのですか?」
明らかに狼狽したアイリスちゃんを前に、私の心は酷く凪いでいた。
同時に、私はそれを聞くまでの経緯を頭の中で思い出す。
「お、おい……またあの人の番だぞ」
「あの女、一体いつまで続けて戦うんだ?」
ガヤガヤと、騒がしい。
騒がしいといえば、今頃アイリスちゃんはアイリスちゃんの戦さ場にいるのか。
今頃、アイリスちゃんはどうしているのだろうか。
エルリアとマエリア侯爵が召集をかける会など碌なものではない。
そうと分かっていながら送り出した自分の不甲斐なさに、吐き気がする。
「ふう……」
思考を落ち着かせるために息を吐きつつ、全身に力を張り巡らせた。
静かだった。
さっきまでの騒がしさはどこへ行ったのやら……ピンと張り詰めた空気。
そうなると同時に、たくさんの視線を感じた。
けれども、全くといって良いほど気にならない。
既に私の中では戦いに全神経が向かっていた。
そうなったとき、私は何でもできるような……そんな全能感に包まれて、けれどもそれが無性に気持ち良い。
対峙する男たちが、それに気圧されたかのように一瞬怯んだ。
アンダーソン侯爵家、王都別邸。
アイリスちゃんのことが心配で、気が気じゃなくって。
ずっとウロウロして、終いには気分が悪くなってしまっていた。
そんな私に、身体でも動かして気持ちを落ち着かせて来いと旦那様が言ったので、訓練に来ていた。
確かに模擬戦とはいえ戦うとなると、気持ちは逆に落ち着く。
ずっと握っていた訓練用の剣を持つと、現実感が妙に湧いてくる。
……旦那様も私のことをよく分かっているわと逆に惚れ直しちゃうわ。
「……始め!」
審判係の者のその号令と共に、全神経を戦いに傾けた。
段々と意識を集中させればさせるほど、まるで深海に潜っていくような……現実と隔たれたどこか違う世界にいるような心地がしてくる。
どんどん、どんどん深く。
深く沈めば沈むほど、その世界は静かで。
神経が過敏になって、普段は普段は何となく動かす筋肉を、全て意識下に置いて制御することができる。
どこが可動域の限界か。
どこが速さの限界か。
どこから剣がくるのか、どの速さまで筋を見極めることができて、それに対して動くことができるのか。
時を刻み、未来を読み、そしてそれに備えて動く。
ああ……気持ち良い。
気がつけば、対峙していた面々全てが倒れていた。
物足りないと、少しばかり不満が胸中をくすぐる。
「……おい、今の動き……見えたか?」
「いいや……一体何者なんだ、あの人は」
そんな囁きが聞こえてくるけれども、無視。
私は先ほどまでの感覚に浸りつつ、闘技場から降りた。
「……鬼気迫る様子だったな」
覚えのある声に顔を上げれば、そこにいたのはシュレーさんだった。
シュレーさん……彼は、アンダーソン侯爵家私兵のトップに立つ人物。
幼い頃から訓練に参加していた私を見守っていた人物で、私がアンダーソン侯爵家の令嬢であり今はアルメリア公爵家夫人という立場にあることを知る数少ない人だ。
「最近クロイツが言ってたぞ。『戻って来ている』って」
「……最近訓練に参加はしても、身体を鈍らせないためでしたからね」
真剣ではあったものの、子どもの頃のように全てを捧げるような勢いではなかった。
「恥ずかしい。暗に弛んでいた、と指摘いただいたも同然ですから」
「いやいやいや……ま、まあ……『化け物』から『化け物じみた強さ』になったなあとは言ってたけどさ。弛んでるだなんて誰も言わねえと思うぞ?」
狼狽しつつ本音がダダ漏れなシュレーさんに、思わず笑う。
「……化け物だって、何だって良いです。大切なものがこの掌から溢れないよう、握り締めることができるのなら」
「……公爵様のことか」
低く小さな声での問いかけに、私は少しばかり驚いて……けれども正直に、頷いた。
旦那様が襲われたことはトップシークレット。けれども、お父様は知っているから……まあ、その護衛兵が気をつけるよう極秘の情報として聞いていても不思議ではない。
「私は、平和ボケをしていたようです。平穏なんて、いつ脅かされるか分からないというのに」
「……もしもの話なんてしてもしょうがねえよ。あの時、お前は間に合った……結果が全てだろう。まあ、お前さんにしちゃ即皆殺しだなんて随分なミスをしたもんだとは思ったけど」
「ええ、反省しています。頭に血が上ってしまって、つい……」
彼の指摘は、耳がいたい。
自分でも嫌という程反省していたことだから。
「お前さん以外なら、よくぞあの方を護りぬいた!と褒めるところだがなあ……。お前さんならそれはできて当たり前のことだろう。現に、襲撃者を瞬殺している。一人二人でも残しておけば、簡単に口を割ったんじゃねえか?お前さんの戦いザマを見て恐れないワケがねえからなあ」
「……そうですよね」
「そんな落ち込むなって。逆を言えばお前さんには、それだけの力量があるって思ってるんだって。オレぁさ、今でも思い出すと震え立つんだよ。お前さんの戦いざまを思い出すとな」
シュレーさんは、苦笑いを浮かべていた。
私もきっと同じような表情を浮かべているだろう。
シュレーさんの言っていた私の戦いざまとは、決して今のような模擬戦のことではない。
かつて、私は本物の戦いの場に立ったことがある。
そしてその時、シュレーさんは私の下で戦っていたのだ。
……そうか。
取り戻さなければならない。
忘れては、ならなかった。
あの時の感覚を、思いを。
彼の励ましに、けれどもむしろ私は鼓舞されたような心地だった。
「……シュレーさん」
「国軍の方たちとの試合は一巡してしまったので、次はアンダーソン侯爵家の皆さんと戦いたいのですが?」
「……は?いや、ちょ、ちょっと待ってくれ!メルリ……じゃなかった、メル。今日一日戦いっぱなしだろう?少しは休んだらどうだ?」
何故だか急にシュレーさんは焦りだした。
大きな声で言った言葉に、少し遠巻きにいたアンダーソン侯爵家の私兵の人たちが、心なしか更に遠くなった気がする。
「昔はこれぐらい普通でしたが……?」
シュレーさんの反応は、私にとってはむしろ予想外だ。
何せシュレーさんなならば、昔の私の訓練量を知っているというのに。
昔はこれが普通だったというより、これ以上訓練に費やしていた。
「いや、確かにそうだけどよ……」
ちらりとシュレーさんが周りに視線をやれば、更に一歩アンダーソン侯爵家の私兵たちは後ずさる。
やっぱりさっき遠くなったと思ったのは、気のせいじゃなかったらしい。
さて、どうしたものかと思案していると……。
「……お、なんだ。メル、訓練に参加しておったのか」
お父様が、現れた。
……アンダーソン侯爵家での訓練だから、当たり前なんだけど。
ちょうど私が到着した時には所用があるとかで出て行っていたので、実は今日会うのは始めてのことだった。
「ええ。将軍のご厚意に甘えさせていただいております。……ここには将軍の訓練を受けた屈強な兵士たちがたくさんいるので」
公爵夫人のメルリスではなくて、あくまで一般女性の『メル』として、他人行儀な話し方を心がける。
「そうか、そうか。……ちと、お前に話がある。来てくれるか?」
「畏まりました。では、お邪魔させていただきます」
お父様の私室に入ったところで、私は『メル』の皮を脱ぐ。
「今日は屋敷にいなくて良かったのか」
「……屋敷にいても、アイリスちゃんのことが心配でソワソワしてしまって。旦那様に身体でも動かして少し頭をスッキリさせて来いと言われてしまったのよ」
ふう……と我知らず溜め息を吐く。
「ルイ殿の体調はどうだ?」
「以前に比べたら大分回復されていますわ。一時は本当に心配したのですけど」
「良くなっているのだから良いではないか」
「まあ、そうですわね」
お父様の指摘に、私はつい、苦笑いを浮かべた。
「そんなお前に報告だ。無事、エドワード第二王子とマエリア侯爵家一派が捕縛された」
「そうでしたか……。ついに、アルフレッド王子が勝利を収められたのですね」
ホッと安心して、力が抜ける。
やっぱり、なんだかんだどこか気を張っていたようだ。
少しばかり立ちくらみがして、椅子に体重を預ける。
「うむ。すぐにでも国内の平定に力を入れられることだろう。各領地まではこれからの話であるが、既に王宮内の政務については有能な人員を殿下が手中に収めている。儂にはよく分からんが、ルイ殿曰く、政を動かしていたのは既にほぼ殿下であったのだろう?」
「らしいですわね。ただ、エドワード王子とマエリア侯爵家一派という障害がありましたから……。彼らに邪魔されぬよう彼らの目をかいくぐるために裏から手を回さざるをえなかったり、あまり大きく動くことができない場面もあったようですが、その重石が抜けた今、存分に力を発揮してくださるのではないでしょうか」
「……最小限に混乱を収めつつ、早急に成し遂げなければならない。是非とも、その有能な力を存分に発揮していただきたいものだ」
「……かの国に、何か動きが?」
気になってつい問いかければ、お父様は顔を顰めた。
「ルイ殿が、調べさせているのか?」
「ええ。私に明確に話してくださった訳ではございませんが。ちなみに、アイリスちゃんも辿り着いているようですよ?」
「アイリスはなあ……優秀過ぎるのも、考えものだな」
「そうですわね。ディダやライル、それからターニャには今まで以上にあの子を守るようよく言っておきましょう。……旦那様を襲ったのはかの国の者たちでしょうし。アイリスちゃんに危機がないとは言い切れませんから」
「確かか?」
「……勘、ですわ。服装は野盗のそれのようでしたが、よく統率された動きでした。剣筋も全員同様の特徴がございましたので……一度かの国の者たちと剣を切り結んだことのある身として、感じるものがありましたの。かの国にとって……いえ、エドワード王子とマエリア侯爵たちにとってもですわね……あの時点で最も邪魔であったのはアルフレッド王子か旦那様、もしくはお父様でしたでしょう。かの国の者かそれともマエリア侯爵家一派のどちらが黒幕かまでは分かりませんが」
「なるほど、な。なら、確かにお前の言う通り三人にはよく言い聞かせた方が良いだろう」
「ええ。……まあ、いざとなれば、私も出ますわ」
あえて淡々と言った言葉に、お父様は一瞬目を見張った。
そんな驚かれるとは……と、逆に私も驚く。
暫く睨み合うように見つめあって、けれどもしばらくして、お父様がため息を吐いた。
「それが、良いだろう。お前が相手取れない奴はほぼいないであろうし、お前ならば戦局によって臨機応変に動くことができるだろうからな。……なあ、メリー。一つ聞いて良いか?」
「何でしょう?」
「何故、お前はアイリスとベルンにお前の剣を教えなかった?」
その問いに、私は苦笑する。
「彼らが、望まなかったというのが理由の一つ。……自らの意思で学ばなければ続かないですし、本当の意味で強くなることはありませんもの」
多分……武術の修練について、つけるとなれば私は相当厳しいだろう。
私自身が相応の覚悟を以って、過酷なそれに身を置いていたからだ。
どれぐらい過酷かといえば……シュレーさんたちアンダーソン侯爵家私兵やクロイツさんを含めたお父様の部下を以ってして『狂気的だ』と称されるほどには。
そして自然と、教えを受ける側に自分と重ねてかなりの水準を要求するだろう。
「それと、私の身勝手な願いというのもありますわ」
言葉を探しつつ、お父様に伝える。
今では話すことがなくなった、過去のことを。
「私が剣を手にしたのは、復讐のためでした。そしてその願いが叶わなくなった時、私が次に願ったのは私のような者を生み出さないことです。誰かを守ることで、奪われ苦しみそして憎しむ者が現れないことを。だからこそ、私は剣を手にし続け、この手を血に染めました。……けれども、私の子どもたちは知らない。命を奪いたいと願う衝動も憎しみも。知る必要も、ないこと。そんな平穏な日常の中にあって、剣を握る必要はありません。それよりも、アルメリア公爵家の者として求められるモノを学ぶ方が重要かと。だからこそ、私は彼らに剣を握らせることはなかったのでしょう」
「……要は、子に剣を持たせたくないと思ったのであろう?」
「ふふふ……そうですね。ですが、先にも言った通り……もし仮に、あの子たちが心の底から剣を習得したいと願ったのであれば、そうしていましたでしょうけど」
「なるほど、な」
「まあ、結局……あの子たちは、直接的に手を血で染めることはないにしろ、立場上相応の命を背負うことになってしまいましたが」
「そうさな」
私の言葉に、お父様は苦笑いを浮かべた。
「私は、この辺りで失礼させていただきますわ。……お父様、アルフレッド王子とアイリスちゃんの勝利を教えてくださり、ありがとうございました」
「なんの。まあ、何だ……気をつけて帰れよ」
「ええ」




