さよなら
七話目です
「ディーン!」
今更ながら非難がましく名を呼ぶと、彼は私に手を向けた。
「これを……」
その手に乗っていたのは、今まさしくターニャに回収をお願いした懐中時計だった。
「……拾って下さったのですね。ありがとうございます」
私は、そそくさとそれを受け取ると改めて彼を見る。
その段になって、私は先ほど彼の名を昔のように呼んだことを思い出した。
「……申し訳ございません。殿下のご好意を無下にするようなこと申しました」
そう言った瞬間、彼は困ったような……悲しそうな笑みを浮かべた。
「もう、コレはいらないと。そんな意思表示なのかと思った……」
そう言った彼の声は、酷く弱々しい。
「殿下……」
「貴女は……あの話を受けるのか?」
最初、何を問われているのか分からなかった。
けれども、先ほどの問いと同じだということを思い返して私は彼の目を見た。
その目も表情も、やはり声と同じく弱々しい。
こんな彼を、私は初めて見る。
自然と私は彼の頰に手を当てていた。
不敬という言葉は、私の頭の中からはきれいさっぱり消えていた。
「……済まない。変な質問をした……」
彼は、私の手に自身の手を重ねる。
「いいえ……いいえ」
私の真意を、聞こうと再度問いかけようとしてくれた。
それだけのことなのに、それで十分だった。
目は口よりも雄弁に物を語る。
彼が口に出さないのは、彼が葛藤している故なのだろう。
「貴女を止める言葉を私は持たない。貴女という人材を失うことは惜しいが、アカシア王国は大国。国として、アカシア王国との繋がりを強化することは悪くない話だ」
そう言葉を重ねるのは、まるで自身に言い訳をしているようだった。
「だというのに、俺は……。俺は貴女を」
それ以上の言葉は。不要だった。むしろ……彼に言わせては、ならないと理性が叫ぶ。
私の恋心は、この人の重荷にしかならない。
第一に彼の言った通り、アカシア国の王族との婚姻はアルメリア公爵領……ひいてはこの国にとっての利益となる。
向こうからの打診を断る理由は、今のところない。
それに、私が残って何になるのだろう。
私は、かつてエド様の婚約者だった。
国家反逆罪に問われている、彼の。
婚約破棄がとっくの昔に為されていたとはいえ、その過去は永遠に私の元についてくる。
そんな訳ありで、第一王子である彼との婚姻が成れば……反発する貴族は必ず出てくる筈だ。
彼の側近も、反対するだろう。
……彼の側近の一人であるルディは、私が彼の元に嫁ぐのは公爵家の影響力を考えれば当たり前のことと捉えるかもしれないが。
王座に座ることが確定している彼にとって、既に私を選ぶのはリスクしかない。
彼の側には、既にベルンがいる。
この上で、瑕疵のある私が婚約者としての位置を取ったら……それは、マエリア侯爵家のような存在と看做されかねない。
アルメリア公爵家が望まなくとも、そう見られる。
即ち、貴族によって王族はいかようにも操ることができると。
王族の弱体化を晒すことに他ならない。
ただでさえ今の貴族たちは混乱し、状況は未だ混迷している。
そんな最中、わざわざ争いの種を蒔くことはできない。
わざわざ瑕疵のある者ではなくとも、彼には相応しく……また、政治的にも必要な相手は他にもいる筈だ。
……分かっていた。分かっている。けれども、理解したくなかった。
……どうしても。
「……ディーン」
私は、彼に問いかけるように囁いた。
彼は俯きがちになっていた視線を、私のそれと合わせる。
「貴方は、とっくに私のモノなのね?」
そう問うと、彼は一瞬驚いたように目を見開いて……けれども、笑った。
「ああ、そうだな」
その言葉に、私の全身が歓喜に打ち震えた。
もう、充分だ。彼の気持ちが、共にあると分かったから。
「……貴方は、国の歯車。そして、私も。でも、決して重なり合わない訳ではなかったのね。道が別れたとしても、同じ方向を見続けている。なら、私はどこにでも行ける。何でもできるわ」
私は、そう言って彼から離れた。
「陛下のお心は、大変ありがたいものです。そのお気持ちを餞けとし、私は領地の……ひいては国の為にこの身を捧げましょう」
だから、今度こそ決別をつけよう。自分勝手な思いを、自分勝手に。
独りよがりなそれだ……けれども彼に、これ以上あんな顔はさせたくない。
ディーンは、何も言わなかった。
「それでは、御前失礼させていただきます」
そして私は、彼の元を去った。
部屋を出て元の位置に戻ると、そこには既にターニャがいた。
「ターニャ」
「……お嬢様!」
私がいなくなって焦っていたのだろう……彼女にしては珍しく、大きな声を出した。
「この場を離れてしまって、ごめんなさい」
「御身がご無事なら、それで良いのです。私の方こそ、申し訳ございません。お嬢様のお命じになった物を見つけることができませんでした。お嬢様を馬車にお送りした後戻り、再度お探しいたします」
「大丈夫よ、ターニャ。実はあの後服の下をよく探してみたら、服に引っかかっていたのを見つけたの。ごめんなさいね」
「いえ……お嬢様の願いが叶ったのであれば、それで良いのです」
「ありがとう。……ねえ、ターニャ。貴女は、私がどこに行こうとも付いてきてくれる?」
「勿論でございます」
「そう」
いずれ私は、この選択を後悔するのだろうか。
きっとするのだろう。
もしもあの時ああすればだとか、こうすればだとか。きっと選ばなかった選択肢の先を考えるのだろう。
けれども、今の私にとって最も選ぶべき選択肢はこれ。
そう信じて、進むだけだ。
今、ちゃんと甘い夢との別れも済ましたのだから。
……その後、馬車で屋敷にターニャと共に戻った。
不思議と、心が凪いでいる。
屋敷に戻ると、何故かピリピリと肌に突き刺すような緊張感が感じられた。
これから伝えようとしている内容に、私が緊張しているのか。
首を傾げつつ、私はお父様の下へとむかった。
「……アイリスちゃん。良いところに戻って来たわね」
お母様の厳しい声と雰囲気に、ただ事ではないと私は息を飲んだ。
「どうかされましたか?」
「……ついに、トワイル国が兵を挙げたわ。戦争が、始まるの」
お母様の言葉に、私の頭は真っ白に染まった。




