公爵夫人の嘆きと、副将軍の感嘆
三話目です
……身体が鈍っている、と今日も今日とて訓練に参加する。
あの日あの時……旦那様の帰りが遅く、嫌な予感がして。旦那様が通るであろう道をひたすら馬で駆け抜けた。
旦那様が襲われているところを目にした時には、頭に血が上って、そしてその怒りのままに敵を屠った。
間に合って良かった……と心の底から安堵した。
同時に、自らの腕が鈍っていることを恥じた。
実戦を離れて、久しい。お父様の訓練を受けるのも、ここ最近は随分感覚が空いていた。
……忘れては、ならない。
平穏な時は、いつ脅かされるか分からないことを。
大切なものは、守らなければ簡単にこの手からすり抜けてしまうことを。
『お前の為に誂えたものだ。……お前は、その剣を扱うに足る者となれるか』
かつて、問いかけと共に渡された剣を見る。
……今の私では、到底この剣に相応しい腕はない。なにせ、自分の頭の中にある感覚に、動きが付いてきていないのだから。
「……次!」
顔を上げ、呼ぶ。
軍人が、ピクリと身体を跳ねさせた。
誰も、私の前に来ない。
周りを見渡せば、無傷で立っている者はかなり減っていた。
ふと、視界によく見知った人物が映る。
「……あら、ライル。ディダ。貴方たち、今日はアンダーソン侯爵家に来たのね」
「げっ!」
ディダがあからさまに顔を顰めていた。
全く、失礼しちゃうわね。
「奥様にむかって、その反応は何だ」
そう小声で諌めるライルも、あまり顔色はよくない。
「ちょうど良いわ。……ディダ、ライル。相手になってちょうだい。どちらからでも構わないわよ?」
「今日こそ勝ち越させていただきますから!」
そう言って、楽しそうに闘技場に上がって来たディダを見て、私も心が高揚して笑みを浮かべた。
※※※
「……あの女の人、誰だよ?」
「いや、知らねえな。けど、ヤバくねえ?あのディダさんと互角って!」
「いやいや、むしろディダさん押されてるぞ」
アンダーソン侯爵家の訓練に参加することを最近になって許された面々が、アルメニア公爵家夫人……メリーとディダとの戦いを見て、驚愕していた。
メリーの正体を知るのは、古参の面々のみ。公爵家の夫人の顔なんて、普通の一介の軍人が拝める機会なんてないに等しいからな。
ここにいる奴らの殆どが、既にメリーに一蹴されている。
男の沽券を守ってくれと、全員がディダを応援することにしたみたいだが……まあ、結果はどうなることやら。
というのも、メリーはこの国の英雄であるガゼル様を以て『天賦の才がある』と言わしめた人物。
かつての全盛期のガゼル様の本気と同等の力量の持ち主だ。
軍部の古参のメンバーは、ほぼほぼ彼女に苦い思いを味わわせられている。
鋭い剣筋。未来がその目に見えているのではないかと思うほどの、絶妙な動き。対峙すると、実際に彼女に良いように動かされている気にすらなる。
かつては、体力も力も男に引けを取らなかったが……まあ、今はかつてよりは劣っているか。
それでも、それを補ってあまりある素早さと彼女の天性の勘が、彼女を強者たらしめている。
彼女は体が鈍っていると嘆いているが、正直どこがだ?と思わずツッコミを入れてしまった。
……確かに、彼女の全盛期を知る身からしたら、化け物から化け物じみた強さになったと思うが。
かつては、大の男が根を上げるような訓練も顔色一つ変えずに嬉々として受けていたからな。
「勝者!メリー!!」
ウワァァと歓声があがった。
どうやら紙一重で、メリーが勝利をおさめたようだ。
メリーが怒っているのを見るに、彼に迷いがあったからだろう。
まあ、あいつの立場を考えれば仕方のないことではあるが、彼女に相対するのに迷いや惑いがあっては決して勝てない。
それこそ、本気で殺るつもりでないと……な。
「……クロイツ副将軍。あの女性、一体何者なんですか?」
中堅の奴が、そう戸惑いを隠さずに俺に聞いて来た。
何度も訓練に足を運んでいる奴は、彼女の正体は知らなくとも存在は知っている。
時折、訓練しに来ているからな。
けれども、今までと今の彼女は明らかに違う。
今までの彼女は、どちらかといえば身体を動かす為……真剣に取り組んではいたが、本気ではなかった。
それが今は、かつての水準まで恐ろしい速さで成長しようとしている。
いや、成長はおかしいか。
かつての強さを取り戻しつつある……というのが、正しい。
屈強な軍部の最前線にいる男たちすら恐れさせるほどの強さを。
「気持ちはよく分かるぞ。昔、俺もそう思ったからな」
思わず苦笑いを浮かべつつ共感してやるが、そいつの顔は晴れない。……まあ、自分の力量に自信を持つ奴ほど認められねえだろうな。
なんせ、見た目は嫋やかな女性なのだ。
きっと、誰も想像がつかないだろう。
あの美しく成長した女性が、かつて自ら大切なモノを守るためにと剣を握り、血に染まった道を歩いたことを。
血に塗れて……それ故に壮絶に美しかったあの姿を。
「あいつは、アンダーソン侯爵家の最終兵器だよ。ガゼル将軍の一番弟子にして、俺が知る中でこの世で最強の戦士だ」
鳥肌が立つような、苛烈な戦いぶり。
後に続く者たちの魂の底から奮い立たせるような、そんな勇猛果敢な将。
彼女のかつての功績は、全てガゼル将軍のものとなっている。
そりゃあそうだ。……出せるはずがない。
深窓の令嬢である筈の侯爵家の令嬢が、一騎当千の戦士だなんて。
だからこそ、貴族はおろか国の上層部も一部の者しか知らない。
知るのは、全ての実権を握っていた王太后と、既に亡い前宰相そして彼女の夫、現アンダーソン侯爵家当主、それから彼女を慕うアンダーソン侯爵家の私兵たち。
俺が知っているのは、単にそういう運の巡り合わせだったということ。
訓練を通して、彼女と近しい立場にいたからこそ。
王太后が、彼女を気に入っている?
そりゃあ、そうだ。
彼女を知って、手放せる訳がない。
まあ……元々その容姿でえらく気に入られていたらしいがな。
彼女の戦いぶりの報告を聞いて、本気で息子と結婚させようとしたらしい。
……夫と別れさせるなら、国から出て行くと彼女が言い切ったせいで、諦めたという話は将軍から聞いた。
その辺りの話は、将軍とそっくり同じだから血筋は争えないということか。
「お前たちは、運が良い。真似しろとは言わんが、彼女の動きをよく見ておけ」
俺もまた、彼女の動きを見つめる。
この場にいる誰もが、彼女に注目していた。