決意
「……ベルン様。私どもはこちらでお待ちしております」
「分かった」
……離宮。
王宮のような煌びやかさはないが、静謐な空気が漂う荘厳な場所。
まるで王太后そのものだな、と思う。
今まで訪れたことのないそこを、じっくり観察するように見回しながら歩いた。
進むうちに緊張感が高まって、思わず胸元に手を置く。
胸元の内ポケットに入れた書状の、存在を確かめるように。
……為すべきことを、為せ。
そう言われて、父上から託された王太后への書状。
紙だというのに、酷く重く感じられる。
『中身は誰にも知らせる訳にいかない。信頼できる使用人にでも、だ』
父上がそういうのだから、相当な内容なのだろう。
裏切りを恐れてか、知ってしまった者の身の危険を危惧してか、それとも……。
使用人を信頼し切っている普段の様子を見るに、後者の方が可能性としては高いような気がした。
平民の彼らではどれだけ護身に長けていたとしても、権力というカードを敵が持っていたら簡単に潰されてしまう。
父上ですら、捕まって引きずり込まれてしまったこの国の闇……。
そのことを危惧したのではないか、と当たりをつけていた。
宮の中に入ると、使用人に案内されるがまま進む。
そして辿り着いた先には、この宮の現在の主である王太后がそこにはいた。
「ほう……貴方がここに来ましたか。ルイの様子はそれほど悪いということかしら」
「いえ、父は大事を取って療養させていただいているだけで、命に別条はありません。本日もこちらに参ろうとしていたのですが……」
「そう……」
「父からは、これを預かって参りました」
側に控えていた従者に、取り出した手紙を渡す。
王太后は従者からそれを受け取り、目を落とした。
手紙を読み始めてから、スッと王太后の顔つきが変わる。柔らかなそれから、厳かな為政者のそれへと。
その変化に、自然と緊張感が高まる。
これがかつて大戦の時期すら先頭に立ち、この国を率いた王者か……と納得してしまうほどの空気。
「貴方は、この中身を存じていて?」
読み上げた王太后からの問いかけに、首を横に振る。
「二つとも?」
「存じ上げません」
「そう……ルイは、子どもに甘いのね」
コロコロと王太后は、笑った。
けれども、目は冷めている。
見定められているな……ということが感じられて、背中に冷や汗が伝った心地すらした。
「それとも、貴方がルイとは違う陣営にいるからかしら?」
「……大変申し訳ございませんが、仰っている意味が分かり兼ねます」
「あら、だって貴方はエドワードの学友だったでしょう? ユーリ・ノイヤー男爵令嬢を中心とした、仲の良いグループだったらしいじゃない」
「……確かに、私はエドワード様に良くしていただきました。ですが、私はアルメリア公爵家の者です。代々宰相を排出したアルメリア家を私は誇りに思っています。だからこそ私の最優先事項は、国政の安定です」
「つまり、さっさとエドワードが王位に着けば良いと?」
「いいえ。国法に則るのであれば、第一王子が王位に着くのが道理かと。それに……いえ、なんでもございません。失礼致しました」
「……この場での発言は、この場限りのものとします。思ったことを、述べなさい」
口を噤んだ私に、王太后が続きを促す。
王太后からのプレッシャーに、ついつい口が滑ったと焦ったが、後悔してももう遅い。
「……私事でございますが、自身を省みる機会に卒業後恵まれました。色々考えた末の結論が、私はアルメリア公爵家を誇りに思うと同時に、愛していると。……だというのに、学生時代に私は愚かにも自らそれを壊しかけました」
思い返せば、つい昨日のことのように思い出せる。
あの日の出来事を。
学園に入学してからあの時まで、姉のことは見向きもしなかった。
……否、見ようとしていなかったのだ。
少しでも、あの女性に気に入られたくて。
まるでそれが自分の汚点とでもいうかのように、切り捨てて。
……そしてその結果、全てを壊してしまった。
ドルッセンに抑え付けられた時の、あの全てを諦め絶望したかのような表情。
かと思えば、全てを拒絶するかのような笑みを浮かべ決裂する言葉を口にして。
……あの時は、それすらも厭わしいと思った。
けれども今思い返せば、ゾッと背筋が凍る。
そして、犯してしまった事の大きさに目眩すら。
自分勝手に、姉のことを見捨てた。
むしろ、彼女に近づくための駒とすら思ってしまっていた。
……自分と血を分けた姉だというのに。
幼き時から、姉と分かち合った感情と積み重ねてきた思い出。
沢山の、温かなそれら。
それがあったからこそ今の自分が形成されたというのに、自分はそれを捨て去った。
それは自分の憧れていた未来を、どうして憧れたのかという思いごと捨てるようなものだったのだと今なら分かる。
一度捨てて仕舞えば、もう取り戻すことができなかったかもしれないのに。
否、本当なら取り戻すことなどできはしなかった。
あの日あの時の出来事は、家族の絆だけでなく……自らの評価を蔑めるものでしかなかったのだから。
それでもこうして未だ未来を見ることができるのは、切り捨てた筈の姉こそが目を覚まさせてくれたからだろう。
「ですから、もう間違えないと決めました。私は自身の大切なものを自身で傷つけることは絶対にしたくありませんし、大切だからこそ今度は必ず守ると。そう決意したのです」
だからこそ、エドワード様側に着くことはない。
姉との婚約破棄に始まり、教会の破門騒動やアズータ商会への嫌がらせ、そしてアルメニア公爵領の関税の件。
商会への嫌がらせ以外、エドワード様が直接行ったものではないが、それでもエドワード様がいるからこそ起こったことだとも言える。
あの時の拒絶を、あの日の絶望を姉に二度と味合わせたくない。
そのような事態に陥ってしまったのなら、今度は決して姉の側から離れない。
……そう、決意した。
大切なことを、思い出させてくれたからこそ。
「貴方は、王国の今後のことよりも家族のことですか」
「……申し訳ございません」
鋭い声色の問いに、恐縮して頭を下げる。
重い沈黙が、その場に漂った。
その沈黙を破ったのは、クスクスという王太后の笑いだった。
「何て甘く、為政者らしからぬ考えでしょうか。……けれども、身近にいる大切な者すら守れない者が国を慈しみ守ることができましょうか。ふふふ、嫌いではないわ」
ホッと、彼女の言葉に我知らず詰めていた息を吐いた。
「今、この国の上層部は真っ二つに別れているわ。一つは、第一王子を神輿とする者たち。もう一つは、第二王子を神輿とする者たち。第一王子側にはアルメリア公爵家を筆頭に、地方の有力貴族や新興貴族たち。第二王子側にはエルリア妃とマエリア侯爵家を筆頭とした古参の貴族たち。二つの派閥は互いに睨み合いながらも均衡を保っていたわ。……さて、私はどちら側に立っているでしょう?」
王太后の問いかけに、けれども答えない。否、答えられなかった。
その答えを持ち合わせていなかったというのもあるが、迂闊なことを話せない場の空気故に。
「正解は、第一王子に傾いている中立だわ」
それを分かっていたからこそ、王太后は私が口を開く前に答えを言った。
「第一王子を匿い、養い、育ててきました。将来このような混乱があると知りながら、私はそうしたわ。それは何故だと思う?」
「……貴族の増長を抑えるため、でしょうか」
「続けて」
「第二王子が第一王子を排し、王位についた方が国は混乱しなかったかもしれません。けれどももしそうしてしまえば、この国のトップである王ですら貴族の力で如何様にもなってしまうということに他ならない。そうしてしまえば、王国の根底すら揺らぎかねない。そう考えたからこそ、でしょうか」
一言一言、言葉を選びながら発言した。
「そうね。……とはいえ、私はあくまで中立、第一王子が愚鈍な人物だったら、すぐにも切り捨てようと思っていたわ。けれども思いの外、あの子は有能だった。だから、そのまま私は何もしなかったわ。おかげで私も第一王子派に見られるようになってしまった。……どこかの家のようにね」
『どこかの家』とは、自分の家のことだ……明確に言われなくても分かる。
「第二王子派にとって、一番邪魔なのはアルメリア公爵家ではない。隠居をしたといっても、王族……強い発言力を持つ私こそが彼らにとって最も邪魔な存在」
「では、王太后様も父のように狙われる……と?」
「ええ、そうね。私はもうすぐ、王族としての権威を剥ぎ取られるでしょう。貴方の父親と第一王子はそれを食い止めようと動いていた。この手紙には、その内容が書かれているわ」
「なるほど……」
「手紙を読んだ上で答えるわ。『私のことは良いから、貴方は領地に戻ってゆっくりしていなさい』とルイに伝えてちょうだい」
「なっ……!何故ですか!?」
「王は保ってあとひと月ほど。あの子が死んだ後、マエリア侯爵家は動き出す。ルイも流石にひと月では完治しないでしょう? ただでさえ瀕死だったというのに、無理をさせられないわ」
「それは……」
「まさか、エルリアがあの子に手を出すとは思わなかったわ」
手を出す、ということの正確な意味を察して、飲む。
「確かなのですか?」
「ええ。倒れたといっても、回復に向かっていたのよ。身体の方は。心の病は相変わらずだったけれども。それが、突然保ってひと月……他にも色々状況証拠はあるわ」
状況証拠という言葉を口にした時に、王太后は一瞬唇を噛みしめた。
確かな証拠でないならこそ、それを元にマエリア侯爵家を糾弾できないその事実が、悔しいのだろう。
「愛しているからこそ、負の感情に傾いた時に、憎しみはより大きく深くなったのかもしれないわね。……それはともかく、間に合わない。ルイはあの状態だし、第一王子は他国に行かせている」
「……どちらに?」
「それは、秘密。……今となっては、良かったのかもしれないわね。他国が安全とは言い切れないけれども、事が起こる時にこの国にいるよりはマシというもの。それにあの子、王を道連れに自ら引責しようとしていたみたいだから」
ふう、と王太后は扇で口元を隠しつつ息を吐いた。
「ですが、王太后様はどうなってしまうのでしょうか……」
「さあ……。いずれにせよ、私は新しい世代……あの子に賭けることにしたわ。だから、心残りはない」
そう言い切った王太后の目の輝きは、力強かった。
「ベルン。先ほどの言伝を、しっかりルイに伝えてちょうだい」
「承りました」




