トジタコウヤ
男は考えていた。一体いつからこの荒野に立っていたのか。何故こんな所にいるのか。しかし依然として答えは見つからないのだった。時計もないから正確な時間はおろか、太陽が照っているのかも分からなかった。曇っている、といえばそれでも良いのかもしれないが正確なところ、太陽があるのかも分からなかったのだ。ひとまず、ぼんやりと明るい。
さて、男は思った。遭難したときうかつに動くのはまずい。とはいえ、ここが日本なのかも分からず、前途の記憶もあるのかないのか、とにもかくにも男は動いてみることにしたのだ。少し歩いたところで、それほど自分の位置立場が変化するでもあるまい、と。それにまた、歩いてみればなにか進展がみられるかもしれないとも。
一歩、二歩と歩くと何やら新たな疑問―それも極めて根本的な疑問―が男の頭に起こった。
―ココハ、何処ダロウカ。それまで男はその環境を〝荒野″と認識していた。だが荒野は荒野でも、何処の国に所属するとか、例えばサハラ砂漠だとか言った風に、地名があるはずなのだ。まあたぶん、こんな荒野の存在はてんで知らないのだから日本ではないだろうな、男がそんなことを思っていると前方に何やら看板のようなものが、やはりぼんやりと浮かび上がってきた。“トジタコウヤ”
―はて、トジタコウヤとはこの荒野の名前なのか。トジタコウヤ、いったい何語だろうか。男の耳にはそれが何となく日本語の響きにも聞こえていたのだ。何にせよ、看板があるなら民家の一つや二つ、人間の一人や二人、どこかに在るはずだと踏んだ男は、さらに歩み続けた。
男が看板から幾分か離れると期待通り人影が一つ、ぼんやりと見えていた。恐るおそる近づいてみるとその正体はどこか男の中に懐かしい恍惚感を彷彿させる同い年くらいの女ので、やはり聞き覚えのある声で、あなたをここから出してみせる、と言った。男はこの、トジタコウヤに来る前にも、こんな感じの女を信頼したような気がしたために、その案内に従った。
彼女に従い歩いていくと今度はまた、別の女の影がそこにあった。その女の影は男に、この世界のことをもっと知りたくはないか、一緒に来るならこの世界のいいところを見せてやる、といった内容を伝えてきた。男は無論、女の影が言うところのこの世界、つまりトジタコウヤとやらに興味があったのだが、この女について行ったら案内の彼女と逸れてしまうのではないかと心配した。彼女を顧みると何か不満げではあったが思いのほか何も言わないのでもう一度今現れた方の女の影を見ると早く来いと急かしている。彼はきっと、案内の彼女がここで待っていてくれるだろうと信じ、女の影の方へと急いだ。少しの間、案内の彼女は男の方を見ていたが気づくとそこにはもういないのだった。
新たな案内の女は足早で、男が追い抜くと女がそれを追い抜くといった調子だった。両者はそれを楽しんでいたが不意に女の影は向きを変えて去ってしまった。男は女の影が追い抜いてこないことに気づいて振り返ったがそこにはもう誰もいなく、男は元来た方へ駆け出した。駆け出したときすでに気づいていたのだが、新たな案内人の影について行ったのはそもそも間違いで、そして元の案内人はもう待ってはいないのだった。男は絶望してがむしゃらに走ったが、事態は思いのほか迷走することなく男に新たな根本的疑問を与えたのだ。
―新たな案内人の女は影だった。影が話すはずもないし、第一男は何故懐疑視することなく影についてゆけたのか。そこで男は重大なことに気づく。自分には影がなく、しかも辺りの事物すべてがやけにぼんやりして見えると思ったら、どうにも二次元的に見えているではないか!これの意味するところはつまり、自分が影になってしまったということである。男は途方に暮れた。男は3次元世界に慣れていたせいで2次元の視覚になりきれていなかったのだ。だから三次元のものは皆ぼんやりする。思い返すと、どうやら元の案内人の彼女はどうやら影ではなかったようだ。
男が長いこと長いこと、それは長いこと途方に暮れている間、幾人もの案内人が現れた。だが男は誰一人相手にはしなかった。愛そうとしなかった。気づいていたのだ、男は最初の案内人を愛していたことに。いま新たな案内人が現れても、2次元の視覚にずっと侵されてきた彼にはもう、どんな相手もあの忌々しい失敗の元凶を彷彿させる影しか目にすることができなくなっていたのだ。男は彼女に謝りたい、許してもらえなくともいい、どうせ俺は一生この影の世界“トジタコウヤ”に在り続けるのだ。許してももらえるはずないのだから、俺はもうこの世界からは出るまい、そう思っていたのだ。
そして男は、最後になるかもしれない力を振り絞り歩き出した。彼女を見つけるため、そして謝罪の言葉を述べ、目の前から消えるためにだ。するとやはり、事態はより一層詳しく疑問を投げかけるのだった。
彼女は何者だったのか。こんなことが前にもなかったか。この世界に来る前・・・
男はとうとう彼女を見つけ出した。だが男の目は先にも述べたとおり、二次元視覚になりきってしまっていた。だから彼の目に映ったのは彼女本人ではなく、その影だったのだ。もう見ることのできない彼女本人が、自分のように影になってしまったなんてことがないように、と男は願いながら―ごめん、ぽつんと呟いてそそくさと当てもない方向へ逃げて行った。
男は何故ここにいるのか、疑問と答えを同時に得た気がしていた。改めて周りを見ればそこにはあの看板以外何一つなく、現れる様子だってなかった。
―俺はこの世界から出るつもりはない。誰かが救いの手を差し伸べていても、ここに留まるのだ。だからここにいる。
男は看板を一回りした。するとそれは看板ではなく地に落ちた一枚の名刺であることに気が付いたのだ。
―“トジタコウヤ”、これは俺の名前じゃないか。男は苦笑いした。
―ここは、トジタコウヤ・・・。
世界の謎はすべて解けたようだったが、男はこのあといつまでも、影のような存在だった。
ちょっと気が乗ったので書いてみたら約3時間半という極めて短い時間で完成した作品です。期待破りで申し訳なかった作品でしょう。さらに悪文だったのが残念ですが仕様です。主に私の文の仕様です。
それでも読んで下さった奇特な方々には、大変深い感謝の気持ちと大切な時間を奪ってしまった罪悪感とで私の気持ちはいっぱいであります。
今後私の気が向いてしかも調子が良いなんてことがあったとしましたらまた投稿するかと思われます(3時間半くらいで)。その時はまたお世話になるかもしれません。