71, 前夜・不死の弱点
『と、こんな感じだな。準はサークルエリア強襲事件の当事者で、まぁなんだ……』
春樹の声が耳につけたイヤホンから聞こえる。サークルエリア強襲事件の話をしていたようだったが、内容はほとんど分かっている。興味もさほど無いのに聞き入ってしまったのは、一体何に魅せられたからなのか。
見渡せば暗闇。もしかしたらこの幻想的とも言える空間に魅せられたのかもしれない。
黒猫が屋根の上を闊歩するように、その黒きヒトも屋根の上で仁王立ちをしていた。どこを見るまでも無く、ただ虚空を見つめて耳に神経を集中させている。月光も今夜は薄く、街灯の照らされない屋根の上は足元もおぼつかないほど暗かった。
サークルエリア強襲事件。その頃の潤目はまだ春樹に対してさほど興味を持ち合わせていなかったが、今の話を聞けばやはり春樹は潤目の思う通りということになる。ブツッと音を立てて通信を切り、仕掛けていた式を解除した。
かつて、狐の要塞と呼ばれていた3rdエリアの核を眺める。外見は何も変わっていないが、その機能は失われ、新谷が死んだ際に昇った光の柱ももうない。あれは要塞とは違って、ただの狼煙のようなものだ。流石に一昼夜もすれば必要は無くなるし、何より既に情報生命体たちは守るべきものを守るために動き出している。日比谷の行動はどうやら的を射たようだった。
中央大学園施設は既に原型を留めていない。施設という名前から大きく外れた、『塔』になっていた。サークルエリアの天井に届くんじゃないかと心配にもなるほど高い。白く先端が尖っている。
『オベリスク』とは、古来において建設されていた塔の名前で、言葉の意味は『守護』やら『保護』というらしい。さらに、その発音が濁った形ではもう一つ意味があり、『串』という具体的なものもある。『命』を『守る』という名目においては、ぴったりなネーミングだと潤目は思った。
「……それで、その命を刈取ろうとする屑が俺に何の用だ?」
潤目は黒ローブを翻し、淡い月光に照らされたそれを見た。闇に靡くその金髪は悔しくも美しいと表現するに値したが、丸く団子のように纏められたショートヘアーでは魅力も半減。何よりも、その卑猥な服装が場違いなように思えた。
「何の用だとは他人行儀ですわね。わたくしは貴方に言いたいことが山ほどありましてよ?」
ミリアだった。片手に持つ鞭は鋭く、碧眼が輝いている。
「山ほどと言っても、大方昨晩の事だろう。怨みでも買ったらどうするべきかと思ってはいたが、案の定という奴だな」
「分かっているなら話は早いですわ。左肩が痛くてたまりませんの。この責任、どうとってくれますの?」
「ああ、そうだな……」
潤目は一歩前に出て、腰のナイフを抜いた。
「――お前の左肩、刈り取ってやる。それで許せ」
有無は問わない。潤目は屋根を蹴った。
だがそれに素早くミリアは反応し、鞭で中距離からの牽制を放ってくる。鋭く曲がりくねった鞭が潤目の斜め上空から振りかざされ、それを横に飛んでかわした。紙一重ではなかったが、多少肩を掠めていき潤目がいた場所では木材が棘を剥いて穴を開けていた。
ヒュッという微かな振動音が潤目の耳に入り、それを聞いた潤目はナイフを逆手に持ち替えて自分の上空を薙いだ。銀色の閃光がほとばしる。一気に腕に重力がのしかかり、確かに鞭を弾いた感覚を取る。先ほど破壊した屋根を黙認してから僅か一秒以内の追撃。額から冷たい汗が流れ、静かに舌打ちした。
「良く受け止めましたわね。昨晩は式しか使っていなかったから、これにまんまとやられてくれると思っていたのですが……一筋縄でいくと思ったのは間違いだったかしら」
「何、今のはお前の運が悪かっただけだ。今の一撃は俺も予想の範囲を超えていた。鞭を引き戻すタイミング、破壊された屋根の損傷状況とその後に俺の視界に鞭が無かった点、その鞭の長さから不可能だとは思っていたが、お前を普通とみなすには少々慢心があったようだ。だが、今の一撃で仕留められなかったのは痛いな」
「不意打ちは失敗。別にこれで終わらせようだなんて最初から思っていませんわ。貴方が無駄に観察力が良いのは分かってるんですの。だから、手数は種類をイコールで繋ぎますわ」
戯言を、と潤目は小さく漏らした。
不意打ちに失敗したのは潤目のほう。ミリアに因縁を掛けられた瞬間、戦闘になることを予想して半ば会話を遮るように特攻したのだが、距離が距離だったのか、それとも最初からミリアに読まれていたのかは定かではないが、明らかに突然と言える行動にミリアは何ら問題なく対処してきた。
そして何よりの問題。潤目は今の一撃で鞭の軌道と速度の修正の仕方と基本的な数値をほぼ読み取った。あれが本気でないにしろ、人間の限界血を計るには十分すぎる一手。つまり、これから鞭での攻撃が襲い掛かってきたところで八割がたは予測できる。
が、同時に潤目は相手が『自分を計った』ことにも気付いた。
だから『手数は種類をイコールで繋ぐ』のだ。
「ラーニング。相手の技の特性と技術を直に受けることで自らのものとする業。まあ、貴方の場合は使うのではなく、『完全に理解してしまう』だけの話なんでしょうけど」
つまりはそういうことだ。
潤目は一度二度の攻撃でその特性をほぼ見極めることが出来る。それは並外れた洞察力と観察力のなせる業であって、式が使用されているわけではない。やろうと思えば一撃目の攻撃が『あたる前』に読み取る事だって可能である。
それを対処する方法は幾つか。簡単に手の内を見せないということと、手数を踏むことだ。
潤目に読まれないようにするということは熾烈を極めるということはミリアにも分かっていた。こちらとて数度も手合わせていないが、昨晩の由真や九条を利用したところから策士であることは間違いない。それと、ミリアは政府から危険要素として黒ローブの男を知らされていたのだ。しかも、報告によればリーダー格の男、神堂とほぼ同等の実力を持つ男が潤目にあえなく撤退させられたとか。そのことは異常であり、正直に胸のうちを語れば普通に戦って勝てる気などさらさらしていない。今それが出来ているのは、自分が正気ではないからだ。
だからミリアは問いたかった。何よりも、このことを問いたかった。
「貴方、何者?先ほど治安維持機関の彼らの会話を盗み聞きしていたようでしたが……政府の人間では無いでしょう?」
「何よりお前自身が俺を理解できないのであれば、誰にも分からない。政府の人間でも無ければ、あいつらの仲間でもない。謎めいた第三者とでも思ってくれれば結構だ」
「目的は何ですの。貴方がわたくしたちの邪魔をする理由が分かりません。向こうに介入しているわけでないところを見ると、貴方も政府のやり方に反発しているということでよろしくて?」
「……反発?――はっ、そんな生ぬるいもので俺がここまで動くわけが無いだろう。一つ残念なことを教えれば、どちらの仲間でもないが、少なくとも政府の敵であることは間違いない。特にお前のような屑を見ていると虫唾が走る」
その言葉にミリアが歪んだ。二度も屑と呼ばれれば怒りが募るのも致し方ない。
ズバァァンッ!
鞭が振るわれ、屋根が破砕する。この家の家主は今頃どこかへ避難していることだろうと、潤目は気の毒に思った。
むしろあれが自分の身体を傷つけると想像すると、吐息すら凍りそうな悪寒が走る。
――否。そんなことはない。
今の振るいで分かった。『あんな鋭くて痛そうな鞭、決して当たるわけが無い』と。そう思えば幾分か楽になる。
「分かりました。わたくしは全力で貴方を夜の藻屑に変えて差し上げますわ」
「鼓舞していろ。『愚かにも自分で仕掛けた地雷を踏んだ馬鹿』が」
その時、ミリアの中で何かが切れた。
「――っ!黙りなさいっ!」
光速の鞭が潤目の肩を掠める。数ミリのずれが生じていたら今頃肩は夜空を舞っていただろう。反射神経でそれをかわし、屋根から屋根へ飛んで移った。肉体強化の式が成せる業。次の屋根に移ると、そのまま二つ三つと移動して行き、ちょうど良い足場と距離を取ると屋根の上に式を刻み始める。
ミリアは米粒ほどの大きさになった潤目を肉眼で捉えると、こちらも式を刻み始める。手数はつまるところ式での勝負になる。鞭で出来ることなど数限られているからだ。証拠として、今の一撃も常人にはかわすことは出来ないはずだった。にも関わらず潤目はミリアの腕が数ミリ動いた瞬間に反応し、軌道と速さを予測して最小限の動きでかわした。あれはギリギリだったのではない。あれが最も無駄の無いかわし方だったのだ。
奥歯を噛んで、必死になって腕を動かす。これまでここまでペンを早く動かしたことは無かった。焦燥に似た感情が胸を締め付けた。
一筋縄ではいかないなどと誰が言ったのか。あれは一本の縄どころか十本の縄を投げたところで捕まりそうに無い曲者だ。厭なものを相手にしてしまったと、ミリアは今更ながら後悔する。
その時、ミリアの視界から潤目が消えた。
「なっ、まさか逃げたのでは」
そう思ったのもつかの間、潤目はすぐ横の屋根の移動して再び式を刻んでいる。その業の速さはこれもまた尋常じゃない。
(罠を仕掛けている……?それとも時間差……?)
考えている暇は無い。とにかく専制を取らなければ負ける。
「『転移』。来なさい、ロンギヌス」
ニヤリと笑みを漏らして、ミリアは式を完成させた。
空間干渉式。物体移動を扱う『転移』。呼び出したのは鉄の塊と、槍。
亡霊のように数を成し、生気の感じられないふらふらとした足取りで屋根の上に蠢く鈍色の人間兵器。何も無いはずの空間から、泥水から這い上がってくる化け物のように姿を現した。
潤目はそれを遠めに見て、内心驚いていた。
空間干渉式は元から技術力を必要とする。結界式はその中でも初歩ではあるが、それでも物理干渉に比べたら三十倍の書物を読まなければならないほどだ。クリエイションエンブレムは空間に干渉するというが、実際は微粒子空間に干渉していると言っても良い。水流はなどは二種類あり、地面の中の水分をかき集めるか何かをして水分を集め、操作する式であり、もう一つは空気中の水分をかき集めるタイプ。後者はクリエイションにしか出来ないが、言ってしまえばそれは水分という『物体干渉』になりえる。それはアクティブとほぼ何ら変わりは無い。
だからこそ、結界式は難しい。その空間自体をいじるという行為は言ってしまえばワープに近い。実際にワープが出来るかどうかと聞かれれば、見てご覧の通りだ。
空間には『立体』という概念と『光』『物体』『重力』といった、理解するには宇宙理論でも語れなければ理解できないような複雑な関連性と結論が入り混じる。アインシュタインの相対性理論を小学生に理解させるくらいの理解力が必要だ。
簡単に言ってしまえば、ある空間を歪ませ、その歪みをどこかの歪みに繋げ、一本の道を創ると考えれば良い。確実性が無ければその歪みに取り込まれ、不確定空間に引きずりこまれることからほぼ禁忌に近い式でもある。
それをミリアがこの短時間で作り上げたというのは、彼女が『マッドサイエンティスト』と呼ばれる故に他ならない。
潤目は式を構成するスピードを速めた。想定の範囲内ではあるが、些か向こうの行動が早すぎた。こちらはまだ、予定の数ほど式を構成していない。
「間に合うかどうか……。最悪少数で挑まなければならないな……」
ナイフを屋根から離し、次の屋根に飛ぶ。
「ロンギヌス、追いなさい!」
ミリアの声が遠くから聞こえ、その重い鎧を纏っているとは思えない跳躍力でついに甲冑たちが動き出した。距離は十分に取った。が、やはり仕掛けた式が少なすぎる。
小さく舌打ちした後、覚悟を決めて先ほどと同じ式を『屋根に刻むふり』をして、空間干渉のほうを刻み始める。
ガッ!
僅か一歩の場所で、槍が屋根に突き刺さった。腕は動かしたままで前を見れば、距離は開いているもののロンギヌスを投擲する甲冑たちの構えが見て取れる。あれだけの数を投げられれば、下手な鉄砲数打てば当たるとも言えるだろう。刻みかけの式を放置し、甲冑が投げると同時に前方に向かって走り出す。
槍の投擲は山なりだ。そしてこの数。かわす方法は後ろでも横でもない。前。跳躍力があったと言えども所詮は甲冑。動きはやはり鈍い。
屋根を飛び越え、一気に距離を詰めて一番前にいた甲冑を蹴り飛ばした。
「ちぃっ。重いな」
蹴ったは良いが、その硬さに向こうは微動だにしない。ほぼ中心に立った潤目は投擲をしていなかった甲冑たちの槍の餌食となる。四方八方から襲い来る槍に潤目は空中に大きく跳んでかわした。空中、見下ろせば槍騎士たちが見上げている。俯瞰して分かったが、投擲したのは半分程度。これもミリアの作戦だと思えばしてやられたということだ。
そして、そのまま本気の速さで式を刻む。
「間に合えっ。『風流』!」
落下地点は槍地獄。全員が上に槍を向けて串刺しにしようとただ待っていた。落ちれば死亡は免れない。大きく跳躍したと言っても人間には限界があり、重力加速度が焦燥を増す。自分がとった行動の愚かさを知った。
潤目が半ば覚悟を決め、目を瞑った瞬間。
――風が、潤目の横腹を殴った。
「ぐっ……はぁ」
そのまま落下せずに横に大きく飛ばされ、近くの家の屋根の上で数メートル転がり、ギリギリの所で止まる。肩と腕、背中を打ちつけたおかげで上手く呼吸が出来ない。肺が空気を求めるが、喉が塞がっているようだった。ほぼ自爆に等しいが、こうでもしなければ串刺しであった。
状況を確認する。潤目が仕掛けた式は多数だが、予定よりも少ない。潤目自身の位置から見て右側の奥と手前に何箇所。そして真正面には甲冑が集まり、今にも槍を投げようかと投擲の構えを取っている。そしてミリア。彼女は左手奥で甲冑たちに命令を送り続けている。
……位置関係的には、最高だ。
最高の位置を取るにはまだ障害がある。あの甲冑たちの猛攻をどうにかしなければならない。甲冑、式、ミリアの位置が最善でも自分が良い位置を取らなければ何ら意味を成さない。即ち、それは現在ミリアがいる位置であった。ミリアを後一歩後退させることが必要。潤目は態勢を立て直して、ナイフを逆手に構えなおす。
そこからは早かった。
投擲されたロンギヌスが潤目の足元を掠めたことを合図とし、潤目はたったの一歩でミリアとの距離を詰めにかかる。後方で槍が屋根の刺さる音がし、あそこにそれ以上の秒数留まっていたらどうなったかと思えば寒気がする。
しかし、潤目には最初からそんな想定は無い。甲冑が投擲をしたということは、それに相応してミリアがその命令を下したということだ。つまり、その瞬間こそがタイミング。
風を切りながらこちらの接近を迎え撃つミリアとの距離を次第に詰める。流石に肉体強化と言えども重力や慣性の法則には逆らえない。空中で減速する身体に潤目は更に式を叩き込んだ。視界に屋根ではなく壁が見え始めた頃、潤目は初めてその名を口にする。
「行くぞ。『風流』」
今度も全く無駄の無い構成速度だが、今回だけはいつにも増して構成の緻密さを上げていた。決して失敗は許されないからだ。潤目の身体を風が包み込み、足に見えないローラーブレードが設置されたような足取りで風の滑走路を駆ける。
ミリアは潤目の明らかな原則を呼んでいたが、まさか途中で式を組み立てて加速するとは思うまい、甲冑を操るために使っていたペンを一時止めて、鞭を強引に振るう。
「どこまでも策士ね、全く――」
ミリアにも潤目が絶妙なタイミングを計ってきたことは分かった。そうでなければあの速さで逃げ出すことは不可能、想定されていたからこそ避けられた攻撃だ。
激しい火花が飛び散る。速度を持って繰り出されたナイフの一撃は呆気なくしなりを得た鞭にはじかれる。そのまま腕まで持っていかれそうなほどの威力を感じながら、その勢いに任せて屋根の上を転がった。
……だがそれで鞭の猛攻は止まない。振るった細い線は一度走れば本人の意思を関係なく反動で振るうしかなくなる。蠢く鋭い蛇のような一閃は留まらず、潤目の頭上目指して毒牙を剥く。
しかしその毒蛇の侵攻すら潤目は眼中に入れていたかのように、振り向きもしないで身を少しだけよじりながらナイフを頭上を守るように薙ぐ。再び二つの武器の間で空間が火を噴き、その熱さを感じる間もなく潤目はナイフを手放した。担い手を失った銀化粧は夜空に舞って、どことも知れぬ場所にその身を甲高い音と共に終わらせた。そして、弾き飛ばされた鞭は潤目を襲うかと思いきや、思いの他ナイフでの反撃が大きいものだったらしく空中高くに位置している。
いわば相殺である。ミリアは無理に戻そうとせず、流れに任せてその鞭を屋根の上に落とした。潤目の奇行に納得がいかず、――つい、腕の筋肉が緩んだ。
「武器を捨てたですって!?貴女何を考え――」
「見くびるな。誰が武器は一本だと決め付けた」
慢心を取った。
潤目は黒ローブの内側から隠し持っていた二本目のナイフを繰り出し、その切っ先をミリアの喉元めがけて投げ込んだ。距離にして大幅三歩分も無い。この速度を目の前にして、避ける術は無い。更にはミリアの鞭の反動が邪魔をし、満足に防御も取れない。
……ドスッ…………。
それは誰にも見間違えようの無い事実。
「――……が……ぶ、ぁ」
ミリアは喉から鮮血を噴出して、漏れるはずの無い嗚咽を撒き散らした。喉から口から、傍から見ればあらゆる場所から出血しているように寸劇でその身体を真っ赤に染め上げる。ボタボタと垂れる血は、その量だけミリアの余命を奪っていく。
だが、それを見てもなお潤目は止まらない。三本目、先ほどの二本とは明らかに違う彫刻の入れられた、ナイフというよりも『短刀』と表現したほうが良いような刃物がローブの中から姿を現した。ナイフが刃渡り十センチ弱だとするならば、それは三十センチはあるような中途半端な長さ。そして刃の作りは今まで使用していた明らかさまなサバイバルナイフではない、どちらかというとサクス、曲線の無い直刀である。
それを目の前で惨劇が起きているというのにも関わらず、何ら関心を持っていないように無視を決め込んで空間に式を刻み込んでいく。
「悪いが失せてもらうぞ甲冑。……『隔離』」
完成した式が光を帯びる。
瞬間、同時に今まで仕掛けてきた多数の式がそれに呼応するように光り始めた。
連鎖である。親スイッチを押した瞬間、その電線につながれた全ての爆弾が爆発するように、今完成させた式が誘発を催していた。だがこれは、ドミノ倒しのようなものではない。れっきとした連鎖ではなく、『隔離』のための範囲設定だ。
三角形を作るように設置されたその中心に甲冑。たったの一人さえ残さずにその空間に閉じ込めた潤目は、もはや躊躇はしまいと完全に発動させる。
……ぐにゃり、と潤目の後ろで空間が歪み始める。陽炎の中にいるわけでもあるまい、いや、それ以上の歪みがそこには発生していた。マーブルアイスでも作っているようにそこだけ色という色が混在し始め、空間というよりも絵画に描いた絵の具を思わせるような平面感が襲ってきたかと思えば、それは上下左右にうねりを上げて、ついには空間という有り得ない物質を粘土細工しているような激しい歪曲。既にごちゃごちゃという概念を超越している。それも 段々と収まってくると、次の瞬間には嵐の後の静けさだけが残っている。
――そう、それだけが残って、他は消えうせた。
甲冑だけを消すつもりだったが、どうにも調整に誤差が生じたらしく家の屋根まで消失していた。ついでに壁の何割かも持っていかれたようだが、この際被害は気に留めない。
実際甲冑側から見たならば、外観が一気に失せたのみで、ほとんど変わりは無い。異常が現れるのは外側の数秒間だけである。これは、潤目が最初に春樹と出合った時にも使った『結界式』の一種であった。
空間を指定した部分だけ隔離することによる空間干渉。切り取りと再構成、しかしそれでも現世との接続部を確実に残しつつ別空間を作り出す。言えば簡単だが、物理学を超えた宇宙理論でも立てるくらいの知識が必要だ。既存の知識であるといえども、発案した人間には今からでも表彰状をあげたい位の異常な構成だ。
式というのはそういう点、ほとんど不可能が無いのではないかとも思う。このように空間干渉を行えば確かな違和感がそこには残ってしまうことは確かだが、『隔離』といい『転送』といい、既に魔法の領域だ。知らない人間だけが知らない、知っている人間には当たり前の世界。とは言え、空間というものは常に変動を遂げる。強風が吹くだけでも色々と変わってくるもので、諸刃の剣といえばその通りなのだ。
ならば何故こうにまでして成功するのかと問われれば、いたって簡単だ。
――ここが、閉鎖空間であるからだ。
風は起きなければ無く、発生したところで距離があれば失せるものだ。果てしなく緻密な式であると言えども、微弱な風ではびくともしない。先ほど使った風流に細心の注意を払ったのはそのためである。
「さて、死に真似は止めろ。血糊か何か知らないが、無駄に演義をらしくするな」
今だ血を吐き続けるミリアにそう言い放った。
既に致死量に達しているだろう出血をしているはずなのに、ミリアはそれでも血を吐き続ける。まさか普通の人間より多く血液を持っているなどと下らないいい訳は無い。
その潤目の声を聞いた瞬間、嗚咽はヒッ、と声と言えない音を立てて止まった。
「――……血糊とは、随分とわたくしも人間視されなくなったものですわね。一応出血は本物ですのよ」
「それは驚いた。俺はてっきりお前の血は青いのかと思っていたからな。それと、人間視がどうとか言っていたが、それは本気か?お前を人間視出来るのならば、猿も犬も人間視出来る」
そう、本当に意外そうに潤目は言った。
「貴方、なかなか毒舌家ですわね。まあ、確かにわたくしも自分がまともな生物だとは思っていませんわ。それは覚悟の上でしたし、人を止めることに別に後悔も何もありませんもの。自分がどんな生物であれ脳で思考することが出来、五本の指と場を認識する眼球さえあればそれで十分。それくらいの気概でも無ければやっていけませんわ」
「それは最もな話だな。人が人である理由なんて必要ない。腕にミサイルを搭載したければそうすればいい、眼球からビームでも出したければそうすればいい。そうしたいという行為自体を異常と呼ぶには些か一般論が度を越えすぎているな。だから俺は文句は言わないが、歪んだ思考を卑下することくらいは人間なんでな、それくらいはさせてもらう。でなければ異常であるお前たちを表す言葉が無い」
「……ふん。随分大人びた意見だこと。正当化する気なんてさらさらないでしょうに」
「無論だ。俺は残念だけれど常軌からは逸脱できなかった中途半端な人間でな、お前たちの気持ちは何一つ理解出来ないんだよ。……それで、傷は完治したのか?」
と、潤目は唐突に常識では考えられないことを問い始めた。
しかしミリアはそれが当然だと言うように、首を押さえていた手を取って、それが絵の具でも誤って付いてしまったかのように首についた血をふき取った。
「完治も何もありませんわ。どうせ出血したところでわたくしは絶命しませんもの。自己修復機能は付いてますが、こんなものは四肢を守るための保険であって、命を守るものではありませんし」
ふき取った部分からは傷痕は少しも見られない。本当に絵の具が付いたのではないかと錯覚してしまうくらいミリアはピンピンしているし、ただそれだけだ。
だが、それでも潤目はあの能力が完全でないことを知っている。
この世の理に不死という定義は絶対に存在しない。『死ぬことが無い』と辞書には書いてあるだろうが、結局不死なんてものは造語に過ぎないと言っても過言ではない。何故なら、それは森羅万象の内にも含まれない事象だからだ。
出血多量を防ぐ程度では不死とは言えない。肉体を塵すら残さず消失させるほどの消滅を受けても以前存命かつ肉体の再生が間に合わなければならないのだ。肉体を完全消失させることは不可能だ。現世の循環という輪の中に捉えられている以上、塵が砂に混じり、それはどこまで小さくなろうと残り続ける。
だが、果たしてその状態から復活できるかと問われればそれは不可能に近い。一ミクロンにも満たない物質から一メートル強まで派生することは蜥蜴の尻尾が再生する早さに十倍を何度かけようとも気が知れない。
どれだけ仮定をならべようとも、科学などという小さな枠に囚われた技術の中でそれを実行することは一パーセントの奇跡すら見放すだろう。
だが、ミリアの場合はそんな難しいものではない。
『自ら仕掛けた地雷を踏んだ』のだ。
潤目はニヤリと口を歪ませて言う。
「左肩の傷は、完治出来なかったのか?」
「――っ!?」
明らかな動揺がミリアに見られた。血濡れの服を掴んで、奥歯を無様にも見せてきた。
「貴方、洞察力だけは神じみていますわね」
「何、ナイフで首を裂かれても『地顎』で傷ついたものは治療できないのかと素朴な疑問を投げかけてみただけの話だ。俺としてはお前がそう簡単に肯定するとは思わなかった。案外隠し通さなくても良いことなのかもしれなかったな」
その言葉にますますミリアは機嫌を悪くしていく。
知られて良いことのはずが無い。それは致命的な弱点だ。完治できないわけではないが、式で傷ついた傷はそう簡単には癒えないのだ。
その理由は本人すら知りえないのだが……、それを知ってか潤目は依然として短刀を構えもせずに言う。
「何故お前が式で傷つくか、教えてやろうか?」
「……何ですって?」
ミリアは好奇心に負けて問い返していた。それを聞くと、潤目は得意げに笑みを浮かべた。
「簡単なことだ。お前が使う不完全な不死は、不完全であれ不死に近い。それは、人の世にとって不可能の領域に足を踏み込んでいることになる。そして俺の投げたナイフは物理であり、物心つかぬ幼稚園児でも出来ることだ。それは限りなく可能の領域に分類される。――良いか、不可能の領域に足を踏み入れられるのは無論不可能のみだ。例えば、決して助からない高さの建造物から落下したとする。そこで助かることは不可能だ。可能の領域での行動、途中でロープを投げつけて落ちる人間がとろうと腕がもげて終わり。下でマットが待っていても終わり。つまり、そこに不可能が発生した瞬間から可能は選択肢に含まれなくなるんだ。だが、不可能に打ち勝つ方法はある。――それが、不可能だ」
「――――」
理解が追いつかずにミリアは黙り込む。だが、潤目はそんなミリアを察しもせずに畳み掛けるように続ける。
「落下する人間はどう援助をしたところで助からない。なら、落下という現象を止めてしまえば良い。……が、それは一般的には不可能とされる。そうして輪廻のように不可能が不可能を可能とするために回り続けることになるのだが……お前も知っての通り現世には不可能を可能とする技術がたった一つだけ存在していた」
「……つまり、貴方は不可能を可能とする式だからこそ、わたくしの不可能を不可能によって打つ滅ぼすことが出来ると言いたいわけですわね。なんとも説得力がありすぎて気持ちが悪いですわね」
ミリアはほとんど無意識のうちに舌打ちして後ずさりした。本能という本能が、この男にはただで勝利することが出来ないと告げている。それこそ、話に出ていた不可能の領域だ。だが、今のミリアにはそれに対抗する不可能をこの状況で発生させる自信が皆無に等しかった。
構えてもいない短刀で式を構成されればそれで終わり。この近距離でどうにか出来る問題ではない。知らぬ間に弱気になっている自分に嫌気が差したが、状況に免じて自分を許すことにした。
「興醒めですわ。非常に不本意ではありますが、ここは撤退させてもらいますわ」
「……俺が逃がすとでも?」
「ふん。追いたければ追いなさい。では」
ミリアが突如、どろり、と固体を崩し始めた。肉体が形を無くし、高温で溶ける氷のように薄い水と化していく。
全くの予想外の展開に潤目は咄嗟に短刀を突き出してみたが、既に斬ったのは単なる水。それがミリアの本体であるはずも無く、蒸発するようにそれは消えていってしまった。
試しにミリアが今までいた屋根に短刀を刺してみたが、当然何の反応も無かった。サクッ、という軽い音が鳴っただけで、あとは虚しさしか残っていない。
静かに舌打ちした後、戦闘が終わったことに急に脱力した潤目は、ははっ、と自嘲して屋根の上に座り込んだ。
「収穫も損害も無しか。――しかし左腕、刈取れなかったな……」
自分でも驚くくらいに落胆しながら、潤目はまだ明けぬ夜を見上げてそう呟いたのだった。