70, 前夜・冬樹の名
自分が恋焦がれていた過去があったとしよう。
あの時期は良かったなと、そういえばああいうこともあったなと、人は未来に不安を覚えるくせして過去を美化する習性がある。それがどんなものであれにしろ、振り返ってみれば良い記憶となっているのだ。
しかし、由真のように過去が良すぎると美化する前に現在に絶望を覚えて過去すらも飲み込んでしまう。
ここ最近でわかった出来事を由真は頭の中でまとめていた。というもの、現在信一が見回りをしてくると言って春樹と二人きりなのだ。聞きたいことが山ほどあり呼び止めてはいるのだが、どう切り出せばいいか悩んでいた。
由真の当初の目的、それは過去も現在も好意を寄せている『四季』である『春』をサークルエリアが崩壊する前に外界に連れ戻すこと。『春』だということと、昔の外見以外は全くと言っていいほど手がかりが無いが、最近で様々な説が由真の中に浮かび上がってきた。
そして不思議なことに、その説に隣の男、武藤春樹が絡んでくる。強いて言うなら最有力説が春樹が『春』に似ていること。名前もさながら、雰囲気がそのものである。
だが春樹が『春』であるならば、腑に落ちない点が出てくる。何よりも由真を見て、何の反応も示さないわけが無い。片思いであろうと何であろうと過ごした日々は確かにあったし、昔の事と言えども名前まで聞いて分からないはずも無いのだ。
聞くなら今しかないと、由真は拳をぎゅっと握り締めて春樹の方を向いた。……が、突然変なことを聞くのもどうかと思って、一応当たり障りの無さそうな話題を選んで話す。
「じゅ、準さんって男の方だったんですね。全然気付きませんでした」
何故か緊張してしまう。声が多少震えていたかもしれなかった。
春樹はそんなことには全く気付かず、笑ってその事実に肯定を示した。
「そりゃ気付かないよ。あいつは外見どこから見たって女に見えるし、声質も女、仕草態度もだからな。ああ、かと言ってオカマなわけではないと思うぞ。軽い性同一性障害みたいなもんだと思ってくれ。信一がさっき言ってたみたいに、人格封印の際にミスがあったらしく、それでああなっちまったんだとさ」
「準さんは当然自分が男だと認識してるんですよね?」
「んー、多分な。直接聞いたことはないけど、その辺はわきまえて……なさそうだけど、事実は改竄のしようがないだろ」
「まあ、確かにそうですね」
思い出してみれば、2ndエリアで混浴したのは大丈夫だったのかと今更ながら思う。確かに胸の辺りとか違和感があったが、やはり向こうが女性になりきっているせいかそれ以外に嫌悪感やら何やらを感じなかった。春樹の言うとおり、体つきも細く筋力というにはかけ離れた四肢に整った女性の顔立ち、声も可愛らしい十代の女性の声で全く気付ける要素が無い。あるとすれば、それは……。
想像したところで由真は顔を赤らめて首を振る。と、それを見た春樹がニヤリ、と明らかさまに悪戯を考えた子供のような楽しそうな笑みを浮かべて言った。
「天宮寺さん。今何を想像した?」
由真は何を聞かれたわけでもないのに、全力で手を振って否定をした。
「ななななななな何も想像してませんっ!そそそ、そのあれですよあれ、じょ、女性の魅力がありまくりやがるくせして男の方のく、勲章……じゃなくて立派な殿方ですねっ!!」
わけの分からないいい訳を並べておいて結局墓穴を掘った。春樹は豪快に笑い飛ばし、由真はそれで一層顔を下にして自分の顔を見せないようにした。
「まあ準を男か女か見分けるためにはそれしかないさ」
「武藤さんは確認、したんですか?」
「……」
それはとてつもなく無理な話だと春樹は思う。どれくらいかと言えば、高所恐怖症の人間が六十階建てのビルの屋上から、必ず助かるように仕向けられたバンジージャンプをするのと準の股間を調べるのと天秤にかけてギリギリ前者を選んでしまうくらい無理な話である。腐っても外見が女なのだ。普段生活していても危うい部分が少々、否多々あるというのに。
「と、当然ですよね。いくら男の方だって言ってもあれじゃあ……」
「天宮寺さん。俺の準に対する苦労の原因は全てそこにある。あいつはぶっちゃけて言ってしまうとありきたりな比喩だが、月が隠れて花が恥らうくらい可愛い。だが、奴は男だ。この恐ろしい葛藤が天宮寺さんには分かるか」
「さ、察します」
ほとんど圧倒されるような形で由真は頷いていた。聞けば確かに自分が春樹の立場に立ったら戸想像すると、悪寒が走る。果たして間違いを犯さないことが出来るか悩ましいところだ。
またもや不純な思考に頭が満ちてきたところで、由真は首を振って思考を掻き消して無理矢理何か話題を変えようと言葉を探した。
「え、えと、武藤さんは昔はどこに住んでいたんです?」
ほとんど無意識に出た言葉だったが遠まわしに過去を探るためには良いと、そう聞いた。
すると春樹は床に座ったまま背伸びをし、やっと由真が話題を転換してくれたことに安堵しつつその問いに対して軽々しく答える。
「昔……って言われても俺はずっとあの1stエリアの家に住んでた。ああいや、傭兵やってた頃は施設に入れられてたけどな。信一に出会ってからなんか豪勢な家貰ったからな」
春樹の返答は的を射ていない。由真は慌てて訂正する。
「そ、そうではなくて、サークルエリア都市化計画の前です。ま、まさか犯罪者で最初からここに入れられていたなんてオチは無いですよね……?」
ああ、と春樹は由真の言葉の意味するところを理解して、すぐに答えるべきか迷った。真実を告げるならば恐らく由真の満足のいく答えにはならない。とは言え嘘をつく必要も無い。強いて言うならば、自分がそうであることを語ることで仲間の間に亀裂が入らないかどうかが気になっていた。
考えてみれば由真には話してなかったな、と今更になって思い出した。
「俺はだな、まあ嫌わずに聞いてくれると嬉しいんだけど」
「犯罪者だと言われたら少しだけ思考します」
「いやそれはないから安心してくれ」
一度息を吸い込んで言った。
「俺は、記憶喪失なんだわ。サークルエリア都市化計画以前の記憶が全く無い。ああ、全くだ。それはもう欠片探しすら出来ないくらいに無い」
随分と強調するからに、本当に全く記憶が無いのだろうと察する。由真は密かに落胆したが、記憶が無いのであればまだ絶望ではない。
サークルエリア都市化計画において四季が戦争の戦力になると言われつつもサークルエリアに逃亡させた、春の場合は強制送還された理由というのがあった。何しろ人間が閉鎖された空間の中で生命を維持するためには尋常ではない技術力が必要になる。それは今集めているライフを始めとして、何よりも『核』の存在が必須であった。
しかし、六つのエリアに平等に式の力を送り込むには些か量が足りなかった。そこで式の結晶である四季を使うことになったのだが、どういうことか現状では春から冬まで全員存在しているのだという。戦争をサークルエリアを都市化しなければならないまでに持ち込んだ原因である『秋』は政府直属の兵士になったと言うし、『夏』はこのサークルエリアのどこかに住居を持って生活し、『冬』においてはほとんど行方不明ではあるが、それは『春』も同様。生存がつかめているのは二人だけである。
だからこそ由真は心配だったのだ。彼ら二人がもしもサークルエリア維持のために核に取り込まれたというのならば、その証拠を見なければ納得が行かない。とは言ったものの、現実的には有り得ない話だった。『冬』を核に取り込ませるのならば全然納得が行くが、それに加えて『春』を生贄に捧げる理由が無い。彼は未完成であり、能力としては肉体強化のみを施されているのだ。結晶として使うのならば『秋』や『夏』のほうが効率が良い。
ならばたどり着く結論は、全員生きている、だ。
記憶喪失というのならばまだ、政府の施した何らかの処置の一つである可能性が浮かび上がってくる。これは、納得がいった。
「武藤さんのこと、もう少し知りたいです。質問に答えていただけませんか?」
真剣な顔で由真はそう聞いた。
「あ、ああ。別に構わないけど、何でまた急に。俺ってば変な誤解を招いてたぞ今」
「ああいえ、そういうわけじゃなくて単純に準さんの過去を知ったついでです」
由真は春樹の意図するところに全く気付かずに流した。春樹はその返しにうなだれて、泣きまねをした。
「……地味に傷つくなそれ」
「えっ!?わ、私今何かおかしなこと言いましたか?」
「大丈夫だ。天宮寺さんには少し天然が混じっていることは既に分かっていることなんだ。そう、分かりきっていることなんだ……」
何故か部屋の端で落ち込む春樹を見て、由真はどうしようかと人差し指を顎において悩んだが大丈夫らしいので、本題に構わず入ることにした。
「と、とりあえず聞きたいんですけど、武藤さんって兄弟とかはいるんですか?」
そう問う由真の表情はいたって真剣だが、これでは春樹の誤解した内容に近い質問である。本質的な意図がどこに含まれているのか春樹は必死で思考してみたが、その質問の内容からここ最近の状況に結びつけることは出来なかった。
「さっきも言ったけど、俺には記憶が無いんでね、兄弟がいるかどうかは分からない」
「あ……そうですよね」
由真も考えてみれば、先ほどの話から春樹の過去を探るのはほぼ不可能だということに今更ながら気付いた。春樹は物思いに耽るような視線を上に向けて、続けた。
「ただ一人の肉親すら知らないからなぁ、俺は。気付いたときには1stエリアにいて、物心ついた頃には傭兵になってた。そこからはそこが自分の生きる術なんだって思ってて、サークルエリア強襲事件の後はほとんど強制的に信一に新しい家宅を与えられてた。まあ信一も十五やそこらの子供を傭兵にしておくのは気が引けたんだろうな。俺の身元も少しだけ捜してくれたみたいなんだが、やっぱり分からなかったらしい。なんでも、まず『武藤春樹』っていう名前の人物は外界に存在しなかったとか言ってる。……まあこの名前はほとんど無い記憶の中で唯一あったものだから、不確かであることは間違いないんだけどさ。存在しなかった、だなんて恐ろしいオチは勘弁願いたいところだな」
ほとんど春樹は自嘲するように言った。
しかし由真としては成果のある返答である。
(武藤春樹の登録名が、無かった……?)
登録名というのは名の通りその人物の実質上戸籍のようなものだ。それが無い、というからにはとんでもなく不都合な環境に生まれてきたか、やはり春樹の記憶違い以外には考えられない。
ならばこそ、『その偶然はどこから来たのか』。
由真はその真意を確かめるべく、続けて春樹に問うた。
「単刀直入に聞きますけど、『武藤冬樹』という方はご存知ですか?」
「――は?なんだその俺の名前に取ってつけたような名前は。……って、もしかしてそいつが俺の兄弟とか思ったのか?」
「正直に言えばそうですね。その、彼の真名なんですよ、これ」
わざとはぐらかしたわけではないが、言うべきかほんの少し躊躇して遠まわしに言う。春樹にはその人物が誰か見当も付かないでいる。
それもそうである。
情報強奪でもしなければこの名前は舞台に上がることなど一度も無く、それを仕掛けた本人か、それともそうであるという真実しか知り得ない状況となっていたのだから。
春樹のごくりと唾を飲み込む音がする。よほど凄い人物なのかと予想しているのか、彼もまた真剣に由真の離しに聞き入っていた。
だが由真はこの偶然にしても異常な関連性に危惧を覚えて言うべきかを迷っている。春樹の名前が記憶の相違による偽名であるならば、武藤冬樹という名前を持つ彼が公衆の面前で公開した名前は全く異なるものであったため、春樹の真名が春樹で無いにも関わらず冬樹が春樹に関わるのは何故なのか。そして、記憶の相違であった場合に春樹が何ゆえに冬樹と関わりがあるのにも関わらず春樹という名前が記憶にあったのか。
不思議な三文芝居のようなすれ違いではあるが、武藤冬樹が春樹に異常な執着を見せているのは確かな話で、それが単なる名前の酷似であるはずがない。
つまり言うならば、『冬樹』は『春樹』を知っている。その逆もまた然り、のはずなのだ。しかし春樹は記憶喪失で冬樹を知らない。なのに名前に関連性を持たせた記憶の悪戯。いや、だからこそ、とも言うべきなのだろうか。
彼の者の偽名は潤目冬夜。春樹を幾度か襲い、昨晩由真たちを助けに来た黒ローブの男。
彼の者の真名は武藤冬樹。それは……。
と、そこで由真は首を振って余計な推論を振り払った。
なかなか由真がその彼の名前を口に出さなかったためか、春樹がしびれを切らして聞いてきた。
「な、なぁ。その武藤冬樹って誰なんだ?」
「――――」
だんまりを決め込むつもりは無かったが、やはり迷いが断ち切れていない。何故か、教えてはならないような気が由真にはしていた。
「待て待て、ここまで喋っておいて今更それは無いだろ。俺に無関係なわけじゃ無さそうだし、そこは話してもらわないと」
「そう、ですよね。ええ、分かってます。……潤目冬夜って方は、ご存知ですか」
「――は?」
わざと春樹の知らない名前で言ったつもりだったのだが、春樹の反応を見れば一目瞭然、あれは知らなかったために漏らした間抜けな声ではなく、驚愕に打ちひしがれた際に出た声だ。しまったな、と思った矢先には春樹は物凄い剣幕で由真の肩を掴んできた。
「どういうことだそれは。あいつの真名が武藤冬樹?冗談で言ってたらいくら天宮寺さんでも怒るぞ」
「ち、違います。信一さんとダムン・デルファを追っていた際に情報強奪で彼が出てきて、登録名がそうなっていたんです。いえ、確かに偽装されている確立も否めませんけれど、そうなっていたのは事実です」
春樹は肩を離して思考に入る。
情報強奪は白銀がやっていたから内容は分かる。その空間内を通った物体の情報を強制的に強奪する罠である。そのものの構成情報、物体強度指数、異常反応があるかどうかなど、様々な情報を強奪する。まさか戸籍情報までとは思いもよらなかったが。
だが、腑に落ちない点がある。
(あいつが、そんな式に引っかかるもんなのか?)
潤目は春樹では到底かなわないほどの実力を持ち合わせているはずである。仮面の男を退け、過去にはアイツァー・ランフォードまでとも刃を交えて勝利を収めるほどだ。そんな男がみすみすと式に引っかかったのか。
潤目が春樹に関わる理由は何か。幾度と無く姿を現してはわけの分からない言葉を吐いて逃げていく。その男の名前が『武藤冬樹』。どう考えても偶然では有り得ない。それを隠しているということは、間違いなく何かがあるのだ。
そしてそのことから、恐らく情報強奪の式にかかったという事実から察するには一つしかない。
(わざと、だな。あいつ、また俺にわけのわからん情報を与えてきやがった)
やはり何も掴めない男であると春樹は再認識した。
「武藤冬樹、か。何なんだろうな一体」
「分かりません。政府にも王政にもあんな異常な強さを誇る人はいませんでしたし、サークルエリアの傭兵さん、なわけもないでしょうね」
考えても答えは出ない。
――が、由真はその時、ふと思い当たった。兵士でも傭兵でもない。それなのにあれだけの強さを誇って、正体を隠し続けなければならない。
「まさか……」
寒気がした。自分の身体を抱くように腕を回すと、触った腕に鳥肌のぶつぶつ感がある。同時に眩暈もした。一つの、ただの推論に至っただけなのに由真は大いに揺れた。
否、違う。
そんなわけがない。
あっていいはずがない。
――けれど、それが違うと思えば思うほど、確立が自分の中で増していく。
ならば隣にいる男は誰なのか。
武藤春樹と名乗る男の名は何なのか。
否、違う。
そうであっていいわけがない。
――けれど、否定すればするほど、自分の中でそうなんではないかという肯定が強まる。
ならば黒ローブを被った男は誰なのか。
潤目冬夜と名乗る男の正体は、何なのか。
錯乱する意識の中、馬鹿げた思考を取りやめようとする自分とその事実を肯定しようとする 自分が由真の中で戦い始める。
違う、否、肯定せよ、事実を、否、推論に過ぎない、否定せよ、真実を。
「天宮寺さん?どうしたんだ」
突然意識の中で春樹の声が聞こえて、由真ははっとして勢い良く顔をあげた。その瞬間で、全ての思考が吹き飛ぶ。渦巻いていた流れが瞬時にして穏やかになった。だが、あまりにも白くなりすぎた思考の前に由真は放心していた。流れていた川がいきなり堤防で塞き止められたような激しい違和感と反動が由真を襲い、目が乾いて痛くなるまで瞬き一つすらしない。
由真はうなだれて言う。
「もう、今日は寝ましょう。変なこと言ってすみませんでした武藤さん」
そう言うと、由真はさっさと二階に上がって行ってしまった。
その背中をわけもわからず見ていた春樹は、ぽつりと呟いた。
「……まさか、って何なんだよ」
更けていく夜に、疑問だけが残滓のように浮いていた。




