68, 前夜・守るべきもの
サークルエリア強襲事件。名前も知らなかった自分に腹立たしいと思う。
『まぁなんだ。そんな過去があるけれども、準は今は良い奴なんだ。偏見とか持ったりしないで欲しい』
春樹は話し終わるとそう言っていた。彼はこの九条美香留誘拐事件に自ら関わっていたことなどを含めると、本当に優しい人間なのだと九条は思っていた。
現在時刻はちょうど日が変わる少し前。窓から差し込む光は淡く薄い。少しだけ舞っている塵や埃が光に反射して、まるで海の中に入るような錯覚を覚える。掴み取ろうと手を伸ばしたけれど、掴んだ所でその感覚は無に等しい。自分がしている行動が急に馬鹿馬鹿しく思えて、九条は手を引っ込めた。
春樹と信一の話が終わった後、信一は外を見回りに行くと言ってそのまま、春樹と由真はもう少しだけ起きていると下の階に残っている。先ほどここで寝ていたはずのあの兄妹はどこかへ出かけてしまったのか、丁寧にたたまれた布団だけが残っていた。
前夜とも言うべきか。皆が皆、明日に備えて休むのではなく、何か思うところを語っているのだと九条なりに察した。
「明日になれば、全部終わるのかな……」
新谷が死んだ。多くの情報生命体たちがその命を落とした。元々あったものではないのかもしれないが、少なくとも意識という面において生物としての生涯を終えたものがここ数日で数え切れないほど出た。要塞が落とされ、政府に狙われ、治安維持機関の者たちが来て、本当に目まぐるしい数日間であった。
隣で眠る日比谷怜にも後で礼を言わなければならないな、と九条はその寝顔に微笑んだ。
死、というものを実感したことはなかった。
確かに政府に囚われていたときは少しだけ危機を感じたが、それはあの治安維持機関の信一という男の策略であると聞かされていたため、最悪命の保障だけはあったのではないかと安堵していた部分もある。だから強気で過ごすことが出来たし、何より九条は日比谷や他の生徒たちが助けに来てくれることを望んでいた。
死というものを感じ始めたのは春樹が連れて来られてからだった。九条の目の前で傷つく春樹は、いつ死んでもおかしくないほど弱っていた。にも関わらず手錠を破壊しようとするその姿から、死と生が相反するものだと彼女は思ったのだ。
仮面の男、黒フードの男、ダムン・デルファ。様々な人たちが現れ、そして戦いを繰り広げたのだろう。しかし、それは九条の見ているところで起きたわけではなかった。
だから、日比谷がミリアに殺されかけていたとき、ああして反射的に叫んでしまったのかもしれない。九条は潤目からとにかく注意を潤目に向けないようにしてくれと頼まれてはいたが、日比谷を過保護するつもりは無かった。ほんの少し、挑発する程度に考えていた。だが、それは状況を見て一変。四肢をだらしなく下げて空中に不思議な力で磔にされている日比谷を見た瞬間、これは正気の沙汰ではないと九条は直感的に自分の愚かさを感じたのだ。
目の前のこれが『殺し合い』なのだと。
潤目がミリアを仕留めたときは、敵ながら同情を隠せず吐き気すら催した。由真も隣でやり過ぎなのではないかと言っていたくらいなのだ。死を感じたことの無い九条にとってはそれは劇薬だった。
それでも潤目は冷静に、いや冷徹にミリアが生きていると言う。相手を殺しかけたことに何ら感情を持ち合わせない。その言動にこの男こそ正気ではないと最初こそ思ったが、この場において死を許容できなかった自分のほうが正気ではなかったのだろうかと、今では九条はそう思うようになっていた。
良く、戦いの中で相手を敬う気持ちが無くなれば、その人は単なる殺人鬼ならぬ殺し屋になってしまう。だから、そういう場においても人の心を持っていなければならないと言う。それは確かに必要だ。殺すことに感情を一切持たなくなったらそれは既に化け物だ。
だが逆に考えてみる。『そんなものを持ち合わせていたら、化け物にはなれない』のだと。
あの場において、『人であること』は即ち死を意味した。だから日比谷も自分が人ではなく、守るべきものがある『騎士』として鼓舞し、相手を殺すことに躊躇いを持たなかったのかもしれない。そして何より、『殺されること』への恐怖を放棄したのだ。
つまり『騎士』も化け物だったのだ。
新谷も要塞を守るために死んでいった。その夜はそんなそぶりは少しも見せなかったのに、たった数分後には肉塊の欠片すら残さず光の柱へと消え去った。その時に涙を流せなかったのは、あまりに呆気ない最後のせいか、それとも『狐の仕掛け』という当然の不条理が罪の意識を消したせいなのか、はたまた潤目の無感情さが移ったせいなのかは分からない。憤慨も悲しみも虚空に消えて、その一瞬だけは心が空っぽになった気がしないでもなかった。
けれども人間は良くも悪くも状況に順応する生き物で、日比谷が危ないと言われれば九条はすぐさま気を取り直していたのだ。
「もしかすると、あたしこそ無感情なのかもしれないわね……」
知らずに口から出ていた。
だから、声が返ってきたときに反応できたのかもしれなかった。
「九条は無感情じゃねぇよ。それは、俺が保証する」
日比谷だった。いつの間にか目を覚まして、隣で同じく月夜の風景を達観するように視界に収めていた。
「起きてたのなら言いなさいよ。独り言喋ってたあたしが馬鹿みたいじゃない」
「いや悪いとは思ったんだけどな、なかなか傷心してたみたいだからさ。放っておいたほうがいいんじゃねぇかと」
「……そう。それを言うなら、あんたが一番辛いんじゃないの?」
言われて日比谷は首を上に上げた。まるで、天に昇った新谷を見つめるように。その瞳がどこか虚ろげで、九条はそれが痛くて目を逸らした。
少しだけ笑みを浮かべた日比谷の表情は、空虚に染まりながら語りだす。
「新谷は、良いんだあれで。俺が九条、お前を守るためにこうしているように、新谷は要塞を、3rdエリアを守るためにああしなければならなかった。確かに助けられなかったのかと言われたら口ごもっちまうけど、俺たちは強くない。……強くない人間は、犠牲無しなんかで何かを守れねぇんだ。だから嫌だと首を振っても妥協する。――ま、どちらにせよ政府が攻め込んできた時点で俺らの運命は決まった。どうすることも出来ねぇんだ」
甲冑を着せられた生徒たちは、自我を取り戻した瞬間に戦うことを選んでいた。自分が操られていたことに引け目を感じつつもそれを否定せず、肯定もしない。ただ自分が与えられた任に付き守るのみ。まるで、それが決められていたことのように。
脳裏から湧き出した言葉。九条は自然と口を開いていた。
「運命とは定められた未来。そして、運命は『未来』という名を持っているときには誰にも分からない。『現在』という名を持ったとき、それは必然の名を持って運命となる。ならば、運命に抗ったその行為すら運命と呼ばれるのではないだろうか」
一語一句間違えていない。鮮明に思い出される記憶に、九条の口はつらつらと言葉を並べていく。
「けれども、運命に逆らう方法はある」
日比谷もそれに聞き入っていた。九条が日比谷の方を向いて、あの仮面の男と同じように冷たく言った
。
「運命を、殺すこと。それが最善」
何かを掴んだ、そんな気がした。
日比谷は運命か、と頭の中でその言葉を反芻して噛み締める。
定められているということ、それはつまり現在においては『不確定』なのだ。未来においてたとえ『絶対確定』であるという『確率的問題』を語ったところで、それは誰も知らない未来の話。変えられるのは過去でも現在でもなく、未来だけなのだ。それが定められているということは、言ってしまえば全てが運命に左右されていることになる。
日比谷は自分の行く末を考えた。これが、何らの干渉によって消え去るというのならばそれ以上嬉しいことは無い。けれどもやはり、それは無理なのだと笑って思う。末期ガンを治療して助かる確率と何ら変わりない。
「俺は別に運命なんか信じちゃいねぇ。さっきのは言葉のあやってヤツだ。運命があろうと無かろうと人は八十年も生きれば死ぬし、蝉は一週間も立てば地に帰る。俺らが遭遇している未来ってのは、それと同じなんだよ」
「あたしは……」
それ以上は言わせないと、日比谷が遮る。
「九条は赤い線を手に入れた。絵画が認められる最後の手段は、外との交流。はみ出した赤い絵の具。そして捨てられた模造品は、最後まで製作者を恨んでオリジナルを羨む。俺は、正直に言えば九条が羨ましい」
「だったらこんなものあんたにあげるわ。あたしにこんなものは必要ないもの。死ぬときは皆と一緒が良いわ」
「それは叶わねぇな。俺はお前を守ると誓った騎士。もう、それは過去になった。だから変えられねぇんだよ」
「そんなのあんたの気持ちの問題でしょ?あたしはもういいから」
「そうさ、これは俺の気持ちの問題だ。それに、こうなっちまったからには誰も九条がそれを放棄することを望んじゃいない。だから、九条は最後までそれを守り通せ。それが九条の守るべきものだ」
「……」
九条は言い返せなくなって黙り込んだ。自分がこの任に付いてから、他の情報生命体たちとは違う運命を辿ろうとしていることは確か、そして何より致命的だったのは『守るべきもの』が九条にのみ無いこと。日比谷は九条を、新谷は要塞を、他の生徒たちは同じくしてこの3rdエリアを。九条は、何より守り通さなければならないのが自分だったため、何かを守るという概念がそこには存在していなかった。
それを言われるまで気付かなかったのだ。
自分が守り通さなければならないのは、自分自身。
「馬鹿な話ね、それ」
「そういう人もいるって。それに、自分を大切にするのは悪いことじゃない。結局自分がいなければ守る守らないも存在しねぇんだからさ」
「……それもそうね。なら、あたしは皆の気持ちを優先して自分を大切にすることを誓うわ」
「なら俺の目を見ろ」
日比谷は九条の肩に手を置いた。向き合うように目を合わせ、瞬き一つしないで九条を見つめる。その吸い込まれそうな瞳の奥には、確かに決意の色が灯っていた。嘘による狼狽は無い。固い、とても固い殻に包まれた決意だった。
先に視線を外したのは日比谷のほうだった。その顔を追うように九条が日比谷を見る。
「――何を、迷ってるの?」
図星を突かれ、ますます顔を逸らす。辛そうに歯を砕くほどの強さで噛み締めている。九条は日比谷の頬に手を触れ、こちらに無理矢理向かせた。
泣きそうな潤んだ瞳が、耐えるようにして絶えず吐かれる鼻息が、時折カチカチと鳴る奥歯が、全てが全て憎たらしくて九条は思わず手を上げていた。
パンッ!!
乾いた音が部屋の中に響き渡った。日比谷は何故、という表情で九条を直視した。
「別れが辛いのはっ、……あんたよりもあたしなのよっ!?あんた失うのは守るべきものだけ、あたしが失うのは全てなの!!ねぇ何で泣きそうなのよ!!男なら、騎士なら最後までしっかりとしてなさいよ!!」
今更何だと。
堪えきれなくなった涙は、頬を伝う。それは、日比谷のものであり、九条のものでもあった。九条は自分のそれを拭って立ち上がる。
「もう寝ましょう。明日に備えるんでしょう。あたしも眠いわ」
「……ごめん」
背中で感じる日比谷の吐息が酷く苦しい。九条は半ばそれから逃げるために、日比谷から出来るだけ離れて布団を敷いた。もう振り返るつもりは微塵も無い。今日は、終わるのだから。
誰かがいなくなること。それは、誰かが何かを失う瞬間。
自分がいなくなること。それは、何もかもを失う瞬間。
誰もがいなくなること。それは、全てを失う瞬間。
どれが一番幸せなのかは比べることは出来ないけれど、生きているならばその辛さが分かってしまう。幸せは訪れなくても、辛さも無い死人とは違うのだ。
守るべきものを守れずに死に行く人間がどれほどの無念を残していったのかなんて今更考える必要も無い。無念が残ろうと、それは事実でしかないのだから。過去は変えられない。死んだ人間がどうしたって何も変わらない。
だが、生きているならば話は別だ。守れなかった、守りきれなった無念はいつまでも罪の意識を植え付けて当人を苦しめる。
だから、今更なのだ。
「死にに逝く騎士の言葉なんて、残った人間を苦しめるだけなんだから……」
逃げるようにして布団を被る。冷える深夜に温かな布団の温もりが嬉しくて、聞こえてこない日比谷の声が悲しくて、九条はゆっくりと目を閉じた。