66, 異変(2)
白い砂塵の向こう側に姿を現したのは、お馴染みの戦闘服に身を包んだ眼鏡の男だった。サラリーマンのように整えられた髪の毛が塵ほども揺れずにいる。破砕した壁が信一が強く握る拳のものだと知ったら、春樹は何故か背筋に悪寒が走った。あれに殴られたらどうなるんだろうかと。
「早急に脱出する。疲労が激しいのは分かるが時間がない」
信一がその指を閉じ開きして壁を破壊した際の痛みを緩和している。とは言え表情に苦は無く、準備運動を忘れた後のランニングでもしたかのような余裕。
「こいつは、春樹の仲間か?」
黄金が信一を見て言う。そういえば黄金と白銀は信一とは初対面だったことを思い出した。
「ああ。治安維持機関の統括者でもあり、俺らのリーダー……だな」
言って果たしてそんなものが決まっていたかは知らないが、全指揮は信一にあるので多分そうなんだろうと思う。
「私は面識がありますので。それにしても、先ほどの空間干渉の正体については何か分かりますか」
白銀がこちらに寄ってきて言う。信一はそれを一瞥すると、表情を苦くした。
そこで春樹は、本来の目的のことを思い出し、信一に詰め寄った。
「おい、準はどうした?助け出したのか?」
「……失敗した。いい訳はせん。時間が無かったとは言え、強行突破したのが失敗だった」
「――っ。……ってことは、この強大な空間干渉は、そういうことか?」
「無関係ではない、というよりも当事者だろうが、恐らく白鳥準自身は自分が何をしているのか分かってはいないだろう。利用された、というのが正しいだろうな」
春樹が唇を噛んで、間に合わなかったことへの苛立ちを露にする。
「ふざけやがって。五年前の事件を知っていて、利用するってのかよ」
「向こうにとってはライフさえ手に入れば犠牲など問わないのだろう。こちらはそうはいかんがな」
と、その信一の何気ない言葉に春樹は違和感を覚えた。
準が利用された、ということに関しては準がさらわれた時から予想は付いていた。何しろ彼女の正体は、あまりに危険すぎるものだからだ。だが、それは所詮『力』でしか無く、それと九条美香留のどこに関連性があるというのか。まさか準を利用して力ずくで奪うなどという小学生でも考え付くような思考は政府にはあるまい。
ここで白銀が春樹と信一の会話を聞いていて、横から口を挟んだ。
「白鳥準さん。彼女は一体何者なのです?先ほどからまるで危険物でも扱うような言葉選びで」
それに一時信一は春樹の疑問を気付きつつも放置して、白銀に向き直る。春樹もそれにはもう別に隠す必要は無いだろうと、信一を止めはしなかった。
「貴様も政府の人間であるならば聞き覚えがあるだろう。四年前のサークルエリア強襲事件。今の6thエリア、元1stエリアがことごとく破壊された事件であり、サークルエリア都市化計画以降最悪の事件だ」
それで白銀はいくつか飛躍して想像したのか、まさか、と推測を口にする。
「確か、あの事件の加害者の名前が……シラトリでは無かったですか?」
ピースが埋まる。
その感覚に、激しく白銀は鳥肌を立てた。それに対して信一が頷いたとき、確証となって電撃が走った。
あの元気っ子が、以前サークルエリアの一つを壊滅状態にした張本人だったなどとは、いくら想像力の凄い人間でも思いつかない。そのような雰囲気など、肉眼で見えぬほどに分割されたものよりも感じない。いや、それよりもむしろそんな人間が日常を過ごし、こうして春樹や信一と共に任務をしていることが既に疑問だった。
――否、答えは至極簡単だ。
事件の概要を思い出してみれば良い話だった。
それを信一が直接口にした。
「奴は最終的には私と武藤春樹を加えた何百人もの傭兵と政府の兵士によって抑えられた。そして、監獄しても危険性が高いと判決が下されたため、人格封印などの処置を持って、治安維持機関に保護された。その後は私が監視役になっていたのだが……」
ここで春樹がため息を吐いて言う。
「何を血迷ったのか、俺を見た瞬間抱きついてきやがってな、離れないんだよ」
それには白銀も口をあんぐりと開けた。なんとも事件とは似つかない滑稽な行動に驚きを隠せなかった。
「恐らく反動形勢、つまり、春樹が最終的にはシラトリの操作性の式を全て打ち破って奴を気絶させたのだが、恐らくその怒りが人格封印と共に逆性してしまったのだろうと私は睨んでいる」
「ぶっちゃけ俺には何が何だか分からなかったけれどな。事実はそういうことらしい」
何が何だか分からない。
自分で言っていて、またか、と思う。シラトリとの戦いは、正直途中までは激戦であってもしっかりとした記憶があるのだが、信一の言うとおりあの凄まじい操作性の式を掻い潜っていたのかと聞かれれば、頭を抱えてしまう。結果的には、やはりどこか欠落したようだ。
黄金も白銀も、その含みのある言い方に不信感を覚えたのか首を少しだけかしげていた。
「まぁそれは今は良い。奴は後に救出する。政府の手に下ったのではうかつに手は出せんからな。それよりも早くここを脱出する。これ以上空間干渉の副作用を受けていては、冗談抜きに衰弱死するやもしれんからな」
それには三人とも頷いた。既に激しい倦怠感と気だるさに精神がやられていると言っても過言ではない。体力も相当消費しているため、もはやこれ以上ここに留まっては脱出出来る経路が見つかったとしても、そこまでたどり着けないなんて馬鹿みたいな事態に陥る可能性があった。
信一を先頭に、破壊された壁を潜り抜けて砂塵の向こう側に顔を出す。確かここは一番奥にある監獄施設で、その前には潤目と仮面の男が戦闘を繰り広げたと思われる踊り場がある。灰色に焼け焦げた空間があり、鼻腔を決して香ばしいとは言えない臭いが刺激したはずだ。
……が、それは『そこ』ではなかった。
春樹は言葉を失った。
それはまるで西洋貴族のお屋敷のエントランスホール。煌びやかな装飾こそされていないものの、巨大な空間はダンスパーティーを開くために建設された娯楽のための無駄な広さをかもしだしている。円形の床に、先ほどの踊り場など面影すらないほどの殺伐とした風景。天井の 高さだけは変わっていないようだった。
明らかなことは、ここは先ほど春樹たちがいたところではないということだけ。研究施設などという固有名詞は闇に消え、何か別のものがそこには存在している。
「――オベリスク」
信一が重そうな口を開いた。聞きなれない言葉が三人の耳に響き、それが何を意味するのかなど説明無しでは分かるはずも無かった。
「城であるこの空間は元は『中央大学園施設』という名の『要塞』。狐の仕掛けとやらで難攻不落を貫いてきた要塞だが……それも今や政府の手に落ちた」
信一は語るような口調で話し、『地下一階だったはずの空間』から扉を見つけ、それを開く。
「オベリスクとは守護や保護を表し、つまりは大名を守る城と何ら変わりは無い。つまり、武藤春樹、ここには何があるか分かるか?」
扉に手をかけたままで、信一はそう春樹に問うてきた。
要塞は城を守り、狐はそれを化かして二重の防衛線をさらに強固なものとした。人々は要塞を、要塞は城を、ならば城が守るものとは、つまりその中で最も重要なものや人。この状況において大切なものとは何か。
政府が狙う、大切なものとは――一つしかないではないか。
「……馬鹿なこと言うなよ。あれは、『九条美香留』と結合してるんじゃなかったのか?」
その春樹の推測に、黄金が口を挟んだ。
「おいおい、てめぇ何かすげぇ勘違いしてねぇか?九条美香留は昔っからライフを取り込んで」
が、二人の反論を信一は振り返りもしないで、ばっさりと切り捨てる。
「それが、『狐の仕掛け』だとしたらどうする」
「……まさか『ライフ』まで化けたってのかよ」
「出なければ何故オベリスクなどというものがある。ライフを守ってこその城だ。九条美香留がライフを取り込んでいるという話は、狐の仕掛けの中で最も簡単な仕掛けだ。少し考えれば分かることだからな」
白いものが頭蓋の奥を覆った。
有り得ない。という感想しか持てなかった。
春樹の頭の中では、自らの待遇に苦しむ九条の姿があった。それが、嘘だといわれた今、一体どのような反応を彼女に示せば良いのだろうかと必死に悩む。
いや、それ以前に確かめなければならないことがあった。
期待するような、苦悩を微笑で隠したような複雑な表情で問う。
「それを、九条は知ってるのか?」
聞いておいて後悔した。望んだ答えが帰ってこなければ、春樹は欺かれたことになる。敵を欺くにはまず味方からというが、それはあまりに味方にとって残酷な判断だと思う。信用した人物が、相手を欺くためといえども裏切るのだから。
「無論、知っている」
その言葉を聞いた瞬間、春樹は奥歯でガリッと音を立てた。悔しさでもあり、悲しさでもあった。そして何より、怒りが先行する。しかしその激怒も、数秒後にはどうでもよくなって、空虚な感情だけが胸を支配していた。
(どうでもいい。いや、ライフが九条の中に無いなら、むしろ狙われなくていいじゃん)
それでも、春樹の中では何かが引っかかっていた。
「外に出る。白銀とやらから聞いたと思うが、空間干渉が激しく行われたため、地下が無くなって繰り上がりでここが一階だ。だが、正直外の様子までは分からん。心しておけ」
信一が春樹の思考を寸断して言う。
四人とも息を呑んだ。信一が扉に手をかけ、ゆっくりとスライドさせた。
――光が、目に写ったのだろうか。
『光』という概念は明るく何かの良い未来を指し示すような言葉だ。つまり、人々にとってそれが良い傾向であったり、現在において希望の持てるものだったりする。
しかし忘れてはならない。それはファンタジーの世界における観念であり、光とは日の光や電気の光以外の何ものでもないのだから。単なる電磁波の一種でしかないことを。
光は確かに目に写ったが、その光景が『光』などという綺麗な言葉を並べて表せるものかと四人に問えば、皆してそれは違う、と答えるだろう。
惨劇だった。
地面にいらなくなった玩具のように転がっている犬。人間では出せないような色の血を吐き、アスファルトを狂気に染めていた。それだけではない、人も同じくして転がっている。無残に首を噛み千切られ、白目を剥いて動かなくなっている人形。等身大の人形など誰も使わないだろう。
そこは確かに中央大学園施設の校門前のはずだった。いや、あの扉から出てここにたどり着いた経路が全く理解できないが、何度か見ている光景と一致する。そこに介在した幾つもの死体は、春樹たちに確かな危機感を伝えていた。
だが、その中でも一番衝撃を受けていたのは信一だった。一人の兵士を抱き起こし、顎に力を入れていた。
「武藤春樹。この兵士の格好に見覚えは無いか……?」
言われて恐る恐る春樹は近づく。重装備とも言える防弾チョッキに重火器、頭蓋を守るヘルメットに完全に黒い色彩。一般的な兵士のスタイルだ。どれもこれも破損している。
信一はいつまで経っても答えを口にしない春樹に苛立ち、おもむろに兵士の服の一部分を引き破って春樹に差し出した。それを手に取り、凝視する。
「――はっ?」
思わずそんな間抜けな声が春樹から出る。白銀や黄金には分からないようだったが、春樹には確かに見覚えがあった。いや、見覚えがあるなんてレベルではない。
「これは、治安維持機関の紋章、じゃないのか?」
「……その通りだ」
信一が悔しそうな面持ちで、兵士を地面に降ろした。黙祷を捧げるように数秒手を合わせ、割り切ったようにそれから視線を外す。
治安維持機関がここにいるという意味。それが一体どういうことなのか、春樹には容易に想像することが出来ない。今こうしてその治安維持機関である信一が目の前にいるせいなのかもしれないが、記憶を正しく巡るならば治安維持機関はそれ以外に機能していないはず。
「治安維持機関は確かに政府からは半ば独立している機関ではあるが、所詮はSAMO、総合区域管理機構の管轄下だ。そしてそのSAMOは紛れも無い政府の管理下にある。恐らく、手が回ったな」
「つまり、こいつらは、俺らの味方じゃなくて政府に利用されちまったってことか?」
「利用ではないだろう。圧力を掛けられて強制的に、いや、もしかしたら自ら望んでここに赴いた奴もいるかもしれん。何にせよ、1stエリアが危機にさらされていることは間違いないな」
「冗談だろ……」
外した信一とは逆に、春樹はその兵士を見る。死に絶えているだろうそれが、一体どんな思いで戦ったのかは知らないが、雰囲気から何故か望んでいなかったような気がする。偽善的な考えかもしれなかったが、そうでもしなければ報われない。
……まてよ。
瞬間、春樹の脳内がドライアイスで冷やされたように冷却化される。目頭から上が春樹自身でもわかるくらいに冷たい。
この兵士の惨状を見る。首を噛み千切られ、無残にもこれ以上出血しないだろう量を地面に吐き出している。そして服装は治安維持機関。考えるべき点はどこか。
犬だ。
この犬は何だ。と、そう問いを投げかければ、春樹の中ではたった一つの結論にしか当てはまらない。良く見ればその犬にも見覚えがあり、垂れる舌からは信じられないような唾液の量。大好物を目の前にしたってこんな量は生物の機能的に有り得ない。
ミリア・ヴァンレットの名前がまず浮かぶ。彼女が3rdエリアに来ていることは昨日の準誘拐によって分かっている。一体いつあんな表舞台に侵入していたのかは定かではないが、2ndエリアから狂犬病に感染した生物たちを持ってきたと考えるのが妥当。
……だとすれば、何故『兵士と狂犬が争う』?
と、そこまで『自動的』に思考が進んだところで、信一が指示するように言った。
「情報課に逃げ込む。あそこは特殊な結界式が張ってあるからな」
それに春樹が勢いよく信一に振り向いた。
「情報課?俺、そこ行ったことあるけれどそんなものは……」
「特殊と言っただろう。意思を持ってそこに入ろうとすれば入れるのだが、意思を持たずに近づくと意欲剥奪が働く。しかし、貴様あそこに寄ったのか」
「日比谷と一緒にな。何かそんなすげぇ場所には見えなかったけど」
「意欲剥奪が施されているのだから当然だろう。外見も質素に見せ、出来るだけその存在を表に出したくないということだ」
考えてみれば確かな話だ。
情報課、というのだからあれだけボロい外見をしていても、何らかの情報を管理しているに違いは無い。それが重要にせよそうでないにせよ、奪われて良いことは無い。だが、それではもっと隠すべき場所があるのではないかと疑問にも思う。
春樹が行った場所で言えば、例えば裏路地のあの不自然についていた研究施設への扉。あれこそまさに結界式でも張っておくべきものではないのだろうか。それとも、そこまで重要ではなかったということか。
すると、情報課は一体何を……?
「白銀黄金も共に来い。貴様らはもう政府に従順するつもりはないだろう?」
二人に話を持っていく。
黄金と白銀は一度顔を見合わせ、黄金が口を開いた。
「元々従順してたわけじゃねぇ。俺が情報生命体で、奴らが薬を持っていた。それだけの話で仕方なく命令に従ってただけだ。ま、白銀には迷惑かけっぱなしだがな」
「迷惑はしてませんが……。とりあえず協力は惜しみません。向こうにこちらの仇敵もいるようですし」
それに信一が満足したように頷き、先頭に立って歩き出した。
「一日だけ休養を取る。恐らく今日中はこの有様だ、手は出さないだろう。我々も衰弱が激しい。しっかり休んでおけ」
後ろに続く三人は頷く。確かに満身創痍疲労困憊で、戦えるような状況ではない。今だけそれに反論することも無く、信一の心遣いに感謝した。
白銀が空を見上げた。姿を思い浮かべるは、まさに隣にいる黄金と同じ姿の仇敵。禍々しい黒い槍を持つ彼は、他でもない『白銀の兄』なのだ。
白銀は思う。
――兄は二人いらない、と。