59, 要塞を守る者(1)
淡い月明かりだけがそこを照らす光となっていた。出窓から覗くお月様は、人造物と言えどもその輝きは美麗という言葉に匹敵する。
絵画がそこにあった。その絵画は心を持っていた。
しかし絵画はある有名作品を模されて作られたものだった。画家はそれでもその絵画を大切に扱ったが、それを評価する偉人、評論家、一般人までもがそれを『偽物』だと酷評した。いや、酷評などと生易しいものではなく、それは『一つの作品』として認められない『贋作』として扱われると同時に人の唾を浴びる対象となった。
絵画は偽物と扱われることに関しては、特に興味を持たなかった。何故なら、それは分かりきっていることだから。
ふと見ればどうだろう。唾を吐きかける人々が目を輝かせて見ているのは自分と似た姿の絵画。素人から見れば、それは自分と変わりないんじゃないかと思うほど、似た姿。
けれども絵画も画家も分かっている。あの姿には、絵画は到底及ばないのだと。
「でも、君は僕にとって二つと無い素晴らしい『作品』だよ」
ある日画家はそう絵画に向かって言った。
それは絵画にとって心を揺さぶられるとてもとても嬉しい言葉だった。
しかし現実は厳しかった。
絵画が認められるのは、画家にだけ。他のどこに行こうと、あまりに有名すぎるその贋作は一見されただけで虐げられ、画家はそれに苦笑いで返すだけだった。
そのうち、絵画は自分がダメなものなんじゃないかって、自虐に陥ってきた。画家は何度も慰めたが、絵画は一向に元気を出さない。
これでは絵画がどんどん錆びれ廃れてしまうと心配した画家は、なんとかならないものかと必死で考えた。
考えて、考えて、考えた結果。
画家は、一本の絵の具を手に取った。
それは紅かった。マゼンタと呼ばれる絵の具に置いての三原色の一つ。赤。
それを画家は絵画に一線、ただ一線だけ筆入れして、すぐにその筆を洗ってしまった。
線は中心から横に、絵画をはみ出すような勢いで描かれた乱雑な痕。
「これで君は新しい作品に生まれ変わった。その赤い絆を忘れないで欲しい。それは君がオリジナルである証拠になるから」
そうして絵画は新たな作品となって、世に出された。
絵画は一躍有名になり、他に例を見ない人気を得たという。
―――という童話が、日比谷の頭によぎった。
これは情報生命体ならば誰もが知っている童話だった。一体どこの誰が考え付いたのかは知らないが、物心ついたときにはこの童話を口ずさんでいるほど有名なものだった。
何を意味するのかは知らないが、自分自身が『作り物』であるのだからどうしても他では無いような気がしてならない。
こうして眩しいくらいに輝く月の光も、童話の主人公と同じ『贋作』なのだから。
情報生命体たちの大抵はこの童話を研究していたりしていた。これは外界などには無い童話で、つまるところこの3rdエリアで作られた話なのだと判明したからだ。
日比谷も一時期それが何を意味するか調べてみたことがあったが、終わりの無い問いの迷路に迷い込んだような気分になり、結局何も分からずじまいで諦めた過去がある。とは言え、日比谷の知る中では童話を正しく解釈できたものなどいない。
身体を一閃し、血がそのように飛ぶと人間になれるとか、人の血をそのように塗れば良いとか、何か赤い原石から採取したものを塗れば、など数えたらきりが無い。
だが日比谷もあながちそれが迷信だと思ってもいなかった。
それは肉体的なものではないにしろ、人から認められる方法があるのだと期待を寄せている自分がいることを知っていた。
ふと、自分の横で寝息を立てている九条を見た。
新谷が由真と会話を望んだのは、確かなようだが恐らくは九条と二人にする陰謀があったように思う。しかし、当の彼女がこれでは全くの無意味だ。
月光に照らされた白い頬は、やはり日比谷を魅了した。
少し濡れた唇も、はだけた衣服から除く四肢も、艶やかに床に広がる髪も、全部が全部抱きしめたい衝動に駆られる。
けれども日比谷は月を見る。
―――月は、時々闇に遮られている。
その理由を知っている日比谷は、それでも月を見た。
「なぁ、俺はお前が羨ましいよ、美香留・・・」
愛しい人の名を呟いた。月は答えることも無く、ただ夜を照らすだけに徹して輝いている。
日比谷は膝にかけていた布団を剥ぐと、壁に立てかけてあった銅の剣を手に取った。
それは光を反射せず、醜い錆を浮かせるだけで魅力も何も感じさせないただの刃。けれども日比谷はそれをこう呼んだ。
「てめぇもそう思うだろ?『騎士』さんよ」
微笑してそう呼びかけるが、無論生を持たない刃はやはり佇むだけ。
「ははっ。ナイトは俺だったか。いや、てめぇもか」
剣を一度振るう。
風が凪ぐ音が軽快に響いただけで、剣閃も見えなければ衝撃波が発生するわけでもない。
「十分。やる気があれば、それで勝率は上がるってもんだ」
今度はニヤリと笑みを漏らして、剣を床に突き立てる。一階の天井がどうなったか気になったが、後の祭りだと割り切った。
九条をもう一度目に焼き付けるようにして視界に閉じ込める。自然と表情が綻ぶのが分かった。彼女の寝顔は、今まで見てきた表情の中で一番美しかった。
綻んで、
緩んで、
ふっ、と声を漏らして、
頬を暖かいものが伝っていったのを日比谷は知った。
「ふっ、くぅ・・・ぁ」
突然のことに日比谷自身が驚いた。
何故こんな嗚咽を漏らしているのか自分でも分からなかった。ただ、安心しきった九条の顔を見ていたら、そんな気分になった。ただそれだけのことだと。
守るべきものは守れたのだろうかという問いと、確かではない答えを貰えたことへの怒りと安堵。溢れ出す想いは、涙となって日比谷の顔を濡らす。
後方の階段から靴音が響いた。
時計の針は既に二を刺しており、深夜のこの時間に、そして今この状況で上がってくる人物は一人しかいない。服の裾で悲しみの塩水をふき取っておいた。
振り返らずとも、向こうから声をかけてくる。
「日比谷君。君も気付いていたのかい?」
良く知った友の声だった。
「・・・つい数時間前な。あの王女様はどうした」
「異変が起きた数分前に寝静まったよ。なんともタイミングの良い話だ」
「そうか。・・・で、間違い無いんだよな?」
「間違いない。餌にかかった超巨大なネズミがいるみたいだね」
その比喩に日比谷は笑った。
「タイミング良いってのは、ちょうど九条と王女様がここにいるって意味だよな?」
笑い声は刹那に帰り、険悪な声がその場を緊迫で満たす。
新谷もそれに負けず劣らず沈んだ声で答えた。
「どうせ付けて来たんだろう。意思を持ってここに来ようとすれば、意欲剥奪は薄くなる。悪い話だけど、あの王女様を少し恨みたい気分だよ」
日比谷は剣を床から引き抜いて、そうだな、と答えた後、でもと続けた。
「九条を助けてくれたことには礼を言わねぇと。折角『運命』から逃れられたんだ。こいつには普通の生活をしてもらいたい」
聖母のような、本当に優しい瞳で九条を見つめている。熱く、切なく、濡れた目が訴えるように。
新谷は日比谷に背を向け、上がってきた階段に足をかけた。
「未練があるなら済ませておくと良いよ。僕は客人へのおもてなしを用意してくるから、終わったら降りてきてくれ」
日比谷は聞こえていたが答えなかった。新谷はそのまま何も言わず、階段を降りる靴音を残してそこを去っていった。
内心新谷も辛いのだと日比谷は悟る。つい数時間前まで楽しげにトランプをしていた自分たちが、まさかこの月夜の下にて涙を流さねばならない時が来るとは誰も思いもしない。
されどもそれは覚悟の内。
この世界に生を受けたその日から決まっていた悲しい性。
存在を認められない人造物の運命。
だから日比谷は目の前の少女を守ろうと、数日前に決めた。悲劇の舞台から外された幸運の少女に決して災いが降りかからぬようにと。
日比谷は九条の前にひざまずいた。眠る彼女の手を取り、頭を下げた。
誰がその光景を懺悔とか、謝罪とかに見間違うだろうか。
それは小さな告白だった。
(ずっと、ずっと・・・好きでした)
口には出さない秘めた思い。
決して実らない『騎士』と『姫』の儚い恋。
あまりに遠く、手を伸ばすのも疲れてしまいそうな距離を置いた決意。
最初は幸運だと思った。近づくことすら出来ない姫の傍にいられるのなら、それが降りかかる災いを身に受ける役目だとしても。
九条が保護下に置かれると知ったとき、日比谷は誰よりも早くその護衛の役を買って出た。想いのせいでもあるが、何よりも避けられない運命を避けたただ一人の『仲間』を守りたかったためでもあった。
だから騎士であると割り切って、姫に想いを告げない。
それでも日比谷の想いは、自身の脳内で何度も反芻するように溢れ出す。
(本当に、本当に・・・好きでした)
指が震えているのが分かった。
頬を伝う涙の量が増したのが分かった。
自分には聞こえないように、都合よく出来た嗚咽が漏れていることが分かった。
愛しい人は、眠ったままだと安心した。
最後まで守りきれるのだと、安堵した。
―――そして一瞬、外から殺気を感じたのを悟った。
ぼやけた視界で窓を睨みつけた。
赤い。遮られた月光の変わりに、鋭く差し込む赤い何かがそこに存在していた。
日比谷の存在を確認した赤い何かは、すぐに離れて行き、窓の明るさを再び取り戻させた。
「なんなんだろうな、この急展開は。もっとトランプで遊んどきゃ良かった」
日比谷は悩んだ末、九条の身体を抱き上げた。
そして一瞬だけ、本当に残り熱も残らないほどの時間だけ九条を胸の中に収めて、すぐに離した。さらりと抜けていったポニーテールが酷く心残りになる。
その胸には変わりに冷たい剣が収まる。
『騎士』が持つべきものは温もりでなく、刃。
『日比谷』が持つべきものは愛情ではなく、覚悟。
「行ってきます、『姫』」
日比谷は銅の剣を手に、階段を降りていった。
「未練は無くなったかい?」
一階に降りると新谷が機械を慌しくいじっていた。それに、彼の学生服の腰の部分に銃器がさがっていた。
「無くなるわけねぇだろ。言っておくがな、俺はマジだったんだぜ?」
新谷の後ろに立ち、頭の後ろで腕を組んで椅子に腰掛ける。
机には何やら文字が隙間無く埋められた設計図のような紙が広げてあり、良く見ればこの部屋と同じ構成をしていることに気付いた。
「そうだねぇ。ま、ここまで来たらどうしようもないけど」
もう全て諦めきったような、突き放すような言葉でそう言った。手だけは忙しなく動いている。
要塞が機能を果たすときが来たのだった。
それはやはり日比谷と同じように、『作られたものの末路』。
けれども思う。要塞は運命から逃れられるのではないかと。自分の役目を終えたら、自由だ。
自然と日比谷は語りかけるように、自分自身を孕んだ要塞に思いを巡らせた。
(お疲れさん。お前も俺もここで役目は終わるはずだ。どうせ城は落とされる。最後の悪あがきといこうぜ)
その思いに答えるように、部屋が突然唸りを上げた。小さくも身体の芯まで響く、要塞の咆哮。新谷が機械から離れ、床で布団を被って寝息を立てる由真を抱き上げた。
そのまま安全だと思われる隅の方に追いやって、布団をかけ直してやる。
「日比谷君」
新谷が振り返って、微笑を浮かべたまま名前を呼んだ。
「んあ?」
「僕はもう一度、こうして日比谷君とここでお茶を啜りながら他愛の無い話をすることが出来るかな?」
「・・・・・・出来るんじゃねぇの。頑張り次第によっては、な」
そうか、と新谷は日比谷の答えに頷いて、数歩だけ近寄ってきた。日比谷も椅子から飛び降り、新谷へと近づく。二人は寸前の所まで近づくと、握手を交わした。
「君も僕も嫌な役職に任命されたものだね」
「俺はなかなか楽しかったぜ?新谷との付き合いも長げぇし、何より美香留の傍にいれたからな」
「そうだね、僕も何気に楽しませてもらったよ。要塞の番人に就任してからは、偽装工作に毎日が突風のようだったからね」
「そいつはひでぇ人生だ。せめて、来世には幸運が巡ってくると信じてろ。もしくは・・・朝日が昇った後とかな」
「来世か。それは期待できそうだね」
笑いあう二人はまるで兄弟のようで、親友。
今ここに在るは『騎士』と『要塞』。
どちらも守るべきもののために自らが生を消費し、そのために戦い、そのために死ぬ。
何故ならそれが3rdエリアに生まれた彼らの運命だから。
狐の住む都は、案外地獄のような所だな、と日比谷は思った。
「さて、真っ赤な世界に飛び立とうか」
閉ざされていた要塞の扉が、新谷の手によって開かれる。