56, 第一号情報生命体(2)
悲鳴は断続的に続いている。それを聞くたびに信一の胸は痛んだ。
これは油断していた自分への罪であり罰。受け止めることも大切だが、今の信一にはその痛みで歩を緩めることは許されない。よって、断罪の罪悪感は無視し続けた。
声を追っていると、一際頑丈な造りの、やはり白い扉が出現した。声の主は、ここにいる。
突撃するのは得策ではない。信一は扉に張り付くと、聞き耳を立てた。
「・・・が・・・いう・・・だ」
かすかな話し声は聞こえるが、聞き取るには程遠い。悲鳴ほどの声量があれば聞こえるようだが、まさかそんな話し声を出すとは思わない。
しかし信一が聞き耳を立てたのは、会話の内容を知るためではなかった。
(一人、二人・・・十は覚悟しておいたほうがいいか)
声質で、研究員の数を計算していた。非戦闘員である研究者と言えども数がかさばれば相応の実力になる。重火器など使われたらひとたまりもないということだ。
悲鳴が止まった。
それは何を意味するかすぐに理解する。信一は、もはや時間をかけている暇は無いと、貼り付けていた身体を扉から離し、一定の距離を取る。拳にナックルをはめ、指を動かして準備運動を済ませておく。
拳に力を込めた。血管が浮き出てきたのがナックルの上からでも分かる。
次に懐からペンを取り出した。それを扉に走らせる。蛇がうねるような文字と記号がつらつらと並べられていき、一つの式と化した。
「『脆化』」
言葉にした直後、扉に異変が見られる前に信一は突っ込んだ。扉はまだ扉の形をしたままだ が、信一は構わずそれに拳を叩き付けた。
拳に衝撃は無かった。変わりに砂塵が空気と交じり合い、同時に扉はその形を失った。
脆化。
つまりは腐敗と弱体化を司る式。対象とする物体によってその効果は異なるため、かなり上級の式である。
脆性となった強固な扉は、あまりにも無残に散り行く。そしてその残骸は空中を舞い、視界の遮りとして信一を味方した。
「動くな!!」
言ったのは、研究員だった。
砂塵が味方したのは本当に信一だったのか。確かに相手から信一は見えなかったが、信一からも相手は見えない。無警戒に近づいたのが運の尽きだった。
次第に視界が広がっていく。信一の手には、突撃と同時に引き抜いた拳銃。銃口は光を反射して殺意を煌かせる。
だが、それに対抗するは・・・。
「武器を捨て、手を上げろ。従えば命は救う」
十人?何を侮ってそんな想定をしてしまったのか。
目の前に広がるのは銃器の花畑。つぼみの状態の花々は、その引き金を引いた瞬間に開花する脅迫の毒花。息一つで花粉を吸い込んで死に至る、そんな状況。
だから信一は武器を落とし、手を頭上に上げた。
「ちっ。研究員がこれだけの数が揃っていたとは想定外だった」
十で収まりきるわけも無く、そこにいたのは五十は軽くいる。全員がライフルを構えて、まるで信一の登場を待っていたように歓迎の銃口が向けられる。
「君がここに来ることは、既に神堂様からの報告があり確認済みだった。残念だったな」
「想定していたというのか?私がここに来ることを?ふむ・・・まぁ分からんでもないな」
パッと見、顔を知っている研究員はいない。
いや、むしろもっと前から疑うべきだったのだ。
「今まで研究施設に研究員がいなかったのはこのためか?」
書類や薬品が無造作に置き捨てられ、廃屋と化していたといっても過言ではなかった研究施設。その正体はこれだということ。
最初からここに集まり、準の到着を待っていた。そして準をここに連れてくるために、信一達の行動を滑らかなものにするために、研究員を配置していなかった。
(してやられたか)
心の中で舌打ちをする。
「我々も最初はそんなに上手く行くかと心配していたが、まさかここまで予想通りになるとはむしろ驚きだ」
信一は言葉を無視した。悔しさが無いかと問われれば、当然こんな餓鬼でも出来そうな稚拙な行動原理にやられたことは苛立たしい。
だが、視線の先にいる友の姿を確認すれば、そんなことは関係が無くなる。
「し、信・・・ちゃん」
酷く衰弱していた。目が虚ろに右往左往しており、信一の姿を捉えているかどうかも疑わしい。だが、声は確かに信一に向けられたものだった。
衣服を荒らされた形跡は無いが、磔にされている姿を見ると、自然と怒りが湧き上がってきた。
「貴様ら。白鳥準に何をした」
野太い声で、最大の脅迫を込めて言い放つ。
だが、完全包囲した向こうにとってはそんなものは犬の遠吠えにしかならない。相変わらず銃口は向けられたまま、研究員のリーダー格の人間が言う。
「少し注射を打っただけだ。何も心配することは無い」
「何を注射した」
「・・・それを問うのは自滅だとは思わないか?どうせ君はここで捕縛される。それで何かを知ってからでは・・・あまりに酷というものではないか?」
「それは何かをするということを物語っていたと、貴様は気付かなかったのか?」
「あぁ、これは口が滑ったな」
何でも無いように軽々しく研究員は答える。その態度が信一の堪忍袋の緒に亀裂を入れるが、ここで戦闘を持ちかけたところでこちらに正気は皆無に等しい。
準を見た。今やその美しいと言っても過言ではなかった黒い長髪は、いじられたせいか纏まりの無い箒のようなものになっていた。
「貴様らは何をしようとしている。白鳥準は政府の計画には関係の無いはずだ」
「それは知らない。我々は神堂様の指示に従っているだけだからな」
嘘をついているようには見えなかった。
ならば、と思って更に問い続ける。
「白鳥準が、何者かも知らされていないと・・・?」
それを聞いた研究者たちはざわめき始めた。
どういうことだ。何者かだと?神堂様はなんと言っていたか。この女に意味などないだろう。危険性はないのか。そういえばおかしいことはなかったか。
憶測と見解と予想と不安が飛び交った。
しかし声が行き場をなくした鳥のように行き交う中、リーダー格の研究員だけは依然として冷静に事態を見ていた。
そして、突然一喝した。
「その男を監獄施設へ連行しろ。それと口を塞いでおけ」
「何っ?」
目を見開いてその研究員の言動を探るが、理解できない。何を思って・・・。
研究員たちの行動は統括されていた。リーダー格の男が言うと、すぐさま信一を取り囲む。
「貴様!?どういう経路からその判断に落ち着いた!」
「簡単なことだ。もし君が彼女が危険だという証拠でも口走れば、我々に一筋の迷いが生じてしまう可能性がある。ならば、それを聞かなければいい」
「馬鹿な。そうだと分かっているならば―――くっ」
言い終わる前に、研究員が信一の腕を縛り、口にテープを張ってきた。
蹴飛ばそうかとも考えたが、数が数だった。周りには十人ほどの研究員が囲んでおり、むしろ身じろぎ一つするのにもスペースが足りない。しかも腕が縛られて、十分に威力を付けられないでいる。
もがくのも諦め、そのまま成されるがままになる。
「諦めたか?なら、そのままじっとしていてくれると有難いぞ」
研究員が手に持ったのは、小さな四角い機械。
(スタンガンか。不意打ちで打たれるのはいいが、こうして目の前でやられるのとはまた一味違うな・・・)
苦笑いを見せるが、心身共に余裕は無い。
研究員たちが被害を被らないように、少しだけ距離を置いた。・・・が、それが余裕を生む。
それは下から昇った蹴りだった。
「なにっ!?」
研究員のもっていたスタンガンを空中高くに蹴り上げ、それを目で追った瞬間に距離を詰めて腹部にかかとを叩き込む。
「がぁ・・・」
苦悶の声を漏らす研究員を横目に、落ちてくるスタンガンをさらに遠くに蹴り飛ばした。手の届かないところに追いやるのが目的だったが、蹴りの威力が強すぎて途中で分解してしまう。
しかし、合間を作らず他の研究員たちが襲い掛かってきた。その手にはライフルは握られておらず、変わりに信一の表情を濁らせるものが。
「貴様ら、スタンガンは常用装備か?」
そこには一つの旋風が踊っていた。
身体の回転を最大限に利用し、蹴りを放つ信一。それはまるで踊り狂うカポエラの達人。下段中段上段を使い分け、研究員たちの足を折り、腹を抉り、顔面を砕く。
しかし、旋風とは風。風はいつだって気まぐれだった。そして、それは必ず終わりの来るささやかなそよ風。
信一の動きはまるで神風のようだったが、身体が拘束されているためか動きについていけず、筋肉が悲鳴を上げ始めた。
その表情を研究員は見逃さなかった。スタンガンのスイッチを入れたかと思えば、そのまま蹴りを覚悟して特攻してくる。
「うぁぁぁぁ!!」
精一杯の威勢だったのだろうが、それは信一にとっては脅威。まだ警戒して慎重にしてくれたほうが良かったのだ。
策略を練る人間にとって、最も脅威なのは単純な行動原理。先を読む人間にとって素人の手は読めない先の一歩先へとある。
かわす術は、なかった。
バチンッ!!
「がっ!?」
脳内に電撃が走った。目の前が一瞬真っ白になったかと思えば、数秒もせず意識が暗闇へと誘われていく。身体が激しく痙攣したかと思えば、知らぬ間には自由が利かなくなる。
光景が壁や床の色と同化していき、次第に何がなんだか分からなくなった。
(く、そ。オベリ・・・スクの・・・再建、は・・・)
最後に見た光景は、再び悲鳴を上げた準の姿だった。
―――
「準備にはあとどれくらいかかる」
研究員の一人が、準に注射を刺している。準は既に気絶して、言葉を発することも無い。
「明日には恐らく全て整うかと。今日中に全ての情報を打ち込んで、体力の回復をしたところで起動すれば、失敗の可能性も大幅に減少します」
「今日は休ませたほうが良いと。まぁ、あれの建設には相当の知力を使うだろうからな」
「はい。それに、情報を打ち込んだばかりなので、脳内での整理が追いつかない可能性もありますし、確実なのは明日ですね」
「分かった。そのまま作業を続けてくれ」
「了解です」
研究員は準を見た。
このようなまだ若いものが、悲劇にさらされるのを見るのは正直良い気分ではない。
―――それは、普通の人間だったらの話。
研究員がふと手にしたのは、ある幸せな家族が写った写真。もう、写真の中にしか存在しない家族の欠片。
『白鳥準が、何者かも知らされていないと?』
彼はそう問うてきた。
当然知らされてなどいない。しかし、研究員は準を知っている。この顔を忘れるわけも無かった。
神堂は言った。
『貴様が憎んでいるのは惨劇を舞うハクチョウだ。ならば、それが羽ばたくときにこそ報復は出来ると思わないかね?私もちょうどあの渡り鳥を利用したいと思っていたところなのだよ』
彼の意図は分からないが、研究員にとって相手の目的などどうでも良かった。オベリスク建設など眼中には無い。
写真を大切に、内ポケットにしまった。