46, 大脱走劇と狐(4)
潤目に後を任せた春樹一行は、足取り重く先を急いでいた。
とにかく衰弱の激しい三人は、階段を上がるのも一苦労、走るなどもってのほかだった。唯一黄金だけはピンピンして春樹を先導していたが、その後ろから来る九条がとにかく遅い。恐らく体力が無いのだろう。疲労感が顔に滲み出ていた。
無理もないと思う。あの幽閉された空間で一体彼女は何日過ごしたというのか。あの満足のいかない食事で、何日耐え忍んだというのか。
春樹は後ろを歩く少女に、そっと手を差し伸べた。
「ほら、早くしろ」
九条はそれを笑って手に取った。
―――だが、笑える時など今に消え去る。
立ち止まった黄金の意図を知るのに時間はかからなかった。
しかし、その状況を理解するのには、時間を要した。
「なんでここに、いるんだよ」
春樹の表情は何に歪んでいたのか。驚きか、悲痛か、歓喜か、否、それは絶望だった。
目の前に立ちはだかりしは、見飽きた姿。それもここ一日で何度目にしたか数えるのも愚かしい。
潤目は春樹の前に姿を現したとき、こう言った。
『化け狐とは全くもって滑稽だな』
狐は古くから人を騙す、欺くものとして知られていた。ある時は女に化け、ある時は男に化け、ある時は風景すらとも同一化する。狼少年など目にも入らない嘘つきの極みだ。
だから彼らは仮面のデザインにそれを選んだのだろう。人を欺くものとして使われた、その狐の面を。
直視しろ。それは今をもっては偽物ではなく、本物だが、欺かれた嘘の正体。今寸前まで目にしていたその仮面が、何故今自分の視界にあるのか。先ほどの黒き妖気を放つ槍をもった仮面の男は何だったのか。
影武者?囮?捨て駒?―――違う。あれもまた本物。
ならば眼前で同じく槍を構えるあの男は誰か。答えは決まっている、仮面の男だ。
そう、『仮面の男』だ。
一体誰が仮面の男を名前として見た。それは何の変哲も無い代名詞であって、それ以外でも以上でも以下でもない。つまり、不確定の人物を現す単語。目撃証言、仮面の男。裏路地で戦った相手、仮面の男。潤目と刃を交えている人物、仮面の男。
下らない、と春樹は吐き捨てるように思った。
「ふむ。黄金が脱走することは予想済みだったが、まさかライフまで逃すとは。まぁ、回り道をしていると思えば容易い話か」
声質を窺っても、何も変わりは無い。なに、簡単な話で音声変換でも行えば良いだけ。
「とんだ芝居に巻き込まれてたもんだ。で、やっぱお前も俺らを止める派の人間だよな?」
「それを問うのか?これを見ろ」
仮面の男は引き寄せるようにして、茶髪と銀髪を引き寄せた。
そこで叫んだのは他でもない黄金だった。
「し、白銀!!てめぇ、何しやがった!?」
「何をした?それもまた問う必要のないもの。ただ揉んでやった、それだけの話」
嘲笑うかのように肩を上下させる。
怒りに身を任せた黄金が、槍を構えて突撃しようと身を低くしたその時だった。男は槍の矛先を白銀に向けてまた笑う。
「人身交換といこう。私はこの少女に興味もなければ、こちらの男子においては同情の欠片すら持ち合わせるのも惜しいほど虚無。だが、そちらの二人は非常に意味のあるものでな。どうだ、利害は一致しないか?」
恐らくは黄金と九条のことだろう。その対象に含まれない春樹が、乗り出して言う。
「利害の一致?馬鹿なこと言ってんじゃねぇ。俺ら側は全員帰ってこないと意味がないんだよ。当然力づくって手は覚悟してる」
ナイフに手をかける。
焦っているというのが自分でも分かるが、ここに来て話し合いで決着を付けようだなんて、それこそ阿呆のすることだ。仮面の男が槍をもっているのは何故だ?白銀と日比谷との戦いそのままにしていたわけではあるまい。ここに春樹たちが来ると予想していたからに他ならない。
先ほど言っていたように、黄金が脱走することを仮定としていた。恐らくその延長線上なのだろう。
ナイフに手をかけるそのモーションを男は見たが、男はだからといって何をするわけでもない。ただ、ふむ、と頷いて、まず日比谷をこちらによこした。
「荷物は少ないほうが良い。それは邪魔だ」
日比谷の服がびっしょりと濡れていた。恐らく式での攻撃でも受けたのだろう。
元々体つきが良い訳でもない日比谷に対し、春樹でもどうすることもできない式を駆使されてはたまったものではない。人は人外の技術などに対抗する術など無いのだ。
「さて、ここからが交渉だが、私は貴様らをここで逃がしてやっても良いと思っている」
「・・・は?」
ありえない提案に春樹は間抜けな声を漏らした。
「言葉通りだ。九条美香留を見逃そうと言っている。・・・が、金剛地黄金、貴様は残念だかまた豚箱へ行ってもらう」
狙いは黄金だったらしい。
苦悩といっていいのだろうか、これが天秤にかけるということなのだろうと春樹は初めて知った。九条を連れて帰りさえすれば、状況は政府に対してかなり楽になる。こちらは保護していればいいだけなのだから。それを今提案されているのだ、逃すのは惜しい。
しかしここで黄金を天秤にかけられればどうだろう。同情ではないが、あの牢屋へ再び戻すのも正直気が引けるし、何より犠牲なんて言葉を使いたくは無い。それが自分であれば考える余地もあるのだが、黄金は同じ戦うものとしての仲間であり、他人だ。
誰かの結末を他の誰かが決めるだなんて異常性は、選択などという下らないクイズで決定できるものではない。
だから彼はそれを悟り、前に出た。
「良いじゃねぇか、豚箱。だがこちらも条件がある。俺が捕まる代わりに白銀を解放しな」
「それはおかしい。私はその男子を解放したというリスクが既に生じているに加え、ライフという貴重な人物をみすみす逃そうとしているのだ。それなのにまだ求めるというのは、我儘というものだぞ」
「・・・・・・」
言葉が無い。それはそうだ、男の言うことには筋が通っている。対価関係として支払うならば、それはあまりに男にとって損。
ならばそれでも黄金を求める理由は何か。それが分からないのでは、春樹も簡単に頷くことは出来なかった。
「しかし、兄を助けるためにやってきた妹が捕らえられ、兄が助けるようとし、また兄が妹を助けるために自分を犠牲にする。本末転倒の繰り返しだな」
白銀は気絶しているのか、ピクリとも動かない。この状況を彼女が見たらどう思うだろうか。全責任を感じて死にたがるほどの愚者でないのは知っているが、春樹が思うに若干ブラザーコンプレックスが入っている。
黄金とお互い様だな、と思ったことがある。
だからこそ春樹は苦悩するのだ。白銀が助かっても、黄金がいなかったらそれこそまさに本末転倒。とは言え、ここで白銀を見過ごすのもまた愚策。全てを奪還しなければ、結局は向こうに有利になるのだ。
レースで有利なのは追いかけるほうだというが、それはやる気とか、気持ちの問題でだ。逃げ切るほうは必死で、精神的にも追い込まれるという。
だが現状で考えても見ろ。追うほうは幾分どころか相当必死なのだ。距離が、開きすぎているから。追われるほうは兎と亀の兎のように、寝過ごしていても恐らく間に合う。そんな距離が、この取引にはある。
「私が問うているのは、貴様だ。武藤の名を持つもの」
分かっていると言いたげに、春樹は眉をひそめる。
「春樹!!オレのことは構わねぇから、白銀を、白銀を助けてくれ!」
分かっていると言いたげに、春樹は仮面の男の手に握られる、艶やかな髪を見る。
「犠牲無しでやり過ごそうと思っているのならよせ。それこそ愚の骨頂だぞ」
分かっていると言いたげに、春樹は思考を巡らした。
が、そのじれったさに耐え切れなくなったのか、ついに黄金が痺れを切らして槍を持つ手に力を込めた。
「そんなの、こいつをぶち殺せば済むことだろうがっ!!」
突撃した。武を唱える武士なんて綺麗なものではない、ただ目的もなく相手を睨みつける猪のような無策な突撃。
「馬鹿が。力で全て治められると思うのは屑の考えることだ」
仮面の男は懐に手を入れて、ペンを取り出した。
その一つの行動だけで、何が起こるかが容易に想像できた。だから春樹は叫んだ。警告を促すように。
「止まれっ!黄金ぇぇぇぇ!!」
目標を定めた猪に止まるなどという言葉は既に辞書には無い。
雄たけびを撒き散らし、槍の矛先に仮面の男を捉えようとただ突っ込む。
式が、完成した。
「『風弾』」
その光景で思い出したのは、潤目が初めて春樹に式を見せたときに、由真が切ったりんごが細切れになったときの風景。
見えない何かがりんごを刻んだように、黄金に何かが直撃したようには見えないのに、黄金は腹をへこませて、そのまま嗚咽を漏らしながら膝を付いた。
不可視の攻撃、それが『風』。
視界に捉えることが出来ないのに、それは力を増せばまるで物体のように狂気と化す。叩きつける風はいつだってそうだ。台風になれば吹き飛ばし、空想上ではサイクロンという名を頂いて切り刻む刃と化す。
まるで百面相のようにその形を変える風は、今打ち抜くための弾丸となった。
「かはぁ・・・っ」
男が腕を振り上げると、アッパーカットでも喰らったように黄金の身体が顎を先頭として宙に浮く。すぐに地に叩きつけられると、ぐったりとして動かなくなる。恐らく急所に入ったのだろう。その手際のよさに、一瞬たじろぐ春樹。
―――勝てない。
そんな思考が頭にあったのは、今更だ。
「さて、こちらの目的は果たさせてもらった。去るなりなんなりするがいい。去らないというのなら・・・」
「・・・く、クソっ!!」
春樹はもうどうにでもなれというように、ただ我武者羅に倒れている日比谷を背負い、九条の手を掴んだ。
その手が痛いと感じ取った九条の想いは、ただ強く握られているだけでないことが、彼女には分かった。
―――
「本末転倒。重要であることとささいなことを取り違える、か。果たしてこの兄弟にとってそれが当てはまったかは知らないが・・・本当に本末転倒になるのは、果たしてどの陣営か」
掴んだ髪の毛は、金と銀。
名は金剛地。つまり、金剛石ことダイヤモンド。決して崩れぬ強き信念と、切れない永遠の絆。
「だが、ダイヤモンドは決して永遠ではない」
絆など、崩れるのに要する時は、災いを振りかぶったその一秒。
二人を引きずる仮面の男は、そんなことを考えて笑っていた。