45, 大脱走劇と狐(3)
刃の矛先を交じ合わせるは、黒ローブを羽織った二人の男。
一方は五本の穂先を持つ、『貫くものの意』ブリューナク。一方は何の変哲も無いサバイバルナイフ。しかし両方に一寸の油断も無ければ、慢心も無い。ずっしりとした緊張感を味わいながら、それを余興と楽しむものもいた。
「いるというのは分かっていたが、このタイミングで出てくるとは。見計らったか」
第一声を発したのは、狐のほうだった。
「逆に問おう。お前こそ、今このタイミングで春樹を狙うとはどういう了見だ」
仮面の男は黙る。答えることを期待などしていない。
ただ、一つ言える事がある。確かめ合わなくとも、双方は相手の正体を見破っている。
だから二人はこうして対峙したのだ。
知っているからこそ、仮面の男の前に潤目が立ち、その潤目を薙ぎ払うために仮面の男が槍を握る。
「双方の目的がかち合えば、どちらかが従うしかない。春樹を追うものと守るもの。最初に地べたを這いずり回った方が、弱者という二つ名を持って、強者の靴を舐めるしかない。意味のない御託をぐだぐだ並べるより、簡単な摂理に従えば楽だ」
「面白いことを言う。だが靴を舐める程度では済まされん。髪の毛を掴み上げられ、叩きつけられ、顔面を泥で塗られるくらいの覚悟はしておけ」
「忠告感謝する。だが、俺は顔に泥を塗られるくらいなら意識がある間に首をはねる覚悟くらいはある」
「そうか・・・ならばっ!」
開始の合図は、突き出された槍の切っ先がナイフによって受け止められた快音からだった。
潤目は迷うことなく槍を蹴り上げて、後方にステップして距離を取る。そのまま空中にナイフを走らせていった。
蹴り上げられた槍は思いの他反動が大きく、体制を立て直すのに時間がかかった。潤目が式を構成していることを知ると、もはや間に合うまいと自らも懐からペンを出し、空中に走らせる。
先に発動したのは、無論潤目だった。
「『水泡』」
潤目の周辺に水分が凝縮していき、直径三十センチほどの水泡が数を成す。それはふわふわと浮かび、潤目の前に壁となるように集結していく。まさにメルヘンな水玉の壁紙がそこに張ってあったようにも見える。
意表を突かれたな、と仮面の男はその光景に感想を持つ。攻撃系でなく守りに徹してきたことに意外性を感じる。分かることは、恐らく防護に使う予定ではないのだろうということ。
だが一度構成している式を途中から止めるわけにもいかない。
「『炎上』」
男の前に熱が篭もっていき、それは燃え盛る炎として弾丸と化す。
相反する属性は、互いに打ち消しあうが、水に対して炎とは圧倒的にこちらが不利。結果は少量の水蒸気が発生しただけの面白くないもの。
ちっ、と舌打ちするも、余裕をこいている暇は無い。してやられたも思うが、今回ばかりは偶然だろう。
既に潤目は次の式を構成し始めている。恐らくこれも追撃は間に合わないし、何より水泡が邪魔だ。これもまたしてやられたといった感じか。仮面の男は不本意ながらも、水に相性が良い物理系の式を組み立て始める。
「『隆起』」
「んなっ!?」
発せられた言葉に、今度こそ驚きを隠せない。水泡で防御を張ったのちに、さらに防衛線を張るというのだろうか。
言葉通り、水泡の壁の前に、第二防衛線が張られる。嫌な地響きを立てて盛り上がった床が完全に世界を分断した。向こう側が見えなくなったため、もはや式を張っているかどうかも分からない。
だが、物理系ならばとりあえず隆起だけは突破することが出来ると、式を発動した。
「『地柱』」
勢いよく飛び出た天山のような地柱が、立ちはだかる壁にめり込んだ。固い、それもとてつもなく。貫き通せなかったそれは、不気味に刺さるモニュメントと化す。
原因はすぐ理解できた。ここは腐っても監獄施設、使用されている材質は限りなく固い。例え同じ材質がぶつかりあったところで、そう簡単には砕けてくれないということだ。
焦りは無いが、仮面の男の中に苦悩が浮かんだ。
「『地柱』」
聞こえたのは壁の向こう側。
その意味を察した男は、大きく横に跳んだ。それと紙一重、入れ違いになるように壁から突き出た尖った岩が今まで足をついていた床に深くめり込む。ミシッと音を立てている点、威力は十分だった様だ。
表情が歪む。相手の男の式の使い方は熟練者なんて言葉では収まらない。今ので証明されただろう、地柱の威力はあちらが上だと。
とは言え、隆起により防壁となった壁を破壊しないことには、この槍も意味を成さない。
―――否、それは観念。
壁は床が盛り上がったものとは言え、向こう側に続く隙間が無いわけではない。
不敵な笑みを浮かべ、式を構成し始めた。
地柱は外したようだった。だが想定の範囲内、というよりも、あれはただの挑発に過ぎない。見えない相手を射抜くなど、人間の業で成せるものではない。
潤目は次の式を構成し始める。
思考は冷静だ。確認できれば、それで十分。
長い、動く腕はまるで這う蛇のように不規則で滑らかだ。この一撃で勝負をつけると、その勢いで式を地面に刻み込む。
「『廃気』」
聞こえたのは式の発動。
しかし潤目はそれに笑みをこぼす。策士は常にここに在る。
廃気。つまり空気を廃らせる式。
仮面の男は恐らく空気干渉によって勝負をつけるつもりだと踏んでいた。この床の硬度が固いこと、先ほどの地柱で威力の差を見せ付けたこと。そして何より、わざと壁に僅かな隙間を開けていたこと。
完全に遮断されては空気への干渉は難しい。だからわざわざ開けておいたのだ。
潤目は一度深呼吸するように大きく息を吐くと、同じ要領で息を吸い込んで水泡の中に頭を突っ込んだ。
相手の廃気のレベルは高いと見て良い。潤目は視線を壁に移すと、そこには今にも刺殺を試みようとしている岩が突き出ている。結局の所、向こう側から見えていないだけで、地柱の威力は十分なものだったのだ。
息も恐らく持って数分だが、廃気のほうが循環が早い。
水泡に頭を突っ込んだまま、地面にナイフを突き立てることは依然としてやめない。長期戦などに持ち込んだら、それは酷い有様と成り果てるだろう。
意識操作で残りの水泡を全て自分の身の回りに集め、まさに水の精霊でも気取るかのように、水泡の中に身を隠す。これがどこまで役立つかは分からないが、最終防衛線。
(さて、後はタイミングか・・・)
まだ息は持つ。
廃気の式は成功した。恐らくあの策士のことだから、吹き飛ばすなり精練するなりするだろう。
だが、あれは吸い込んだところでそこまで害は無い。全く無いと言われればそうではないが、あれは廃気、『可燃性ガス』だ。
仕掛けるは構成した式。だが、発動はまだしない。壁で仕切られているとは言え、可燃性ガスの爆発は相当のものだ。こちらまで爆風が吹き込んでくる可能性は否めない。
仮面の男は、懐から二つ目のペンを取り出した。
壁で仕切られた状況においての盲点。相手の行動が全く見えないところ。この状況でまさか二つ目の式を構成しようなどとは、向こうも予想はしていまい。
「『水泡』」
極力小さな声でそう漏らす。式は自動的に音声認識が働いているらしく、相応した言葉を聞かせなければ完全に発動しない。無論、無言でも発動することは出来る。が、それはかなり不安定になるということだ。
恐らく向こう側と同じく、水が凝縮されていき水泡を作り出し、ちょうど隙間から吹き込むだろう爆風に備えて設置しておく。一瞬で水蒸気と化すだろうが、無いよりはましだ。
本当は風系の式で爆風を押さえつけたいところだが、コントロールを誤ればそれで逝去確定。それに向こう側の式が何であるかも気になるところ。もってする一番安全な手段を取ったのだ。
さて、これから起こる悲劇に身が震える。
ペンを走らせた腕が、ゆっくりと最後の式を空に刻んだ。
「『炎上』」
標的とするは、壁の向こう側での発生。
発動と同時に仮面の男の表情が緩んだ。
が、それはすぐに崩されることとなった。
「『陥没』」
聞こえた声は、確かにそう言った。刹那、仮面の男は激しい狼狽に駆られた。何をするでもなく、ただ身体を丸め込んで不器用な防御を取る。
陥没。
隆起された床が、再びその姿を戻す。先ほどより大きい地響きを起こして、タンスを引き出しにしまうように壁が落ちていく。
完全に落ちると同時に、炎上の式が発動した。
可燃性のガスを含んだ炎は、迫る来る赤き悪魔のようなおぞましい顔を持ってして形と成す。耳の鼓膜が危機を訴え、ローブが一瞬にして爆炎に包まれた。
目など開けられていられない。だが、光景は容易に想像できる。今やこの場は、鮮やかなオレンジ色の狂気と共に、白い世界が灰色へ染まろうとしているだろう。
爆風は思いの他叩きつけるような雨ほどに強い。張り付かせるように足を地に付いていなければ、台風にでも吹き飛ばされるがごとく飛びかねない。だが、踏ん張っていた足は悲鳴を上げ、寸分の余裕すら許されない。
仮面が飛んだ。鉄製のそれは、熱を帯びて焼き尽くされる。当の本人が火達磨とならないのは、このローブのおかげ以外の何ものでもない。
耐火性を備えたそれは、例えガラス細工に使われる釜に入れられようと、原形をとどめる。
悪魔はその役目を終えると、静かに去っていった。
「まさか、陥没を使って巻き添えを狙うとはな」
立ち上がっているはずの無い相手に向かって言う。が、相手は予想通り立っている。
まさか水泡が全てを防ぎきったわけが無い。あの男のローブもまた、政府製なのだろうと思う。
「軽く死に掛けたが、俺としてはお前が立っていることが想定外だ。水泡を張っていたか・・・」
大火災のまっ最中にいた二人が、何でもなかったかのように再び対峙した。
先ほどと違うのは、外れた仮面の男の眼だけだった。
赤い。充血などではない。黒目までが赤い。
潤目はそれを見て、知識を披露するように言葉を並べる。
「『織眼』と呼ぶか、『式眼』と呼ぶか。式を認識する際に血液の循環が異常化され、赤くなる。驚いた、お前が・・・」
と、何を悟られたのか、仮面の無くなった男は今までとは比にならない速度で式を構成する。
潤目はその変貌振りに警戒を示し、ナイフを構える。
「今回は私の負けだ。・・・が、再び頭脳戦を貴様と繰り広げる日が来るのを私は望む。『遮光』」
「なっ、逃げるのか!?」
瞬間、潤目の視界は一気に無くなる。
真っ白な光に包まれ、目を閉じても残影が瞼の裏に張り付いて離れない。多少の痛みさえも覚える。
遮光。つまり遮る光。発光物体を拡散させ、相手の視界を奪う高等の式。
ローブの袖で光をなんとか軽減させようとするが、既にそれは遅く、目が潰れたのではないかと思えるほどの違和感を潤目を襲う。
光が空気に吸い込まれていった頃、潤目の前には虚空だけが漂って、不自然な形をした仮面が悲しくも落ちていただけだった。
「『観客』は終わり、『登場人物』として動け、か。誰も彼もが漏らしていたが、本当に良い役者が揃いすぎている・・・」
潤目の身体もまた、動かした手が止まったときに遮光のように消えていった。