42, 日比谷の想い
壁の向こう側、日比谷は恐怖に屈することなくその槍に渦巻く黒い霧と対峙していた。
そう、もはや日比谷にとっては相手が誰であれ、その放たれる槍こそが敵の対象とあった。白銀は壁の向こうだ。恐らく援護は受けられない。
これが日比谷にとっての初めての戦闘でもあった。だから彼は身を奮い立たせる。恐怖でもあり、何より武者震いであった。
だが仮面の男は一向に投擲してくる気配が無い。危険な臭いを漂わせておきながら、その槍の構えは依然として突きの構えだ。いや、薙ぎの構えだろうか。どちらにせよ投げる、という構えではないことは分かった。
仮面の男の後方の壁から、ゴッと鈍い音が鳴る。恐らく白銀が倒れたのだろう。
日比谷に緊張が走った。いまや脇汗は酷く、拭う余裕などどこにもありはしない。ただ、自分が敗北すればまた牢獄行き、悪くて命を落とす。ただそれだけだ。
仮面の男など目に入れるな、槍を見ろ、軌道を読め。冷静になった頭はそれだけを反芻していた。
「日比谷怜、貴様は九条に好意があると聞いたが、真かね?」
槍の構えを崩して、突然そんなことを聞いてきた。
勿論こちらは構えを崩すつもりは無い。むしろ今がチャンスかとも思ったが、その問いの内容は無視するに値しなかった。
「何を言って・・・」
「なに、恥じることは無いだろうし否定することも無いだろう。そういった感情を持つのは人として当然のことだ。いや、人でなくとも、か」
いちいち皮肉を交えて言う点、日比谷は何か意図があると察して聞いていた。
「男が女を守ろうとするのは当然のことだ。・・・が、九条は女である前に『ライフ』だということを忘れていないかね?」
またか。とため息を吐いた。
いつだってそうだ。九条に好意があると知られれば、誰も彼もが彼女を『ライフ』だから、と割り切って諦めを催促させようとする。そんなことは分かっているのだ。例え成就したって意味を成さないのだと。
だから言ってやる。
「それが、何だよ?」
「・・・ほう。気にしていないとは思っていたが、そこまでか」
「気にしていないわけじゃねぇ。彼女は笑っていようが泣いていようが、生きていようが死んでいようがライフであることに変わりはねぇ。それを忘れようとしたことはねぇし、気にしなかったことも無い。だけどそれがどうした?そんなんが諦める理由にはならねぇってことだ」
「せめて人として見る、か。それも良し。だが、そのために命を懸けるまでするか」
「命を懸けるかだって?ふざけてんじゃねぇよ。そんな覚悟も無いんだったら、あいつを好きになろうなんて思わねぇ」
仮面の男はその言葉に納得したのか、ふむ、と一置き置いてから槍を構えなおす。
黒い霧は晴れない。が、濃くなることも無い。
「実に最もな理由だ。だが貴様は間違いを犯している」
「間違い・・・だと?」
「そうだ。人とは世間から良く見られたい、または自分のことを正当化したいという念から無茶だと思えることすらやってのけようとする習性がある。それは今の貴様のように、私に勝てないと知っておきながらも、好意を寄せる人間のために身を捨てようとすることも含めだ。だが、そういう場合、自分の意思が強いあまりに貴様らは忘れるのだ。―――保身をな」
黒い旋風が舞い上がり始めた。
来る、そう直感する―――はずだった。
その時日比谷が感じたのは、『来ない』だった。根拠は無いが、あの裏路地で戦ったときとは威圧感があまりに違いすぎた。確かに黒い霧は出ているが、それが螺旋を描くように槍に纏わり付いているわけでもなく、ただ発生しているだけだ。
それだけではない。やはり仮面の男からは殺気が感じられないのだ。
男は構える。あれは投擲だ。が、突きでくる。それが日比谷の直感だった。
「さて、今度はしっかりと揉んでやろう!」
突撃した。
槍の穂先は五本、剣の腹で受け止めるには若干厳しいものがあると判断した日比谷は、その大降りの突きをバックステップでかわす。やはり投擲ではなかった。
跳んだ反動を半ば無視して、アキレス腱を最大限に伸ばして着地を踏ん張る。そのままこちらも突き出すようにして剣激を放つ。
それは穂先に上手く絡め取られ、そのまま日比谷は引っ張られるようにして投げられた。
「んな使い方ありかよっ!?」
空中で体制を整え、壁寸前のところで着地して壁に背を叩きつける。痛みは無い。が、追い込まれたことに焦燥を覚えた。
舌打ちを1回した後、日比谷は壁伝いに走り始めた。それに平行になるようにして仮面の男が追う。
日比谷は思考する。
相手は完全に自分を舐め腐っていると言って間違いないだろう。実際どうあがいても勝率は限りなくゼロに近い。それは覆せるものでもない。相手の慢心の隙を突こうとしても、恐らくは無駄だろう。
ならば戦略を立てる。
状況を確認する。ここは研究施設内、使おうと思えば武器になりそうなものは・・・あまり転がっていないようだが、何より薬品が多々ある点が利用できそうだった。だがラベルを見たって中身が何か分かるわけでもない。
ならば、もはやヤケクソになるしかない。
日比谷は前方に現れた棚の中から、薬品の瓶を掴めるだけ掴んで、それを一気に仮面の男に投げつけた。
「ちっ!」
その行動が予想外だったのか、仮面の男は飛んでくる瓶を一薙ぎにして全て粉砕する。飛び散るガラスが失明に繋がらないだろうかなどと、淡い期待も持ったが、狐の仮面が邪魔をしている。
だが期待を寄せるのは別のほうだ。
薬品の中身。それが一つでも危険な化学反応でも起こしてくれれば、こちらにも勝機は訪れるかもしれない。まさに賭けだった。
一つ目の棚から薬品が消えうせる。これほど投げつけたというのに、何一つ起きなかったことにさらに焦りが滲み出る。
次の棚へと移ろうと走り出した時だった。
「うぉっ!?」
目の前を高速で何かが横切る。眼前に槍が投げられ、壁に突き刺さった。反射的に仮面の男をのほうに振り向けば、男は拳を振り上げて既にわずか二メートルも無い所まで迫っていた。
剣を盾代わりに前に突き出し、拳を止めようとした。が、男は寸前で拳を止め、逆の方の腕を腹に食い込ませてきた。
「・・・かぁ・・っ」
急速に肺から空気が抜ける感覚に襲われる。吸い込もうとしても、ひぃと奇妙な音を立てて十分に空気が吸い込めない。痛みよりも苦しさが先行する。だが、膝を付くわけにはいかないと、最後の根性で剣を振るって男を遠ざける。その際、男はちゃっかり槍を抜き取っていった。
だが逆に危機感がほんの少し、本当にほんの少し抜けてしまったからに、膝を床に付いてしまう。
「話の続きをしよう」
声が聞こえたときには、頬に強烈な打撃音と鈍い痛みが走った。呆気なく地に伏した日比谷は、先ほどの腹部への打撃で思うように身体が動かない。せめてもと思い、最大の憎悪の念を 込めて仮面に向かって視線を送っておいた。
「保身を考えない人間は、いつしかその信念の元に命を落とす。命を落とせば誰かが悲しむ。しかし本人は悔いは無いなどと勝手なことを言って逝去する。それは残された人間にとっての悲劇だ」
聞く耳など持つ気はない。日比谷は後から襲ってきた強烈な腹痛と戦いながら、この状況の打開策を練っていた。
すると、何やら手元に瓶が転がってきた。投げつけたものが割れずに残っていたのだろう。
「だがそれでいい。死んだ人間にとってこの世など全くの無関係。後残りがあろうが無かろうが、それはもはや意識下に置かれず、記憶にも無い。思い出すことが無ければ後悔などありはしない」
ラベルが目に入った。それを見た瞬間、日比谷の頭はこれ以上ないほどにフル回転し始める。
感づかれる前にと、急いで目だけで目的のものを探す。
「貴様は、今ここで死んでも九条のことを頭に置いておく事は出来ない。悲しい現実だな」
無い。無い。無い。
何故無い?どこにでもあるものなのに、何故この研究施設にはそれが無いのだ?
次第に狼狽の色が見えは始めてきた。
が、その色はあまりに顔に出すぎた。
仮面の男が怪訝な表情で日比谷を見下して言った。
「・・・貴様、何を探している」
そこで初めてびくり、と身体を震わせて言葉に反応した。
急いで転がっている薬瓶を回収しようとしたが、良いタイミングで仮面の男がそれに気付いて蹴り飛ばした。カンッ!と悲痛の心に響き渡る音を立て、それは日比谷の手には届かない場所へまで転がっていった。
仮面の男は、日比谷の腹を蹴りつけると、それを取りに行く。日比谷は苦悶の声を漏らしながら、その行方をどうすることも出来ずに、届かない手を伸ばしていた。
「ホスゲン、二塩化カルボニル・・・。毒素気体か。これを私に投げようとでもしたのかね?」
と、その時だった。
日比谷の口元が引きあがり、笑みの形を作る。
「吸い込んじまいな!!」
おもむろにそこにあった割れ瓶を掴み、男の持つ瓶へと投げる。
パリンッ!とそれが砕け散り、中から恐らく気体が出てくる。無色なので見えてはいないが、ラベルによると相当濃度が強いはずだ。少しでも肺に入れれば、相手の行動はなかなか制限・・・。
仮面の男が無言で空にペンを走らせる。
「『水泡破』」
とんでもない光景を目の当たりにする。仮面の男の周りに空気から湧き出るようにして水泡がいくつも出現し、それがまた全て耳に響く音を立てて割れる。あまり水は拡散せず、日比谷に攻撃するためのものではなかったようだった。
「二塩化カルボニルは、首都大紛争でも殺戮用毒ガス兵器として使われていた。が、これは水で化学反応を起こしてな。無効化までとはいかないが、分離した塩素も水に溶けて結局は無くなってしまう」
日比谷は歯軋りをした。もはや尽くす手はない。
気体が水に吸い込まれる、なんてこと考えられるかという話だ。恐らく雨を降らした程度では中和されないのだろうが、あえて水泡を出したのはそれが理由だろう。後は毒性を吸い込んだ水泡を拡散させて終わり。なんとも手際の良い展開だ。
一矢報いたとすれば、男の黒ローブがびしょ濡れになったところだけか。
仮面の男は再び空にペンを走らせている。恐らく決着をつけるつもりなのだろうと、自らの危険に対して覚悟を示した。剣を持ち、足と腕に全力の気合を入れて地を踏みにじるようにして立ち上がり、焦点も合わないまま突っ込む。
―――仮面の男ではなく、横に。
「うぁぁぁぁ!!」
手に取ったのはコンセントにささったコードの先。延長コードが差し込んであり、長さは十メートルはあるだろう。どこかに刺さっている接続部分を抜き、それを持って男に向かって全速で足を動かす。
が、次の瞬間にはそれは槍と共に日比谷の手元を離れた。水に触れる前に、男が投げた槍によって貫かれ、当然その勢いに追いつけるほどの筋力も無く、無情にもそれは後方の壁にぶつかって、目的とは程遠い場所でその役目を終えた。
間髪入れずに男が空にペンを走らせる。その流れはある意味流麗とも呼べるほどで、恐らく全ては予想済みだった、ということなのだろう。
「『水泡破』」
すると、突進する日比谷の目の前に水が集結していき、水泡と化す。止まることも出来ず、そのまま水泡の中へと溺れるように沈んだ日比谷は、奇妙な水中感覚で前に出ようと足を踏み出すが、水圧によって上手く足が動かない。
(くそっ!くそっ!進めよこの馬鹿足が!!)
もがいてももがいても、その足が進むことは無い。
「良い判断だった。私が水によって気体を吸収することを読んでいたか、それとも偶然か。まぁそのまま窒息させても良いが、私は殺しは好きではなくてね。悪いが気絶してもらう」
言った瞬間だった。
日比谷は周りの水が急激に重くなったのを感じた。いや、重くなったというよりも、自分が押しつぶされるような感覚。水圧が変化したのだ。
どうすることも出来ず、溜め込んでいた肺の空気も自然と抜け、変わりに水を飲み込む。咳き込む暇すらなく、力の入らない四肢にそれでも力を込めようとするが、時既に遅し。
意識はブラックアウトとなった。