21, 見えた世界
森の中を走る。
目の前は暗闇以外には何も見えないし、そのせいで茨などに身体を切り刻まれてもその足を止めるわけにはいかなかった。痛みはあるが、今の状況で痛いなどと言っていられるほど春樹もおかしくはなっていなかった。
始めに自分の異常に気がついたのは風呂場での左目に走った激痛。それにおいては普段もあることなので特に気に留めなかったが、その後の容態悪化が春樹の危機管理能力に赤い信号を送ることとなった。
現在でもそうだが、耳の裏を清流が流れるような音に支配され、血液が激しく循環しているのが分かる。恐らく何らかに興奮しているときの状態だと春樹は推測する。だが、左目の激痛のときにそんなものを感じたのはこれが初めてであった。そして何より、風呂場から出た後に感じた不安感に良く似たあの感覚で、水が怖いと思ってしまったこと。
なので他に考えられることを必死に考察した結果、カイツが口にしていた狂犬病という名前が頭に思い浮かんだ。
―――感染したのではないだろうか。
そう思ってからの行動は早かったが、それ以上に容態の悪化速度が春樹を超えた。
急いで知識の中にある狂犬病ワクチンの製作手順を準に頼むために用意するはずだったのだが、突如襲った破壊衝動に思考が寸断された。
そんなはずはない、と思うも狂った自分を止められずカイツの家から逃亡してきたのだ。
春樹としても幾つか不可解な点があった。
(狂犬病の発症がこんなに早いはずが・・・)
痛む左目を押さえつけて走りながら、思考を展開させる。
もし自分が思うとおり狂犬病が発症したことにより、今の現状になっているのだとしたら、一体いつ感染したのだろうか。
考え付くタイミングはただ一つ、狂竜との戦闘で浴びた大量の返り血である。あの血に狂犬病ウィルスが感染していたのだとしたら、あの量ならば皮膚感染、しなくともなんらかの拍子に体内に取り込んでしまったことは考えられる。
春樹はふと、自分の頭皮の部分をさすってみる。が、特に変わったところは無い。もし頭皮の部分に外傷があったなら、そこから感染すれば脳内に行き届くスピードもギリギリ納得できるが、そんなものは見当たらない。
『ミリア・ヴァンレット。鞭使いの女で、マッドサイエンティストだ。気をつけろ』
黄金の言葉が突然頭をよぎる。
ライフの森で会った女性は恐らく黄金の言う政府の人間だったことに間違いは無い。そしてミリアは狂竜たちを操っていたことや、カイツとの会話の中から狂犬病をばら撒いたのはミリアだと考えて妥当だろう。
科学で成しえなかったことは、式で実現可能になる。さらにはそれに相応する科学の知識があれば、科学と式の究極の組み合わせが可能になると考えると、ミリアが狂犬病ウィルスに何らかの手を入れたことが一番有力な推測となった。
「あの女かよ・・・くそっ」
目的地は決まった。
春樹は薄っすらとしている記憶を頼りに、ライフがあった深緑の森へと足を早めた。
―――
《止まってください》
突如上空方向から機械的な声が響いたのを、春樹の耳が捉えた。
視線だけ上に移すと、案の定ビットがそこに浮かんでいた。白銀である。そうすると、大体ライフのあった森と距離が近いことを示しているので安堵する。
「何のようだ、今はライフっていうかあの女に用があるんだよ。今は邪魔すんな」
相手に釘を打つようにして言う。
だが、ビットは敵意をまるで感じさせないようにぴったりと春樹の上空にくっついてくる。
止まれ、という警告なのだろうか。春樹は妥協して、その場に留まった。
「用件があるなら早めに頼む。こっちは生と死の境目走ってんだ」
ビットに目をやりながら、早くなる心臓の動きに身を小さくする。
《生と死?一体何があったんです》
質問には答えず、代わりに春樹に投げかける。
話を早く済ませたいがために、相手が答えなかったこと云々に関してはあえて問いたださずに白銀の質問に答える。
「狂犬病ウィルスが異常侵食してやがるんだよ」
《狂犬病ウィルス?私たちがここに来たのは2日ほど前です。まだ潜伏期間のはずですが・・・》
白銀も春樹と同じ疑問を抱いているようであった。
そこで春樹は時間を気にしながらも、先ほどの推論を白銀に話してみた。
《・・・。皮膚感染、の可能性しか考えられませんね。その推論では。一応血液というのは酸性を含んでいます。ですが、それは呼吸運度によって二酸化炭素として体外に排出されるはずなので本来は血液が酸性になることは考えられません》
春樹は時間がかかることを察して、その場に座り込んで言った。
「なら、何が原因だ?」
《まだ話は終わっていません。確かに血液が本来酸性になることはありませんが、人が病気で呼吸困難などに陥ったときなどは別です。アシドーシスとアルカローシスの均衡が取れなくなった場合、血液は酸性か塩基性に偏ります。そうすると、あのミリアのことです。狂竜たちや狂犬の呼吸機能、いえ、恐らくその身体的な部分。そうですね、炭酸緩衝系か呼吸中枢を破壊した可能性が高いですね》
考えたことも無い言葉が白銀の口から次々と吐き出されていく。なんとなく理解は出来たが、それはあまりにも非科学的なことである。
「そんなこと、できるのか?」
当然と言ってもいい質問を白銀に投げかけた。
《科学的に考えれば不可能です。呼吸器官を破壊してしまえば、まもなく生物は死に至るでしょうし、そんな部分的に機能だけ破壊するなど人間技ではありません。ですが・・・》
白銀の言葉は、今までの論理を簡単に覆すような否定の言葉だった。
《それを可能にするのが、式です》
春樹はそれに目を見開いた。
そう、なんだかんだ言っても式こそが科学を超える全能の業なのだ。式を使えば知識と理論さえあればなんだって出来てしまう。簡単なことであったのだ。
《それで、こちらの用件ですが、いいでしょうか》
春樹が唖然としているのを耐えかねて、白銀のビットが音声を発する。それに意識を引き戻され、思考から会話へと脳内を変換させる。
「早めに頼む、こちらとら理性で押さえつけてるのも限界が近いんだ」
《分かりました。では、とりあえず走りながら話しましょう》
ビットが先導するように、春樹の二歩ほど先を警戒しながら進んでいくのを見て、春樹もその後を走って追った。
《とりあえず結論から言いますと、黄金兄さんが捕らわれました》
「黄金が?あの女にか」
《ええ。しかも精神操作を受けているのか、ずっとライフの前に立ち尽くして動く気配がありません。牽制を仕掛けてみましたが、ほぼ無反応。恐らくミリアが命令しないと動かないようですね》
マッドサイエンティストとはそこまで出来るものなのかと、春樹は少し感心した。
実際先ほどの話といい、式が科学を凌駕するものとなるということは言われれば同感できる。無から物体を作ることさえ可能なのだ。身体構造の一つや二つ操作出来ても不思議では無いが精神操作まで出来るとなると式の存在に少々恐怖に似たものを覚えるのも仕方の無い話であった。
「とすると、ミリアはライフの所にいるわけだな?都合がいいじゃねぇか。黄金もついでに引き戻してやるよ」
《話が早くて助かりますが、狂犬病のほうは大丈夫ですか?》
春樹も薄々危険は感じていた。知識にあるものとは違う早さで体が蝕まれていっているような気がする。興奮冷めあがらぬどころの騒ぎではなかった。
水を目の前にしたならば理性を抑えつけられる自信は今や無かった。
しかしそれでも、一応無理に笑顔を作って言う。
「問題ない。とは言え長期戦は避けたいからさっさと黄金を引き戻してミリアを叩く。んでもって狂犬病をなんとかしてもらうしかねぇな」
《今、カイツ・アルベルトがこちらに向かっている様子なので彼に狂犬病云々は任せましょう。恐らくあなたが狂犬病に犯されているということには気づいているはずですから》
「了解した。・・・さて、ついたな」
春樹の目の前に、ライフの煌々とした輝きが夜の闇の合間から漏れ出していた。
そのエメラルドの輝きは、物体により一部が遮断されて地面に影を作っていた。人型の長い影。
黄金がライフの輝きの前に仁王立ちしていた。微動だにしないので、先ほど白銀が言ったことは本当なのだと仮定する。うつむいたままで、死んだように立ち尽くしている。
白銀のビットが歩みを止めない春樹の後方に回り、臨戦態勢を整える。
春樹が黄金の目の前まで接近すると、黄金の顔が上がった。
「よっ。こんなとこで何してんだお前」
「・・・・・・」
軽い感じで話しかけてみるも、反応は無い。変わりに、槍を持つ手に力が入っている。
(目も死んでる。こいつは完全に操作されてるな)
ゆっくりと腰のナイフを抜き、態勢を整える。
瞬間、黄金の口元が引きつり、不気味な笑みを浮かべた。
その笑みの意図は刹那にして理解に変わる。春樹の身の回りの地面から水が湧き上がるようにして発生してきている。準が構成した『水流』の式である。
「・・・っ!?」
予想だにしなかった相手の出方に、動揺を隠せない。が、それも一瞬の話であった。
―――ドクン。
心臓が高鳴るようにして活動し、呼吸が異常に速くなる。
怖い、という感情を超越したような何かが自らの中に沸きあがり、いてもたってもいられないようなもどかしい感情に襲われる。
―――ズキン。
続けて襲い掛かったのは左目の激痛。もはや感情のコントロールもいかなくなり、左目の痛みがむしろ快感にも思えてくる。
その春樹を見た白銀は、その光景に驚愕した。何に驚いたかと言えば、その春樹の凶変ぶりではなく押さえつける左目の奥の状況にである。
赤いのだ。
いや、赤という表現ではあまりに雑すぎるほど赤かった。白目があった形跡は疑われるほどで黒目すら染まろうとしている。
脳内に悪い予感とある語句が浮かんだが、それを無理矢理思考の中から消し去った。そんわけがあるはずない、と。
「ぐ、ぐぁぁぁ」
痛みになのか、それ以外になのか春樹が咆哮を上げるようにしてうなる。目の前の黄金はそれでも微動だにせず、その光景を見ているのか見ていないのか視線は春樹に置いていた。
「あら、ずいぶんと騒がしいことで」
ライフの台の影から見慣れた女が姿を現す。手に鞭を持つ金髪碧眼のその容姿は、春樹の薄れる視界に入った瞬間判別できた。
「み、ミリア・・・ぐぅぅ」
「うふふ。無様な姿ね。まさかわたくしの最高傑作だとは思えないほどに無様」
春樹の苦しむ姿で楽しんでいるのか、妖艶な笑みを浮かべながら黄金の横に位置する。
《ミリア、狂犬病のウィルスを操作したのですか》
あくまで肯定系で疑問を投げる。
ミリアは視界にビットを捕らえると、そちらのほうに視線を移して再び笑みを作って答える。
「そうですわね。ウィルスの進行速度、つまり悪性を強めただけですけど。まぁ、頭皮からあれだけかぶれば浸透スピードが遅くともすぐに脳内に届きますわよ」
《狂竜たちの身体構造の変化も・・・》
「えぇ、わたくしですわね」
自信満々といった様子であった。
春樹の病状悪化、黄金は精神操作で自我が無い。白銀は遠隔操作のビットのみ。もはや勝ち目はないと悟った。
だが一つ気になることがあった。
《あなたは、政府の味方なのですか?》
「味方・・・というよりも、わたくしの場合自分の動きたいように動いていますわ。あなたの疑問は恐らくなぜわたくしがあなたたちを殺さずに残しておくのか、ということでしょうけど」
全くもって読まれていたと思う。
事実その通りであり、今の現状から考えても殺すことは容易い。それどころか、同じ政府側に加担した人間として何度か顔合わせはしているからわかるが、ミリアは科学的にも恐ろしいが式の実力も相当。鞭は武器として使うので戦闘においては女性という身体的劣勢以外は何一つ欠点がないほどの実力者であるのにも関わらず、焦らすようにしてこちら側を攻めてくる。
「答えは簡単。わたくしは科学者ですのよ?実験、という名目であなたたちの相手をしてあげてるの」
屈辱だった。
こちらは本気でも向こうは戦闘どころか、実験の一環として自分たちを扱っていたのだ。そう、扱われていたのだ。
既に手を出す手段は無い。と、思った時だった。
「ミリア、か」
突如黙り込んだ春樹が、口を開いた。肩を大きく上下させ、落ち着きを取り戻していた。
「あら収まったの?ずいぶんと強靭な身体してるのね」
「・・・・・・」
黙る。
春樹は自分の中に先ほどとは打って変わってあまりに冷徹な何かを感じた。
顔を上げて、ミリアを凝視する。
するとその視界には今までとは何一つ同じではない光景が、左目の視界だけに広がっていた。
右目をつむりその正体を確かめてみる。脳内に感じる光景の姿は、物体の概念的形態ではなく、『文字と記号』であった。
見えるものに形はなく、それだけで構成された世界が広がっていた。しかもその文字の意味を理解できた。右に広がるのは熱帯植物の情報。左に広がるのは針葉樹の情報。目の前に見えるのは人の構成情報が二パターンと、異常なまでの情報量を持つライフ。
右目を開けば、固体と情報が同時に見える。
―――これは式?
見慣れているはずの無い文字は、準の使う文字や初めて潤目が見せたものとよく似ていた。
(世界は、式で構成されてるっていうのか?)
潤目の言葉を思い出す。
『この式はつまり、透視の効果を出す要素を記号によって繋げ・・・』
『ガラスの様な材質に変換してしまったというところか』
考えてみれば分かることであった。
記号によって繋げる。何と何を?
ガラスの様な材質に変換させる。何を?
つまり元の物体にある『式』を、繋げ変換したというのだ。
そして今見ている光景は、その物体の全ての式。構成の正体。物体の本来の姿である。
手にあるナイフはそれを変換することが出来る。その思考に行き着くまで時間はかからなかった。
「白銀。精神操作を受けている人間を救うためには、どう式を変換したらいいんだ?」
振り向かず、白銀にゆっくりと問うた。
その問いに驚きつつも、白銀はその詳細を春樹に伝える。内容はとても簡単とは言えるものではなったが、異常なまでに冴え渡る脳には物足りないくらいであった。
「ふぅん、何をするつもりか知らないけど精神操作は簡単には破れないわよ」
「いいや、視界が戻った俺には容易い」
黄金の横にいるミリアを高速接近してナイフを突きつける。が、ミリアはそれに反応し横に大きくサイドステップを踏んだ。
ミリアには目もくれず、春樹は黄金を一撃殴ってから抱き上げて後方に大きく下がった。その穴を埋めるように白銀のビットがミリアに牽制をしかけ、その足を止める。
殴打したおかげで気絶したのか、動かなくなった黄金を寝かせて身体を凝視する。
(見える。精神操作を受けた場所が普通の人間の情報と違って歪んでる)
その歪んだ部分に、ナイフを突き立てて白銀の言った通りに構成を解除し、再構成していく。
(自律神経系から感情抑制系、外部への脳内伝達機能。それに、操作防衛情報まで構成されてやがる。だけど、綻びは生じてる)
的確に位置と情報を把握し、それに適応するように再構成する。大量の情報との戦いに一瞬目がくらむ。が、やめる訳にはいかなかった。
流石マッドサイエンティストの作った情報変換であるのか、何重にも外部からの情報操作防衛機能が施されており、それを解除しながら操作するのも大掛かりな作業であった。
一体何に目覚めてしまったのかは自分でもわからないが、今の春樹は春樹にとって自分ではないように感じた。
「よし、出来た!」
完全に元通りの構成まで戻した。自分でも驚くほどである。
「う、嘘でしょう?あの防衛線を全部突破して再構成したというの?」
ミリアもビットに応戦しつつ、その春樹の行動に目を疑わざるを得なかった。が、それはすぐに何故か笑みに変わった。
「そう、やはりそうなのね・・・」
ミリアは大きく鞭を振り、ビットを当然のように破壊した。
大きく春樹から距離を取りライフを一瞥したのち、春樹に言った。
「わたくしはここにて引き上げるとするわ。ライフはどうぞ活用してくれればよし。・・・でもまた会える日をわたくしは望む。きっと必然的にわたくしはあなたの前に現れるでしょう。いえ、あなたがわたくしの前に姿を現すでしょうね」
赤く染まった目で、ミリアと思われる情報を見てその言葉に疑問を投げる。
「どういうことだ?つか、お前は一体・・・」
見える情報が、常人とは思えないほど逸脱していた。
もはや人間とは言えない構成、いや、他の生物と例えようとしても思い当たる節が無い。外見的情報は人であることは確かだが、内容が違いすぎた。
「いいこと?真実は必ず貴方の行く先にあるでしょう。その経路に、わたくしの名前が必ず出て来るはず。その時にこの決着はつけましょう」
そう言うと、ミリアは微笑を浮かべたまま夜の森へと消えていった。
残された春樹は、体の力がふっと抜けたかと思えば、意識も夜の森へと溶けていった。
その後、春樹と黄金の身柄はカイツによって保護され、春樹の狂犬病ウィルスは帰ったのちに準の用意した大掛かりな式によって解毒されたのであった。
ライフは無事回収され、春樹たちの2ndエリアでの仕事は終了した。
しかし同時に、何かが動き始めたのも事実であった・・・。