12, 深緑の森
気持ちが悪い。そんなものではない。五臓六腑全てが異常をきたしている、そんな感じだ。
微かな意識の中、春樹の頭にはそんなことばかりが脳内を侵食していた。嘔吐感を紛らわそうと色々考えてみるも、今にも爆発そうな体内を相手にそんなことが出来るはずが無かった。
苦しみに耐えながら、少し瞼を開いてみても見えるのはわけの分からないもやもやした、色も形容しがたい空間である。
先ほどまで隣にいたはずの黄金の姿が見当たらない。
どこかへ行ってしまったのか、という思考を展開している暇はなさそうであった。
「うぅ・・・がぁ・・・んぐ」
再び襲った激しい嘔吐感に全ての思考を無に返される。
早く終わって欲しい。
早く終わって欲しい。
早く終わって欲しい。
そんなことばかりが頭に焼き付けられたがごとく、何度もよぎる。
だが、現実は春樹に甘くないらしく終わる雰囲気は微塵も感じさせない。
「ぁ・・・・うぇ・・・がぁ」
既に涎や涙を拭く余裕もなく、グロテスクなほどに体から水という水が流れ出す。
必死に息を殺し、呼吸を最大限まで抑えて耐えてきた春樹だが、そろそろ限界が見え始める。いっそこのまま吐いて楽になってしまったほうが良いのではないだろうかという考えもあったが、吐くことの恐怖感がそれを許さなかった。
しかし、幸か不幸か嘔吐感は春樹に最後の一撃を放つように、一気にのど元から襲い掛かった。
「が・・・・うぇ」
突如、望んでいたような激しい開放感が春樹を襲い、それと同時に意識が朦朧としてくる。
胃液のすっぱい味を味わいながら、それをなんとかとどめようとするも・・・。
春樹の意識は、完全にどこかへ飛んでいった。
「・・・・・・うぁ・・ぅぷ」
目覚めはある意味爽快なまでに最悪だった。
どこの世界の話だったか、意識が途切れる前の嘔吐感が今でも襲ってきた。
春樹は考えるより先に、素早く身体に力を込めて立ち上がり、どこへ行く当てもなく走り出した。ともかくこの喉からこみ上げる何かをどうにかしたかった。
何かに足を取られながらも、どこかにぶちまけられるところを探したが・・・。
「・・・っ!?無理!」
胃袋の中に入っていたもの全てを出す勢いで、吐いた。
「はぁ・・・はぁ・・・」
あまりの勢いで、息もする暇が無かったのか大きく呼吸を荒げた。
とりあえず口内に残る嫌な味を消すために、再び歩き始める。何か飲み物が欲しい、そんな欲求を満たしたかった。
そして、その欲求に答えるように、春樹の目の前に清らかな光景が広がった。
「・・・これは、川、ってやつか?」
良く見てみれば、春樹が今たっている地面はコンクリートのような整備された場所ではなく、そのままの土が地となっている。
周りをぐるりと見渡せば、目に入るのは新緑と微かな木漏れ日。風は存在しなく、生き物の気配も見られないが大きな存在感と、静寂をその中に感じた。
そして、今目の前にある川は、1stエリアには無い代物であった。さらさらと流れる音は春樹にとってはじめて聞く、澄んだ清流の音であった。
ともかく都合がいい、と春樹は川に口をつけ、喉を大きく鳴らせて水を飲んだ。
「・・・ぷはぁ!た、助かった・・・」
顔をぬぐって、その場にばたりと倒れてしまう。体力を相当消費したようだ。
そっと、自分の身体に任せるように目を閉じようとしたとき・・・。
ガサガサ!
突如草木が擦れ合うような音が鳴った。
「誰だ!?」
起き上がって音に全神経を集中させる。
音が大きくなってくるにつれ、相手が近づいてくることが分かる。敵か、それとも味方か・・・。視線を音から離さない。
そして、それは姿を現した。
「・・・・・・あれは、黄金じゃん」
しかも、相当げっそりとしており、そこから春樹と同じ目にあったことが分かった。呆気に取られていると、黄金は春樹など目もくれず川に突っ込んだ。
「・・・・・・・」
十秒。
「・・・・・・・」
二十秒。
「・・・お、おい」
一分。
さすがに心配になって、春樹が飛び込んだ水の中を覗いてみると、黄金が沈んでいた。
微動だにしない。泡も立っていなければ、水面が波打つことも無い。
「って、溺れてんの!?」
春樹は急いで溺れている黄金を引き上げる。案外軽かったのが意外である。
引き上げた後、間髪いれず、
「うらぁ!」
「ごはぁ!?」
腹部を強打。春樹なりの即効思考の結果、人工呼吸という提案は塵の欠片ほどすら出てこなかったようである。
そんな無理矢理の応急処置を受けた黄金は、少しの間腹を押さえてうなっていたが、収まったかと思うとすぐ立ち上がり、
「てめぇ!!殺す気かこら!」
怒声を浴びせた。
しかし、それに不服であったのか春樹は言い返す。
「俺が殴らなかったら、水死してたかもしんねぇんだぞ!?むしろ感謝しろ!」
すると、それにハッとしたように表情を硬直させる黄金。
少しの静寂が流れ、
「恩に着る!」
「素直だなおい!?」
頭を下げて感謝する驚きの態度に、むしろ春樹が驚く。
「命の恩人と呼ばせてくれ!」
「断る!」
「なら心の友と・・・」
「馴れ馴れしいわ!」
「むしろ結婚してくれ!」
「死ね!」
「最後のは冗談だっての」
「肉の塵すら残らず消えうせろ」
と、息も尽かさぬ馴れ合いをしたためか、息を荒げる二人。果たして先ほどまで生死を分け合う戦闘をしていた相手同士なのか、今頃疑わしくなってくる。春樹は黄金を目で殺すような視線を送りながら息を切らし、黄金も負けじとそれを返しながらはぁはぁ言っている。
「な、なかなかやるじゃねぇかてめぇ」
黄金が汗をぬぐう。その姿は、激しい戦闘を終えたような疲労感をまとっている。
「お、お前こそ、俺のツッコミ精神に火をつけるとはやるじゃねぇかよ」
春樹も汗をぬぐう。その姿は、まさに強敵を相手にした後の緊張感の残り火のようなオーラをまとっている。
しばし睨みあったが、二人ともその均衡状態に耐え切れなくなり、ふらりと倒れる。
ふと、春樹が隣で倒れた黄金のほうを向いて聞いた。
「なぁ、ここってどこだと思うよ?争うのは止めにして、とりあえず現状確認といこうぜ」
それに黄金も春樹の方に向き直り、答える。
「オレの記憶が正しけりゃ、てめぇらのお望みの2ndエリアだな。こっちも侵入する前に下調べはしておいたもんでな」
黄金は自分の言動を確かめるように、ざっと周りを見渡してみる。
木々木々木々所により川。一言で言う大自然というやつである。
「あぁ、正解だ。大自然が広がる豊かな場所だって、確か書いてあったような気がする」
「俺が知らない事が、お前らに分かるってのはなんだか気分が悪いな」
それに黄金は不思議そうにして、何故だ?と聞いてきた。
「俺はかれこれ10年くらいサークルエリアにいるんだぜ?それがひょこっと政府の計画でやってきたお前らのほうがこっちの知識に優れてるってのは、なんだか箱庭に詰められている中の人間みたいで気分が悪いって言ってんだ」
それに、黄金は春樹から視線をそらして真面目な視線を空に向けた。
「大体、サークルエリアってのはオレたちにとっちゃまさに箱庭だろ。てめぇらからは外は見えない。んだが、オレたちからはてめぇらが見える。しかも箱庭みたいにここは人の手によって創られた世界だ。てめぇの考えてることは確かだな」
その通りだ。
良く考えてみれば、こちらは何一つ外界のことは知らないのに、黄金を含む外界の人間は必ずといっていいほどサークルエリアを下調べしてから来るのだ。
本当に箱庭に詰め込まれたのではないか、と今になって嫌な気分が舞い戻ってくる。
「くっそが、一体何をしようってんだよ・・・」
政府に対する不満がこみ上げてきたのを自分の中で悟る。
黄金に問いただそうかと思ったが、何しろ馬鹿に見えるので聞いても無駄だと止めておいた。
「しっかし・・・」
気分を紛らわすように、大自然に目をやる。
視界に優しい木々の緑。懐かしさを感じさせる土の茶色。心を穏やかにしてくれる川の透き通った色。空に広がるあまりに広大な青。そして、一度も味わったことが無いような、吸い込むことに楽しさを覚えるような綺麗な空気。
「ここが、2ndエリアか」
ふっと、微笑がほころんでしまった。先ほどの吐き気など、過去の産物としても捉えられないような場所につい気を許してしまう。
「てめぇは、1stエリアから出たことはねぇのかよ」
黄金がそんな春樹を見て聞いてくる。
春樹は、少し記憶を探った後、つぶやくようにして言った。
「実は、一回だけあるんだなこれが。皆には秘密だけどさ、俺は傭兵みたいなのやってんだ」
「傭兵、か。ならあの強さも納得できんな。一般人があんだけ戦えるわけがねぇし、正直最初はびびったっての」
それに春樹は微笑し、空を見て語り出す。
「昔、このサークルエリアに単体でセキュリティも全部ぶっ壊して進入してきた奴がいたんだ」
「そりゃすげぇ。オレたちがセキュリティ突破したのはかなり頑張ったんだけどな」
「そうか。んで、そいつは1stエリアに侵入してきて、そこらじゅうを破壊しつくしていきやがった。家も、地面も、施設も全部だ。そこで、戦闘術は名が高かった俺は傭兵として呼ばれて、そいつと対峙するために育てられた。時間が無かったからちょこっとだけだけどな。そして、そいつは俺の知らないうちに6thエリアに入り込んでやがったんだ・・・」
それに黄金は驚いて身を上げる。
「待てって。6thエリアなんてあったのか?てか、1stから6thっていけねぇだろよ」
確かな話である。
繋がっているのは1stからは2nd、3rdからは4thというように、順番通りでしかリンクロードは繋がっていない。それを逆に行ってしまうことなど、常識的には出来るわけが無かった。
だが、春樹はそれに首を横に振って否定の意を示す。
「無理矢理ぶち壊して行きやがったんだ。んで、俺たちはそいつを止めるために6thエリアに行った」
「で、そいつはどうなったんだよ」
黄金の問いに答えるように、視線を合わせて春樹が言う。
「捕らえたさ。でも、人格封印って形だったと思う。そいつは、その後・・・ある家に保護されて、今では幸せに暮らしてる」
「はぁぁ、すげぇ話だな。そんなのとやり合った奴じゃ、オレが簡単に勝てるわけがなかったってことかよ」
それに自慢げに春樹が頷く。
と、そのときだった。
黄金の元に、何かが飛んできた。
「ん、これは・・・白銀か!?」
春樹がそれを見ると、『ビット』とやらが飛んできていた。白銀からのものだと推測するには十分だ。
《兄さん、聞こえますか?》
そこから声が聞こえてくる。
(なんちゅう便利なものだよ・・・)
関心と呆れを合わせながら、春樹は白銀と黄金の会話にひっそりと耳を傾ける。
「白銀!!無事だったんだな!どこか怪我とかしてねぇか!?」
騒々しいほどに白銀を心配する黄金。
返事はすぐに返ってきた。
《兄さん落ち着いてください。飛ばされたのは兄さんの方なんですから、私が怪我をしているわけがないでしょう。それに、こちらはとりあえずは休戦ということで相手と手を打っておきました》
それを聞いて本当に安心するように息をつく。
黄金はちらりとこちらに目線だけ移し、話し始める。
「オレの方もとりあえずは争わねぇってことにしといた。今どこにいるんだ?迎えに行くから待ってろ」
《兄さん。馬鹿なのもほどほどにしてください。争わない結果に持ち込んだのは褒めます。ですが、こちらの居場所が分かりますか?》
「全く分からん!というか、ここどこだ白銀」
《死んでください。いえ、まだ生きててもいいです。私にも全く検討がつきませんし、『ビット』の通信に成功したのも奇跡といってもいいほどですし・・・何故かそちらの居場所がそのビットから送られてこないんです》
黄金は、死んでくださいという言葉と同時に座り込む体制を取っていたが、急に死ぬなと言われたものだから体制が微妙な状態でそれを聞いていた。
「そ、そうか。オレたちは多分2ndエリアだ。合流すんのは難しくはねぇだろ、ってか白銀もこっちこい。したら会える確立増えるだろ?」
《珍しく良い意見です。では、私たちも適当に歩き回っていますので、そのビットを離さず近くに置いておいて下さい。では後ほどまた》
そういい残すと、ビットがブツッと音を立てて、白銀との通信の終了を告げる。
会話が丸聞こえだった春樹は、立ち上がって黄金に近寄る。
「んじゃ、合流するまでよろしく。俺は武藤春樹だ」
手を差し伸べた。
それを迷いなく黄金は掴む。
「オレは金剛地黄金だ。よろしく頼むぜ!」
握り合った手が、両方とも力いっぱい、というか握りつぶすような力の入れ方をしていたのは秘密である。