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第1話 アホライダー


アホライダー

第1話 アホライダー

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本文

第1話 アホライダー


狭いワンルームマンションの床で、銀色の怪物がのたうち回っていた。


「……っ、が……はっ、抜け、ねえ……!」


黒地に銀の筋肉が躍るヒーロースーツ。腰には『idiot』という文字が刻まれたベルト。


その中に閉じ込められた男は、爪が剥がれるほどにマスクの縁を掻きむしった。


設計ミスか、それとも塗料と接着剤の化学反応か。自作のスーツは、男の肌に吸い付いたまま、一ミリも動かない。


三日目。

風呂場の角に頭を叩きつけ、マスクを割ろうとした。だが、樹脂製の銀仮面は無情にも頑丈で、首の骨が鳴る鈍い音が響いただけだった。


五日目。

スーツの中は汗と脂の腐った臭いで満ち、全身を猛烈な痒みが襲う。だが、白い手袋に覆われた指先は、どこも掻くことができない。


「水……、飲ませろよ……」


銀色のマスクに固定された口は、ニッコリと完璧な笑顔を浮かべたまま、ストロー一本すら通さなかった。

そして、


七日目。

死の淵で、男の中で何かが「パチン」と弾けた。

熱湯に浸されていたような不快感が、スッと引いていく。喉の焼け付く痛みも、未来への絶望も、すべてが他人事のように遠ざかった。


脳が、生きるために感情を殺した。


「……ああ、面倒くせえ」


男は起き上がり、鏡を見た。


そこには、相変わらずニッコリと笑う銀色のヒーローが立っていた。


彼は、机に放置されていたタバコを一本手に取ると、マスクのわずかな隙間にねじ込んだ。


「……どうにでもなるか」


紫煙が銀の笑顔から細く漏れ出した。


アホライダーは、外を歩いていた。


黒いスーツに赤いマフラー。銀の触覚を揺らして歩くその姿は、現代の街並みで異様なほどに浮いている。


通りすがりの若者がスマホを向け、「ヤバいコスプレだw」と笑い声を上げる。


だが、アホライダーにはそれすら届かない。


「お前ら、うるさい。……面倒くせえ」


声はマスクにこもって、誰にも聞き取れなかった。


彼はただ、自分が「生きている」のか「死んでいる」のかを確認するように、目的もなく歩き続けた。


夕暮れ時。住宅街の角にあるゴミ捨て場の横で、一人の老婆が立ち尽くしていた。


崩れた段ボールの山。散らばった生ゴミ。老婆は腰を押さえ、困り果てた顔で周囲を見渡している。


アホライダーは、その横を平然と素通りしようとした。


「ちょっと、あんた!」


老婆の鋭い声が、背中に刺さった。


アホライダーは足を止め、銀の笑顔のまま首だけを傾けた。


「……なんだよ、お前」


「そんな格好して。見ればわかるでしょ、これ、運ぶの伝ってよ。あんた、ヒーローの格好して……優しさとかないの?」


「優しさ……?」


アホライダーの思考が、微かに揺れた。


優しさ。そんな言葉、七日間の地獄のどこにも落ちていなかった。自分を閉じ込めたこのスーツのどこにも、そんな機能は付いていない。


「優しさって、何だ。……食えんのか、それ」


「何言ってるのよ。あんた、人として中身は空っぽなの?」


中身は空っぽ。


その言葉は、ある意味で正解だった。今の彼には、嬉しいも悲しいも、苛立ちも残っていない。ただ、老婆の言う「優しさ」という正体のわからないものが、ほんの少しだけ気になった。


「……面倒くせえな」


アホライダーは、マスクに刺さったタバコを指で弾き飛ばした。


そして、老婆にも、散らばったゴミにも目もくれず、夕闇の向こうへと歩き出す。


「おい、あんた! どこ行くのよ!」


「探しに行くんだよ。……お前が言った、その優しさってやつを」


赤い複眼が、沈む夕日を反射してギラリと光る。


「どうにでもなるだろ。……たぶん」


銀色の笑顔を浮かべたまま、アホライダーは「人間」を取り戻すための、最初の一歩を踏み出した。



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