涙がこぼれる
涙となってこぼれる。
風呂場の排水口から、水がじわりと逆流してきた。
最初は排水管の詰まりかと思い、自治体の指定業者に連絡をしたのだが、家に来た業者は首を傾げていた。
「これ、詰まってないですね──流れてませんよ。そもそも、このパイプはどこにも繋がっていません」
意味が分からなかった。
業者が蛇腹ホースを抜くと、暗い穴の奥からぬるっとした音が響いた。
何かが奥で揺らめき、蠢くかのような音だった。
翌日から、風呂場で変な音がするようになった。
昼夜問わず、ぽとん、ぽとん、と、水滴が落ちる音がする。
──しかも、水気が無く、天井も壁も乾いているのに。
音だけが、続く。
やがて家中の鏡が湿気で曇りだした。曇りは水の粒となって鏡像をなぞりだし、世界を正確に映し出さなくなった。
ある日の朝、私はいたずら半分に鏡面に指で文字を書く──他愛もない一文。そしてとても真理に近づいた一文を。
一日経って鏡を見ると、文字はまだかたちを保っていた。
「涙がこぼれる」と。
水道の元栓を締めていても、浴槽に水は溜まっていた。
──いや。
それは水ではなく、淡い銀色の光を帯びた液体だった。
排水しても、夜になるころにはまた満ちている。どこからか、別の場所から、溢れてきているようだった。
どれだけネットで検索してもこの現象の解は見当たらなかった。
ただ、もう過疎状態になっている古い掲示板で、このような書き込みを見つけた。
「とても遠い宇宙のどこかでは、死んでしまった星の記憶が溢れ続けている。それが流れ込む場所がある。人の意識。空の色。場所。やがてそれらは涙となって溢れてくる」
──夜。
鏡は割れていた。
細かく走ったひびから、涙が溢れていた。
銀色にうっすらと光っている涙は、徐々に床面に拡がっていく。
私の素足が、奇妙にぬくもっている涙に浸る。そして、視界が揺れてきた──。
涙がこぼれる。
私は少し、目を閉じた。
星々の記憶が、頭の中で像を結ぶ。
この地球に漏れ出してきている宇宙の涙は、星が死ぬたびに、記憶を重ねるたびに、どこかに溢れてくる。
涙となってこぼれる。
今夜も、地球上のあらゆる場所で、星々の記憶が泣いている。
やがて、このまま、私も記憶の一部と化す。




