1:施設に入るか、俺と来るか
同僚が死んだ。
交通事故らしい。もうすぐ結婚十年目になる嫁と一緒に、七歳になる前の子供を守って死んだ。
たいそうなことで。
遺影の夫婦は、どこから見ても幸せそうな満面の笑みを浮かべている。
自分は、その顔がどうにも気に入らないまま、二度と口もきけなくなってしまったことに、不本意ながら実感が湧かずにいた。
本来であれば、葬儀などは親族のみで行うものだと思うが、どうやらその親族に守銭奴……もしくは底抜けのお人好しがいるらしい。狭い会場に、関係者らしき人間が次々と香典を置いては出ていく。
自分もその一人だ。このために、会社は部署単位で休暇を出してきた。
「なあ、あいつはどうするんだ」
そんな声を聞き流す。どうやら、ひとり残された子供の処遇についてらしい。
何もここで話さなくてもいいだろうに。守銭奴はいるのに、保身者はいないのか。
そういえば、と、親近者の席に目をやる。
親という立場の人間が子供を残して死んだというのに、子供の泣き声が聞こえない。子供の心理についてはあまり詳しくは知らないが、世間一般で言う『普通』なら、泣きわめいたり、棺から離れなかったりするものではないのだろうか。こうも静かだと、さすがに異様に感じる。
「聞いたか?」
隣に座った男が言う。こいつもまた同僚だ。
「何を」
「あの子供。さっきからジジババが何かと理由つけて押し付けあってんの。本人の前で。やべえよな、漫画みてえ」
へらへら笑うそいつの横腹を「笑うな」と肘でつきながら、もう一度、親近者の席へ目をやる。
……いた。
やたらと背の高い男に隠れて見えなかったが、確かに、子供がひとり、大人しく椅子に座っていた。
床についていない足は、重力に抵抗することなく、だらんと垂れている。同様に顔も下を向いたまま微動だにせず、こちらからは表情が見えない。
だが、さっきから立ったまま子供の処遇を話す大人は、その子供を見向きもしていないのは確かである。
…………かわいそうに。
親が死んだことが、ではなく。
腐っても血のつながった人間から、まるで邪魔者みたいに扱われてしまったら、そりゃ、黙ってうつむいてたくもなるよな。
やってられないだろう。自分だけが、世界そのものに置いて行かれたような気分のはずだ。
「…………」
瞼の裏に一瞬よみがえった自分の過去に、頭を一度、横に振った。
自分の体躯が影を落とすと、椅子に座ったままの子供が顔を上げた。まだ幼いからだろうか。男だと聞いていた割には、りんかくや目は丸いように思う。
一番近くにいた男が、「なんだお前」と肩を掴んでくる。
それを無視して口をひらいた。
「……帰りたいところはあるか」
子供の目玉がころりと揺れる。ビー玉のようだと少し思い、そういえばラムネ瓶の中のものはエー玉だったな、ならば例えはエー玉が正しいななど、至極どうでもいいことを思い返した。
「…………おとうさんと、おかあさんのところ」
「そうか。残念だが、それは無理だ」
ぽつりと答えた子供に、きっぱりそう切ると、彼は息をのんでズボンを握りしめる。周りが少しざわめいた。
「お前が両親と呼んでいい人間はもういないし、誰も代わりにはなれない。それは分かるか」
少し時間をかけて、子供がうなずいた。聡い子供だ。
「だからこそ……って言うのも変だが。お前は無理にでも『帰りたいところ』を新しく選ぶ……探す? ……見つける必要がある。その権利は、ひとえにお前にしか与えられていないが、誰かに譲渡……任せたところで、お前には損しかないと考えている」
今度は少し首をかしげた。難しかったらしい。
「ほら、やっぱ母さんが面倒みてあげるべきだって。まだあんな小さいのに。代わりは無理でも、女親はいた方がいいよ」
男が、自分の肩を掴んだまま、そう老婆に言った。
「そうは言ってもねえ、うちはもう爺さんもいないし、私ひとりでは体だってもたないよ」
「今回のお香典で、お金はたっぷりあるんですよね? お義兄さん方の保険金だっておりるのでしょう? シッターでも家政婦でも乳母でも、雇って差し上げればいいのでは?」
「そうおっしゃるんなら、そちらで見てくれたって、」
「冗談はやめてくれ、うちにはもう二人も子供いるんだぞ」
「それならいっそ、施設でも探します?」
「そうねえ、近くの、調べてみようか」
……ああ、本当に。
舌をひとつ打つと、男が怪訝な顔をして肩から手を離した。
「わかった、簡単に言ってやる。お前はどちらかを選ぶだけでいい」
―――施設に入るか、俺と来るか。
男が「は?」と声をあげた。後ろで同僚が口笛を吹いた。
子供は、ただでさえ大きな目を更に見開いて、自分の腹に顔を埋めた。そして、ようやく、声をあげて泣き始めた。
途切れ途切れの声は、すぐにしゃくれて、ほんの少し泣いただけで枯れた。
泣くのが、とても下手な子供だった。