第1幕『金はある。でも使えない』
街に着いたのは、翌日の昼過ぎだった。
昨日までいた神殿都市——あの厳かで広大な空間と比べると、この街はだいぶこぢんまりしている。
それでも、門の外からでも人の声が聞こえてくるし、煙突からはあちこちで煙が上がっていた。
街は生きてる。そんな空気が、風に混じって流れてくる。
石壁は低めで、門も木造で簡素な造り。
脇には見張りの兵士が一人。あくびを噛み殺しているのが見えた。
「……なるほど、こういうとこなんだ」
思わず、ぽつりと呟いた。
昨日、ルルが見せたあの目。
寂しさと覚悟がにじんだ声で、「途中で逃げてもいいからね」なんて言ってくれたのが、まだ耳に残ってる。
でも、オレは来た。
この道を選んだ。重たい剣を背負って。
少し怖い。けど、それ以上に——
この景色は、どこかワクワクする。
木造の建物が並び、あちこちから焼き菓子や果実の香りが漂ってくる。
市場では誰かが大声で呼び込みをしていて、子どもたちが路地を駆け抜ける。
空は広く、風が通り抜けるたびに、どこか懐かしい音がする。
「これが、“世界を旅する”ってやつか……」
今まで、何かを“目指して”動いたことなんてなかった。
だけど今は、この足で世界を踏みしめてる。たった一歩でも、それがちゃんと、自分の意思なんだって感じられる。
ちょっとだけ、背筋を伸ばす。
門をくぐって、少し歩いたところに、いくつか屋台が出ていた。
昼下がりの街に、焼きたての香りが漂う。
広場の片隅、小さな屋台。
棚に並ぶパンの間から、果物やチーズがのぞいている。どう見ても、うまそうだった。
「よし。とりあえず、腹ごしらえしよう」
ルルから渡された袋を開くと、中には金貨が5枚。
「……これ、金貨か? ってことは、まあ……5枚って、少なくはないけど、そんな贅沢できる額でもない、よな? たぶん…」
正直、この世界の物価なんて知らない。
でも、日本で言うなら万札5枚とか、そんくらいか。
「慎ましく使えば、数週間はもつ……。いや、宿とか考えたら、そんなには無理か」
小さな袋を手のひらで転がしながら、ひと息ついた。
「魔王をどうやって倒すかもそうだけど……まずは、身の振り方も考えないとな」
背中で声がする。
《人型実体には、定期的な物質補給および、恒常的な環境下での休養が推奨される。精神機能の安定維持においても、これは重要だ》
「……わかってるってば。言われなくても。……一応、考えがないでもない」
セブンは続けて何も言わないけれど、たぶん今の言い方には納得してない。
とは言え、飲まず食わずってワケにもいかない。
「すみません、これと同じのを一つ」
そう言って、金貨を一枚差し出すと——
パン屋のオッサンが、その瞬間、明らかに動きを止めた。
「……は?」
眉間にしわを寄せて、オレの顔と手元を交互に見つめてくる。
「おい、にいちゃん。何だコレ」
「え、いや……金貨、ですけど」
「そりゃ見りゃ分かる。問題は、これでパンひとつ買おうってその神経だよ」
ぐい、とカウンター越しに身を乗り出してくる。
「どこのもんだ? ……常識、ねえのか?」
「……すみません、ちょっと、最近こっち来たばかりで……」
内心めちゃくちゃ焦りながら答える。
オッサンは呆れたように舌を鳴らし、金貨をそっと突き返してきた。
「ったく……こんなん、釣り出せるわけないだろ。
うちの1ヶ月分の売上より重ぇんだぞ、それ」
まじか。そんなに?
「セブン……通貨単位の感覚って、お前は知ってたりする?」
《該当領域に関する情報は蓄積中。現時点では不完全》
「だよな。お前、超古代の遺物だもんな……」
おずおずとオッサンに尋ねる。
「あの、金貨一枚って、だいたいどのくらい……」
「ひと家族が4ヶ月くらい飯食って暮らせる。節約すりゃもう少し保つな。……わかったら、早くしまっとけ」
てことは……金貨1枚で100万くらいか?
マジかよ…。
ルル、渡すときに「少ないけど」とか言ってたけど、
あいつの金銭感覚どうなってんだ……。
「……おいセブン。ルルって、もしかして世間知らずなんじゃないか?」
《統計情報が不足している。断定にはさらなる観測が必要》
「いや、これ完全に世間知らずでしょ。どこに初対面の相手に、何百万も路銀渡す人いるんだよ……」
——ぐぅぅぅ……
思わず腹の虫が鳴いた。
……うん、恥ずかしい。今じゃなくていいだろ。
オッサンが、ちらっと視線を落とす。
「……おい」
「は、はい」
ごそごそと棚を探る手。
少しして、小ぶりのサンドイッチを一つ、紙に包んで差し出してきた。
「金は要らねぇ。いいから、食っとけ」
オレは、一瞬だけためらって——深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。助かります」
受け取ったサンドイッチは、まだほんのり温かくて、パンの匂いがちゃんと“焼いた手の味”がしていた。
ベンチに座って、ひとくち。
ああ、ちゃんと“こっちの世界”の食べ物なんだ。そう思ったら、少しだけ現実味が増した。
とりあえず、空腹は少し落ち着いた。
「金持ちなのに、メシが買えないってどういう状況だよ……」
たぶん、宿なんかも無理だよな……。銀行…みたいな場所ってこの世界にあるのか?
——金はある。でも使えない。
ルルのところに戻って、両替を頼むって手もあるけど……。
それより先に、今はまず、やるべきことがある。
この世界が、どんな場所なのか。
オレが、どこまでやれるのか。
そのためには、まず情報。
——これからが、本番だ。
——to be the next act.