第5幕『祝勝と、滑った口』
アリスとエナの部屋を出て、渡り廊下を曲がったところで、見慣れたシルエットが立っていた。
「やあ、リクくん。ちょうど良かった」
エルド将軍だった。
石造りの柱に片肘をついて、いつもの渋い笑みを浮かべている。
「キミの部屋に行こうとしていたところだったんだが……手間が省けたな」
「何かご用ですか?」
将軍は懐からひとつの瓶を取り出した。
琥珀色の液体が、廊下のランプに照らされて鈍く光る。
「うっかり渡し忘れていたものでね。初の演習祝勝祝いだよ。……大人の贈り物さ」
手渡されたのは、明らかに高級そうな酒瓶だった。
王国の紋章が施された、分厚いガラスの封印付き。
「……あっ、オレ、酒は……」
「ああ、そうだったな。“向こうの世界の法律”では、キミの歳では酒が飲めないんだった」
「え?」
言葉が止まった。
「“向こうの世界の法律”……?」
将軍は、にやりと笑ってウィンクした。
「おっと、いけない。……歳になると、つい口が滑ってしまってな」
……そういうことか。
つまり、この国の軍部——少なくともエルド将軍は、俺の出自や俺の世界の事情を、ある程度把握している。
「……というわけで、これはお返しします」
俺は瓶を両手で押し返す。
「酒のことはよく分からないけど、安いもんじゃないんでしょう? もったいないです」
「もちろん。私のコレクションの中でも逸品中の逸品だ。
貴族の当主ですら、滅多に口にできん代物だぞ」
「じゃあ、なおさら……」
「ところで——その様子だと、監察官にはもう会ったんだろ?」
俺が「は?」と顔を上げると、将軍は確信めいた口調で続けた。
「そして、その監察官は“セレス・ヴェルスタン”くん。……違うかね?」
「……あ、そうですけど」
「うむ。狙い通りだ」
将軍は満足げに頷いた。
「……正直、将軍の部下とかなら助かったんですけど」
「いや、監察官まで私の身内にしたら、かえって軍部内で警戒される。
“私がキミたちを独占している”という構図を避けたくてね。
逆に、少し距離がある者に“手綱を握らせてるフリ”をする方が、全体として動きやすくなる」
「……つまり、手綱を“引っ張らせる”気はない、と?」
「もちろんだとも」
将軍は朗らかに笑って、酒瓶を指で軽く持ち上げた。
「セレスくんの配属には、我ながら策を弄したよ。
私は彼女の上司に、自分の部下を“猛プッシュ”してみせて、渋々引き下がった。
ちゃんと苦々しい顔もしたさ。周囲に“あいつは納得してないな”と印象づけるためにな」」
口元が、わずかに引きつる。
この人、ほんとに“老獪”だ。
「その上で、“監察官は優秀な女性士官にすべき”という提案を、さりげなく通しておいた。
あの子は貴族の次女で、前線経験こそないが、座学と実技は常に上位。文句なしのエリートだ。
報告書の数字しか見ず、兵たちの人柄に興味のない連中にとっては、信頼できる優秀な監察官だよ」
「でも……実際の人柄って意味では?」
「ふふ。キミなら、もう分かっただろう?」
既に俺の中では、残念美人・ハレンチ妄想マシン、というラベルで固定されている。
「今日は彼女の歓迎会でもしてやりたまえ」
「はあ、まあ……」
「彼女、実は酒好きでね。任務中に飲むほど不真面目ではないが……
“ほんの一杯だけ”なら、きっと口が軽くなる」
将軍は、にやりと笑って、酒瓶を片手で持ち上げる。
「彼女も、色々とストレスが溜まっているだろう。
“愚痴”を聞いてあげるといい」
——この将軍、俺たちのことだけでなく、
監察官の扱い方まで全部お見通しかよ。
俺は、手渡された酒瓶を見つめて、苦笑した。
「……やっぱ、俺が一番警戒しなきゃいけないの、この人じゃねぇかな」




